原因を求めれば、その原因の原因が必要になります。どこかで停止すれば、その停止点自体の根拠が問われます。循環によって説明すれば、その循環構造そのものの成立条件が問題になります。
つまり、「何かがいつ、何によって生じたのか」という発生的な説明だけを求める限り、根拠づけの問題は解消されません。
そこで、別の説明形式を導入する可能性があります。それが、「発生的説明」と「構成的説明」の区別です。
通常、私たちが原因を問うときには、発生的説明を求めています。つまり、「それはいつ始まったのか」「何が原因となって生じたのか」という問いです。
例えば、ある出来事が起きた場合、その直前の原因を探し、さらにその原因を探していくという形です。しかし、この方法を存在そのものへ適用すると、必ず問題が発生します。
なぜなら、存在の最初の原因を求めた瞬間、その原因もまた説明を必要とする対象になるからです。
そこで、別の視点として、「それは何によって発生したのか」ではなく、「それはどのような構造として成立しているのか」を問う方法があります。これが構成的説明です。
構成的説明では、時間的な先行関係ではなく、ある構造が内部的にどのような整合性を持って成立しているかを問題にします。
構成的説明の例として、不動点の考え方があります。数学では、ある操作を加えても変化しない対象があります。
例えば、f(x)=xを満たすxは、その関数による変換の中で自己一致しています。ここで重要なのは、そのxが「いつ生成されたのか」を問わなくても、構造上成立しているという点です。
つまり、その存在理由は時間的な原因ではなく、関係構造そのものの内部にあります。
同様の発想は、自己言及的構造や、スピノザの「自己原因」という考え方にも見られます。もちろん、これらがそのまま存在論的解決になるわけではありません。
しかし少なくとも、「すべての存在には必ず時間的な第一原因が必要である」という前提を再検討する契機になります。
ではここで一曲紹介。Marnie Laird(ピアノ)、Patrick Laird(チェロ)で、Canon in D (Pachelbel’s Canon) です。この変則バージョンもとても好きです。二人は夫婦なんですね、間合いが自然体。
生成地平哲学― 世界・意味・主体はいかに成立するのか ―
私たちが世界について語るとき、その語りは必ず人間の認識能力、言語、概念、身体、社会的実践を通しています。「石がある」と言う場合でも、そこにはすでに、何を一つの物として数えるか、どこまでを同じ種類とみなすか、何を対象として切り出すか、という判断が含まれています。
では、私たちが認識する以前の世界とは何でしょうか。
「世界は人間がいなくても存在する」と言えば、それを語るためにはすでに「存在」という概念を使用しています。他方で「世界は人間が構成したものにすぎない」と言えば、人間とは独立した抵抗や制約——なぜ石につまずくと痛いのか——を説明できなくなります。
つまり、世界は完全に主体から独立しているという立場も、世界は主体によってのみ成立するという立場も、それぞれ困難を抱えます。
生成地平哲学は、この二択に対して第三の方向を提案します。それは、世界・主体・意味は、最初から完成したものとして存在するのではなく、相互関係の中で成立していくという考えです。この成立の場を、ここでは生成地平と呼びます。
生成地平とは何か
生成地平とは、宇宙の底に存在する「究極的な物質」でも、「意識以前の神秘的な基盤」でもありません。それは、何かが存在するものとして理解され、意味を持ち、区別されるための成立条件の総体を指します。
一つの石を考えます。物理学的には原子や粒子の集合として記述できますが、「石」という一つの対象として扱うためには、境界・同一性・種類・持続性という概念が必要です。
「石」という存在は、単純な物質だけでも、単純な人間の想像だけでもなく、物理的過程と認識的構造の関係の中で成立します。生成地平とは、この成立関係そのものを指す名前です。
生成地平は究極的な基礎ではない
ここで重要な注意があります。生成地平哲学は「すべての根底には生成地平というものが存在する」とは主張しません。その瞬間、生成地平自体が新しい「物」として扱われ、「では生成地平は何によって正当化されるのか」という、以前と同じ問いが再発するからです。
どんな主張も、その根拠を求めると、さらに根拠を求め続ける(無限後退)、最初の根拠に戻る(循環)、どこかで説明を止める(独断)のいずれかになります。
これをアグリッパのトリレンマと呼びます。生成地平哲学は、この問題を解決したとは言いません。むしろ、究極的な無条件の基礎は得られないという制約を、自分自身にも適用します。
「生成地平」という語自体にも、発生条件・成立条件の区別が、他のどんな概念にも劣らず当てはまります。この語は、この文章が書かれ読まれるという出来事、日本語という言語、これまでの哲学的対話という、具体的で偶然的な発生条件を持ちます。
生成地平哲学の方法:基礎ではなく関係を見る
生成地平哲学が重視するのは、「最も根底にあるものは何か」という問いではなく、「あるものが、どのような条件のもとで成立しているのか」という問いです。
主体について考えます。主体は最初から存在する独立した中心ではありません。身体、記憶、環境、他者との関係、言語、行為能力などが結びつくことで、主体としてのまとまりが成立します。
しかしこれは「主体は存在しない」という意味ではありません。主体とは、固定された物ではなく、維持され続ける生成的な構造である、という意味です。
発生条件と成立条件
生成地平哲学では、二つの問いを区別します。
発生条件――ある概念や能力が、どのように生まれたか。数学能力なら、脳・身体・教育・言語・記憶などが関係します。
成立条件――その概念が意味あるものとして機能する条件。数学なら、証明可能性・他の概念との関係・推論体系内での位置・問題解決能力などです。
この区別によって、「数学は人間が作ったものだから単なる幻想である」という結論を避けます。人間的条件から生まれたものでも、成立後には内部的な制約や規則を持つからです。
