今回のテーマは「統合失調症 - 病の定義と治療の在り方についての疑問」のパート2です。必ずしも「統合失調症」に限らない話で、精神医療・医学と組織運営・システムへの疑問のひとつです。
前回⇒ 統合失調症 - 病の定義と治療の在り方についての疑問
人が狂っているような姿は普通はあまり沢山見ないものなので、狂っている感じの人をたまに見た時、「あっこの人狂ってる」って誰でもわかりますよね。
では狂っている状態は全てが不健全で、狂っている状態でなければ全てが健全なのでしょうか?
このことを理解するためには、「何をもって健全な精神なのか?」「健全な精神の構造はどうなっているのか?」が明確にされていなければなりませんが、「精神の健全さ」という絶対的な状態が実証されているわけではありません。
「正常さ」「まともな状態」というものは価値基準を含んでいるので、単純に物理的状態のみでは決まらず、時代によっても「正常」「まとも」という価値基準は変化します。つまり相対的なものなんですね。
しかし、「健康と人格」というものがどういうものか?に対して多くの学者が論じていて、その中でる世界的に知られる7名の学者のそれぞれの「理想的な人格像」を要約したPDFを紹介します。
オールポートの「成熟した人間」、ロジャースの「完全に機能している人間」、フロムの「生産的人間」、マズローの「自己実現する人間」、ユングの「個性化した人間」、フランクルの「自己超越した人間」、パールズの「“いま” “ここに” 生きる人間」の七種類の人間観がまとめられています。
PDF ⇒ 健康な人格象
「人格」というものは静的な固定的実体ではなく、社会・関係性によって規定される相対的な性質のものであり、「主観を排して客観的に見る」とかなんとかいっても、本質的には価値判断を超えることはできません。
「(厳密に科学的な意味での)健全な精神の見本モデル」を客観的に事実判断することはできないでしょう。
ですが、「絶対ではない」、「純粋に客観的ではない」からといって、「相対的には明確な差異がある」、「主観性を完全には排せないが明確に確認される正負の精神状態や症状がある」ことを無視して考えるのも極端でしょう。
とりあえず「精神障害がおきていない人々」を一応「健全な精神」ということに仮定し、鬱や統合失調症、その他の精神障害の「重い症状」などがある種の病気であることを認めたとしても、
例えば歴史上に於いても、統合失調症やある種の精神障害があったと推測される天才・偉人は決して少なくありません。 実際かなりヤバそうな人も結構いますね。
人類の英知や偉大な働き・才能などが、ある種の狂気的なパワーから生まれてくる場合も少なくないんですね。 私達がそういう「病んだ」人々から様々な事を学んでいたりもします。
数多くの病的な人々の生み出すものに私達は支えられ感動し、そのような人々が政治・科学・芸術・文化の各方面に貢献したことによって、私達は多くの恩恵を受けているわけです。
世間に一番多い普通のサラリーマンの現実感覚が「社会の正気」の基準ということであれば、感性が非常に鋭い芸術家なんて、みんな「ある種の精神障害」という感じになってしまいますね。 もちろん宗教家なんてその筆頭になるでしょう。
ですがこういう差異は、個体における能力や感性の現れ方の差ではないのか?と思えることが殆どなわけです。 人間は本来、感性や能力においてそんなに完全に均一化された生き物ではありません。
人間の感性や価値感を均一化するような働きかけは、単に社会や企業組織からの要請に過ぎないことも実際は多いですね。
そして社会や企業組織からの要請にカッチリ適合しない「不均一さが目立つ人」を全て「精神の病気」と決めつけることは全く適切なことではないでしょう。
また、ある人間が突出した能力・感性・創造的パワーを持つ時、それが「世間の普通」に対して斬新であればあるほど、世間はその人物に対してある種の異常性・狂気性を感じることがあります。
それはその人物が 「普通」ではないからという、ただそれだけの理由でそう思われることもあるのです。
「普通」とは、ある環境・場の全体の多くの割合を占めている均一的なものであり、「普通」という状態そのものが別に悪いのではなく、
この「普通」という均一状態が、ある環境・場の中に在る「普通でないもの」を均一化させようと干渉してくるのが良くないのです。
これが明らかに犯罪的な異常性などであればそれは仕方ないことですが、ある環境・場の中に在る「普通でないもの」がそのようなものとは全く異なる場合、それらが有しているかもしれない創造性や感性の本来の可能性を潰すことに繋がるのですね。
感性や能力、考え方が人と圧倒的に違う、あるいは何かが突出していて目立つだけで「奴は頭おかしい、邪魔な存在だ」とされるような閉塞的な環境では、
均一化ばかりが進み、ますます「感性の幅、思考の幅」に許容量がない排他的で非創造的な社会になっていきます。
つまり創造性も可能性も閉塞した社会的状態・空気感とは、社会自らが社会の可能性を潰しているような社会ということなんですね。
何かを定義・概念化することは確かに必要なことではありますが、定義・概念化することでそのものの全体性を逆に失い、特定の印象だけが思い込みとなって一人歩きすることは多々あります。
心の病は正しく治療されているか?
