昨日は「他者から他者へ転移する無意識の転写」のテーマの序章で、ざっくりと無意識の転写の一部の例などを書きましたが、参考⇒ 家族の役割 2・6・2の法則
実はこのテーマは個人・家族・大小の組織やコミュニティー、そして社会・国・世界の無意識とも関連し、つまるところ人類の無意識という普遍的なテーマに繋がるものでもあるのですね。
ミラーニューロン 家族の役割 2・6・2の法則などのテーマに入る前に、オカルトや精神世界などでもよく誤解されている無意識の領域の特徴について先に書きます。
このブログは科学と感性によって心・精神の病気と健康をメインに、それ意外にも、心・精神に関する様々なテーマを追求・検証するブログなのですが、
テーマを幅広く扱っていると、心・精神の病の方や一般の方、そして哲学系や科学系の方以外にも、精神世界やオカルト関連の方もちょくちょくブログをのぞきに来たりするようですね。
そして無意識の領域の特徴には思い込みを招きやすい性質があり、そのために無意識の領域がこれまでずっとオカルトや精神世界の概念で埋め尽くされ、数々の現実的な弊害や病理が生じたのも事実です。
なので今日はまずそのことをメインに書いていこうと思います。
無意識の直感機能
無意識の転写は、よく霊能者などが生霊・霊障・想念などという言葉で表現しているものの正体の一つでもあります。
霊能者や神秘主義者などは、過去の人類の素朴な感性のままにそれを自立した霊的対象だと感じていますが、それは無意識の作用のひとつに過ぎません。
幽界が消滅したなどと最近よく見かけるオカルト表現も、集合的な無意識のある領域が、近代合理主義の発達でどんどん意識化されることでその活力(マナ)を失い、
古典的な集合的な無意識の一部が昔のような生命力を持たなくなったというだけであり、幽界・霊界そのものが、そもそも集合的な無意識から現れた生成物(元型イメージ)のひとつに過ぎないのです。
無意識の転写は、感応によって起こります。 無意識レベルでは人間存在は、「気」「波動」を互いに感受し合うのです。
「気」「波動」などと書くと大槻教授やそのタイプの人がスグに怒り出しそうですが、ここで言う「気」「波動」というのは何も超越的なオカルト概念ではなく、
東洋医学・鍼灸でよく使われるあの「気」であり、そして日本でも元気、病気、短気、強気、弱気、本気、狂気、人気、景気、気概、気持ち、気性、陽気、陰気、気付き、勇気、覇気..などのように、
日常で当たり前のように感じられ直感的に語られるあの「気」のことです。
それは生理的なものであり、人には存在・対象を思考だけではなく感性で感じ取る直感があり、それらを「気」「波動」という言葉で表現しているだけです。
無意識の転写は、感応によって起こり、無意識レベルでは人間存在は「気」「波動」を互いに感受し合うわけですが、このことを精神世界の人々は霊界や次元上昇した世界の描写に例えています。
「想いがそのまま表れる世界」だとか、「波長が合う者同士が住む世界」だとか、「思ったことがそのまま相手に伝わる世界」だとか言っています。
ですが先にも書きましたが、それが無意識の領域の特徴なのであり、彼らが語る世界は彼らの心(無意識の部分)の外には存在しません。
つまり彼らの語るような霊界はなく、次元上昇した世界などもなく、どこかに彼らの語るような世界が外的に存在するわけでもありませんが、「内的には存在している」とも言えます。
そもそも「主観」といわれるものはそのようにして在るわけです。たとえば悲しみや喜びの感情そのものが物理的に存在しているわけではありませんが、内側には存在しているという矛盾したリアル感。
「存在していない」と同時に「存在している」というのが、無意識と意識の関係性であり性質でもあるのです。この「矛盾が同時存在できる特性」が認識のカオスを作り出す原因のひとつです。
意識全体の本質を一言で表すと、やはり「空性」という仏教的解釈は絶妙な表現だと感じますね。「空性」は認識のカオスが静まり意識が澄み切った本来の状態とも言えるでしょう。
意識は多重構造になっており、それは想念を生み出す源泉であると同時に、あらゆるものをそこに映す鏡面でもあるから、
そこに映ったもの(投影物)に囚われることによって、それが「存在している」ともなれば、映ったもの(投影物)に囚われなければ、「存在していない」にもなる矛盾した性質があるのです。
だから無意識から湧きおこる想念に様々なオカルト情報が投影された場合は、数々の創作的な霊的世界が作り上げられるという霊的な認識のカオスや霊的な自己肥大を生む結果になるのですね。
そこから精神世界やカルト宗教や神秘系の新興宗教などが生まれたりもする。(パクリ系の新興宗教は異なります)だからそのようなものに囚われても「カオス」はさらに増大するだけであり、無意識の統合も調和も生じないのです。
