日本テーラワーダ仏教協会の編集局長である佐藤哲朗 氏の動画、2時間ほどありますが、作業しながら聴きました。➡ 社会学者がふしぎな「オレ仏教」を語る理由|深夜対談(星飛雄馬✕佐藤哲朗)
動画で、橋爪大三郎氏や宮台真司氏といった社会学者の「仏教語り」に関して語られていますが、あまりよく知らないので何とも言えないですが、動画内で佐藤哲朗さんが「面白ければいいんでしょうね」とやや嘆いて語っている通りだとしても、まぁ非仏教徒の仏教語りなんてそんなものだろうし、それ自体は良くも悪くもないでしょう。
いや、そもそも仏教学者たちにも学説対立の構図があり、ほんとうにわかっているのか?という疑問は尽きない。それはともかく「そんなもの」である非○○者や大衆をどこまで巻き込めるかということを忘れると、その分野は先細りの運命です。
仏教は修行及び高度な哲学体系である一方、民間信仰・儀礼・物語・生活習慣としても広がってきたので、そこを切り離せない。「なんかよくわからないけど有難いお話にように感じる」、そんな素朴な信心を入り口にする気概、懐の広さがないから、「だから小乗は!」とか言われてしまうわけです。
実際には「小乗」は多様な部派を含むため、一般化できるような対象ではないけれど、「小乗」にかぎらず人はそうやって一般化するのです。
たとえば「だから人文系は!」「だから社会学は!」も似たようなものでしょうし、「トランプ支持者は○○だ!」みたいなものだって同じです。共通しているのは、「差異や複雑さが捨象され、現実には多様であるものが、あたかも同じ一つの性質を持つものとして扱われる」という構造です。
しかし「一般化」は完全に避けられない。人間は複雑な現実をそのまま処理できないので、何らかの抽象化をします。専門家も研究者も、対象を分類し、傾向を述べ、類型化します。
概念化とは差異を一部捨象する作業でもあります。また大衆的な雑な一般化にしても、学者も専門家も専門外のことにおいてはよくやっています。
そして「他者のそれには敏感だけど己のそれには鈍感」という傾向が強い人が目立つと、「だから人文系は!」「だから社会学は!」とか言われてしまうのです。
もちろん、それ自体も一般化です。しかし、そのように見られる振る舞いをする人が一定数いることも事実でしょう。身内には甘く、党派性で擁護ばかりして自覚や反省を欠いたまま、大衆や非専門だけを問題視すれば、その印象は強まります。
正しい知識も大事、単純化せずに見ていくことも大事、学ばなければわからないことがあるのも事実です。けれども、仏教は歴史が長く、経典も多く、その内容も複雑です。非専門家や非仏教徒の多くは、そこまで深掘りしませんし、深掘りしたとしてもよくわからないことが多いのもある意味当然でしょう。
これは仏教に限らず、知識人や専門家が大衆・非専門とどう接続するかという問題でもあり、その接続が弱くなるほど、スピ界隈のように「何が確かな知見で何がそうでないのか」が見分けられなくなっていく。
そもそも、スリランカでも東南アジアでも「仏教」はパーリ語でsāsana(教え)とかbuddhasāsana(ブッダの教え)と呼ぶのが一般的でした。Theravāda Buddhismという呼称が定着し、彼らが自分たちの仏教は「テーラワーダ仏教」だという新しい自己認識を抱くようになるのは20世紀に入ってからなんです。(続く) https://t.co/cTtKcev88L
— DJ プラパンチャ (@prapanca_snares) May 5, 2026
以下の清水高志×師茂樹 の龍樹『中論』~の動画で、清水高志 氏が三島由紀夫や柳宗悦にしても仏教をたいしてわかっていないと言っているように、知識人でも「そんなもの」なのでしょう。この動画も2時間くらいあって長いですが、とても面白かったです。清水 氏の本も読んでみようと思いました。
説一切有部とは
「説一切有部」はサンスクリット語で「サルヴァースティヴァーダ(Sarvāstivāda)」といい、名称は「一切の法は存在する」という意味に解されます。ここでいう「一切」とは、主として諸法(ダルマ)が過去・現在・未来の三世にわたって何らかの意味で存在することを指します。
お釈迦さんは「諸行無常」——世のものはすべて変化し続ける——と説きました。ところがここで問いが生まれます。もしすべてが刹那ごとに消滅するなら、因果関係や記憶はいかにして成立するのか、という問題です。
説一切有部の答えはこうです。諸法は現在においてのみ活動作用(効力)を発揮するが、過去法・未来法もそれぞれ固有のあり方で存在している。だからこそ因果関係や記憶が説明できる、というわけです。
彼らは諸法の刹那滅を認めながらも、過去法・未来法の実在を主張しました。昔の出来事を想起できるのも、過去法がまったくの無ではないからだと考えたのです。
「変化する」と「存在し続ける」の両方をなんとか成り立たせようとした、精緻ではあるが緊張を抱えた解決策でもあります。
つまり時間の流れは、未来法 → 現在法 → 過去法、という順序で理解されます。ただし説一切有部は、未来が「候補として蓄積されている」とか過去が「落下して保存される」といった比喩を厳密な教理として語ったわけではありません。
重要なのは、三世に属する法がそれぞれ固有の存在様態をもつという点です。
この時間観は、現代物理学の一部の議論と比較されることがあります。相対論に由来する「ブロック宇宙論」では、過去・現在・未来が四次元時空の中に等しく実在すると解釈される場合があり、構造的な類似として参照できます。
とはいえ説一切有部の三世実有論と現代物理学の時間論は、成立背景も目的も大きく異なりますので、直接同一視することはできないでしょう。
認知の三要素と循環の問題
説一切有部では、認識の成立を根(感覚器官)・境(対象)・識(認識作用)の相互依存によって説明しました。ただし彼ら自身はこれを循環論法とは考えていませんでした。