「統合失調症」とどう向き合うのか?ということにおいてもそれは同じでしょう。単に異常ということでしかなく「百害あって一利なし」的に事務的に処理するようなものであって良いのであろうか?
このような疑問は実際、現場で働く精神科医そのものからも起きています。「精神を病んでいる人間のため」という取り組みが失われた形式的な精神病院の在り方に危惧されている専門家もいるのです。
個々の患者の症状の独自性に注意深い観察や対応が行われるのではなく、「多忙で経営上の制限・制約もある中で場数をこなす医療現場」において、
「人間の心」への配慮に欠けた事務的でマニュアル的な画一化した段取りで進められ、拘束、隔離、急速鎮静が一方的に行われている現場もあると聞きます。そしてこれは「精神科特例」などのシステム上の問題も含んでいます。
ただこういう極端な傾向性は、現在は昔よりはよい方向に向かっていること、様々な試行錯誤や努力も確認されます。
以下に、「精神科病院には、患者の権利を守る第三者が必要」、「精神科への長期入院3.9万人削減を目標 厚労相、20年度まで」の二つの外部サイト記事を引用紹介しますね。
2017/6 追加更新記事 – ここから –
「精神科病院には、患者の権利を守る第三者が必要」 より引用抜粋
日本の精神科医療、とくに入院医療には大きな問題がいくつもあります。中でも重要なのは、患者の人権です。
人身の自由を奪う強制入院がかなりあるし、本人の同意に基づく任意入院でも、保護室などに閉じこめられる隔離や身体拘束、電話・面会・外出の制限が少なくありません。職員から暴力・暴言を受ける場合もあります。
ところが、患者の味方になって権利を守る人を派遣・配置する制度がない。これは精神科医療の最大の欠陥だと思います。
国会審議中の精神保健福祉法改正案について、政府は「監視ではなく、患者への支援を強化する」と強調していますが、それなら権利擁護の仕組みを本気で導入するべきではないでしょうか。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
「精神科への長期入院3.9万人削減を目標 厚労相、20年度まで」より引用抜粋
厚生労働省は、統合失調症などで精神科に長期入院する患者を2020年度末までに全国で最大3万9千人減らす目標を決めた。日本の精神科入院患者数は国際的にも高水準で、1年以上の長期入院は14年現在、18万5千人に上る。
少人数で生活するグループホームなどを整備し地域社会で暮らせる人を増やす方針だ。
長期入院は過去の隔離収容政策の影響が一因で、人権上の問題が指摘されている。以前にも減らす目標を掲げたが達成できておらず、実現には財源の確保のほか、医療関係者の協力や住民の偏見の解消が必要になる。
(中略)
厚労省は04年に示した精神医療の改革ビジョンで、10年間で約7万床を減らす目標を掲げたが、調査した02~14年に減少したのは1万8千床にとどまった。
〔共同〕- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
追加更新 – ここまで –
アメリカでは 「身体拘束で 毎週1~3人が 死亡する」と言われます。ではここで、エリン・サックスさんよる「 精神疾患についての内側からのお話」のTED動画を紹介します。
「病院に連れて行けば常に適切な治療と対応がされる」という思い込みも危険でしょう。「人権」も「配慮」も大事でしょう。
しかし同時に「じゃぁ社会の方はどうなんだ」といえば、結局は「精神科に全てを押し付けて批判だけしてないか?」と言われても仕方のない部分はあるでしょう。
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