ですが無意識の領域の様々な特徴が、そのようなものを生じさせやすいのも確かなので、それを単に否定するのではなく、検証することも必要なプロセスだと感じます。
「無意識」の世界がどのように認識されて今に至ったのか、その歴史的なプロセスを簡潔にまとめたサイトを以下のリンクで紹介しておきますので参考にどうぞ。⇒ 遺伝する無意識の発見
悪想念・波動・気の正体
「気」は主観的に存在し客観的には存在しません。そして気と波動は同じものです。「元気が良い」は、あなた自身でもわかりますね、ですがあなたが元気が良いことを科学的に証明することは難しいです。
何故なら、病気や疾患が検査で見つからなくて健康体であれば、みなが元気を実感しているか?というとそうではないからです。
科学的に分析して健康体であっても、元気の実感が湧かない状態は多々あります。元気は「実感」と共にあり、それは体を含めた心全体が感性によって感じ取る主観だからです。
その意味で想念、そして悪想念というものも存在します。ですがそれが単体で外に抜け出して誰かに影響をもたらすということは僅かの作用でしかありません。いわゆる念力というものは本来は微小な影響力しか持っていません。
それがよく検証出来る場は、ホームとアウェーでの試合での想念の温度差と現象の比較ですね。アウェーで、対戦国の熱狂的なファンに囲まれ、そして国の威信をかけて戦う選手たちの想念、この合計の想念を浴びて試合する場合と、ホームでは全く違うでしょう。
ですが熱狂的な何万人の想念の総合力でさえ、ボールひとつ動かすことは出来ませんし、心理的効果以外では微小な影響力しか持っていないのです。
心理的効果以外に微小な影響力はあるのか?と思われるかも知れませんが、それはほんとに微小ですがあります。
例えばあなたが十万人に取り囲まれ、そしてその十万人があなたを本気で憎んでいるとしましょう、この時、場の状況における心理的な恐怖や不安以外にも、あなたの無意識は十万人の本気の憎しみの想念を感受します。
それによって体の力が抜けたり足が震えたり身体が委縮したとしても、だからといってあなたを想念だけでは呪い殺せません。十万人の本気の憎しみでさえその程度です。
ただ、「あなたが本気で呪いを信じて思い込んでいた場合」はそうではありません、自己暗示による負のプラセボ効果が威力を発揮することはあります。
まぁどちらにせよ「相手の力」ではなく、「あなた自身の思い込みの力」があなた自身に否定的な現象を引き起こしてしまうわけですね。なので、そういう否定的なまやかしの力は信じない、という態度は持っていた方がよいでしょう。
また脳波なんていうものは物凄く微小なものですので、念力を脳波で説明しようとしている方もたまにいますが、それも無理があります。脳波だけでは物理的な作用といえるだけの現象は起こせません。
このように、無意識下では想念の影響をあなたは受けることになります。無意識下ではその想念という情報を感受しているからです。
なので想念が力を持つのは無意識に対してであり、そして自分の想念が自分自身へ与える影響力は、もちろん他者へ向けた想念の作用よりも遥かに強力な作用を持ちます。
私たちは自身の想念で自身の無意識に強力な作用を与えることが出来ます。それは良い意味でも悪い意味でもどちらでも可能です。
オカルト・精神世界・そしてカルト宗教などに囚われた人は、無意識の領域内での作用を「霊的な概念」に置き換えてしまい、思い込んでしまっているため確証バイアスがかかります。
確証バイアスによって「内的現象」にオカルト的な記憶情報が無意識的に投影されるようになり、その結果、無意識の領域から生まれた自作自演の「内的現象」を「外側の世界の現実感覚」と同一視するまでに確信化してしまいます。
悪魔・動物霊・生霊・電磁場攻撃・サイキック攻撃・霊障・教祖の霊力などが、あたかもそれ自体で存在しているリアルであると思い込むように、錯覚と現実が区分けできなくなるのです。
そして「無意識下での相念の影響・作用」は「気」に影響を与え、「気」に影響を与えることで心身に影響を与えます。ですので心・精神の病気や健康、そして幸福 ・不幸というテーマにおいても関係は深いのです。
この辺りが例えば引き寄せの法則などの原理の本質でもありますね。自身の想念を変えると、気・波動に変化が生じます。それが心身に変化を生じさせ、また対象の無意識にもそれが伝わることで変化を起こすというものです。
ですがそれはそれだけで全てが起こせるというような概念ではないんです。なので引き寄せの法則を過剰に信じるのもやめた方が良いでしょう。
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