この区別自体もまた、この区別を使う哲学的伝統——フレーゲ以来の意味と指示の区別、発生論と正当化論の分離——という発生条件を持ちます。
それでもこの区別が有用なのは、普遍的に正当化されているからではなく、局所的に、区別を導入する前より明晰に思考できるようになるからです。本哲学は、この区別を含むあらゆる道具立てについて、普遍的な正当化ではなく局所的な有用性を基準に採用します。
論理と数学の普遍性について
異なる知的生命が存在した場合、同じ数学に到達する可能性はあるでしょうか。生成地平哲学は「数学は人間だけの作り話である」とは言いません。むしろ、異なる知的存在が同じ数学に到達するなら、それは、世界の構造的制約・認知システムの制約・問題解決上の必要性が収束する結果として説明できる、と考えます。
ここで一つ、体系全体を貫く形式的な制約を明文化します。
ある現象が、ある枠組みによって「説明可能である」ということは、その現象が実際にその枠組みの記述する通りに生じている、ということを含意しない。
「収束は環境的制約への適応として説明できる」ということは、「収束は実際にそうである(独立実在によるのではない)」ことの証明ではありません。
同じ理由で、実在論側の「これほど独立した測定が一致するのは、独立実在を措定しない限り説明できない」という論法(奇跡論法)も、同じ強さでは成立しません。デュエム=クワインの決定不全性テーゼが示す通り、同一のデータに対して複数の対立する枠組みが等しく整合的でありうるからです。
本哲学は、自らの説明力を、自らの真理性の証拠としては使いません。これは、この体系がこれまでの検討の中で最も繰り返し陥りかけた誤りへの、明示的な自己制約です。
論理的実在論との関係
論理的実在論とは、「論理法則や数学的対象は、人間とは独立して存在する」という立場です。生成地平哲学は、これを否定するとは主張しません。「論理は主体独立に存在しない」という主張もまた、一つの哲学的立場にすぎないからです。
生成地平哲学が指摘できるのは、論理的実在論もまた、存在・独立・真理・対象という、主体によって構成された概念を使用しているということだけです。実在論者はこれに対し「装置は使うが、装置が指すものは独立だ」と答えられ、この応答は論理的に閉じており、破れません。
したがって指摘できる範囲を、正確に次のように限定します。論理的実在論も生成地平哲学も、主体を経由せずに主体独立性そのものを確認する手続きを持っていません。
実在論はそれでも独立性を信じることを選び、生成地平哲学は確認できないことを理由にそれ以上の根拠を与えないことを選びます。これは信念の選択の違いであって、証明による勝敗ではありません。両者は、現在得られるいかなるデータに対しても、対称的に整合的な、決定不能な二つの説明枠組みです。
真理について
生成地平哲学では、真理を単なる「安定した信念」とは考えません。誤った思想や制度も長期間安定することがあるからです。重視するのは、誤りを発見できること、修正できること、より広い状況に対応できることです。
ただし、自己修正できることが、そのまま真理を保証するわけではありません。 自己修正する体系でも、収束せず堂々巡りを続けたり、誤った方向へ発散したりする可能性は論理的に排除できません。
したがって、自己修正可能性は真理の定義ではなく、真理を追求する能力についての比較的な基準——反証を受け付けない教条的体系より、自己修正可能な体系の方が真理を追跡する能力に優れている、という限定された主張——として位置づけます。
倫理について
生成地平哲学では、倫理を「自然界から自動的に導かれる命令」とは考えません。事実からそのまま価値を導くことはできないからです(事実と当為の峡谷)。
本哲学が言えるのはこうです。もしある主体が、自らの生成可能性の持続を望むならば――これは経験的な一般化ではなく、主体に帰属させる目的の想定です――他者の生成可能性を破壊することは、その目的と整合しません。したがって倫理とは、この想定された目的のもとでは、生成可能性を維持・拡張する方向として理解できます。
これは「すべての人に無条件で強制される絶対命令」ではなく、一定の目的を共有することを選んだ主体に対してのみ働く、条件付きの規範です。この限定を外して無条件の道徳的拘束力を主張することは、本哲学の範囲を超えます。
AIと意味
AIが意味を持つかどうかは、「身体があるかないか」だけでは決まりません。重要なのは、環境との持続的相互作用、自己モデル、長期的目標の維持、自己修正、他者との規範形成、自分自身の状態変化への内在的関与です。
現在のAIは高度な情報処理能力を持ちますが、生成地平哲学の観点で問われるのは、意味を単に操作するだけでなく、意味が自分自身の存続や行為に関係する生成過程を持つかという、程度問題です。
これは体系の定義上の帰結であり、体系の外にある特権的な人間中心主義の主張ではありません。将来、あるシステムがこれらの条件を十分に満たすなら、それを意味の主体として扱わない理由は本哲学の内部にはありません。
生成地平哲学とは何か
生成地平哲学は、「世界は人間が作る」とも、「世界は人間から完全独立した完成品である」とも単純には言いません。主張するのは、世界・主体・意味・論理・真理は、それぞれが独立した最初の要素として存在するのではなく、相互関係の中で成立していくということです。
同時に、この哲学自身も例外ではありません。生成地平哲学もまた、特定の時代・言語・身体・文化・哲学的伝統の中で成立した一つの理論です。したがってこの体系は自らを絶対的真理とは位置づけません。
もしこの体系のどこかに、なお気づかれていない「密輸入された基礎」が見つかるとしても、それは本体系固有の失敗というより、言語によって基礎づけを語ろうとする、あらゆる試みに共通する限界の、もう一つの現れです。
生成地平哲学とは、世界の最後の基礎を発見する哲学ではなく、世界・意味・主体が成立する仕方を、自己自身もその内部に置きながら分析し続ける哲学です。