三者はいずれも相互依存的な条件として理解され、根・境・識の因縁和合によって認識が成立するとされたのです。この構造を外から眺めると、しかし、「対象があるから認知できる」「認知があるから対象が『ある』と分かる」という問いは残ります。
どちらが先なのかという問題は、説一切有部が意図した理論とは別に、認識そのものを考察するときに浮かび上がってくる。
現代の認知科学はこの問題をむしろ正面から引き受けています。
フランシスコ・ヴァレラ、エヴァン・トンプソン、エレノア・ロッシュが1991年の共著『身体化された心(The Embodied Mind)』で提唱した「エナクティビズム」は、認知とは主体が環境に働きかけることで世界を「行為として成立させる」プロセスだと考えます。
知覚する側と知覚される側は先後関係にあるのではなく、相互に規定し合いながら同時に成立する。これは根・境・識の相互依存という構造と同型の問いを、生物学・神経科学の言葉で展開したものです。ヴァレラ自身が仏教思想との対話を意識的に行っていたのは偶然ではありません。
さらに説一切有部は諸法に「自性(svabhāva)」があると考えました。ここでいう自性とは、西洋哲学における「目的」や「本質」と完全に同じ意味ではありません。むしろ、ある法が他の法ではなくその法であることを成立させる固有の特性を指します。
龍樹はどこを突いたのか
龍樹は『中論』で、この自性概念そのものを批判します。あらゆるものは縁起によって成立する。もし自性があるならば、それは他に依存せず成立するはずだ。しかし実際には何ものも条件から独立して存在していない。これが龍樹の基本的な論法です。
「火が燃える」のは、火自身に固有の「燃える特性」があるからではなく、燃料・酸素・温度といった条件がそろったときにはじめて起きることです。原因をそのもの自身の内側に求めるのがそもそもおかしい、と言うわけですね。
これはイルヤ・プリゴジンが非平衡熱力学の研究を通して提唱した「散逸構造」の概念に関連しています。炎はまさに散逸構造の典型であり、固定した実体ではなく、エネルギーの流れの中に一時的に維持されるパターンです。
炎に「燃える性質」が内在しているのではなく、外部との物質・エネルギーのやりとりによってのみ存在できる。自性を持った実体ではなく、関係の中で維持されるプロセスです。
インド論理学の四句分別(catuṣkoṭi)で整理すると、①ある(有)、②ない(無)、③あり、かつ、ない(亦有亦無)、④あるのでもなく、ないのでもない(非有非無)、となります。
龍樹は第四句だけを採用したわけではありません。『中論』では四句すべてを究極的には否定し、いずれの固定的立場にも執着しない中道を示そうとしています。
これは「第四レンマを採用した人」ではなく、「四句分別そのものへの執着を解体した人」として龍樹を理解するうえで根幹に関わる点です。
変化が起こる場所と「空」の意味
止まっているものが動き出す。動いているものが止まる。その境目は、止まっているとも動いているとも言えません。まさに変化が起きている場所です。
龍樹の考える「空(śūnyatā)」も、これに近いところがあります。何かが空っぽという意味ではなく、固定されたものとして決まっていないからこそ、変化が可能になるということです。
もし、ものが固有の自性を持っていたら、変わることはできません。
火が条件から独立した「燃える特性」を自分の中に持っているなら、条件が変わっても燃え続けるはずです。でも実際には、燃料や酸素や温度がそろったときにはじめて燃える。これが縁起の考え方です。
ライプニッツの連続性をめぐる思索とも比較できます。同じものと違うものを完全に切り分けるのではなく、連続的な変化として考える。線を細かく見ていくと点のようなものが現れてくるが、どちらが先なのか決められない。
龍樹の「同じでも異なるのでもない」という議論は、そういう方向から見ると少し分かりやすくなります。
カルロ・ロヴェッリが提唱した関係論的量子力学では、量子系の状態は、他の系との相互作用の中でのみ定義されると考えられています。つまり、何ものとも関係しない絶対的で独立した状態は存在しない、という立場です。
この考え方は、仏教における「空」の思想と、ある種の哲学的な類似性を持っています。「空」とは単に「何もない」という意味ではなく、あらゆるものが関係性の中で成り立っており、固定された独立した実体として存在するものではない、という見方です。
ただし、(一部の文系研究者やスピリチュアルな解釈に見られるように)量子力学と仏教哲学を直接同一視することには慎重であるべきで、両者を結びつける場合は、「固定した実体という考えを問い直す」という哲学的な問題意識において、共通する視点があると捉えるのが適切です。
さらに散逸構造が持つ自己組織化能力は、系が環境との交換に対して「開いている」ことによってこそ生じます。完全に閉じた固定的な実体は平衡状態に達して変化する能力を失う。「空であるからこそ変化できる」という論点は、熱力学的にも含意のある比喩として理解できます。
瞑想体験との対応
呼吸の観察という例があります。鼻で呼吸しているとき、最初は「息をしている」としか感じられない。しかし、じっくり観察していくと、「鼻腔内部の感覚」と「温かいものが通過していく感覚」に分かれてきます。
粗く見れば「息」というひとつの現象ですが、解像度を上げていくと、温度・接触感覚・空気の動きという別々の要素の集まりとして現れてきます。
これは説一切有部が、経験される世界をダルマ(法)という分析単位へ分解していく態度と対応しています。ただし説一切有部では、このダルマを最終的な実体として理解する傾向がありました。そしてその先に龍樹の「そのダルマにも自性はない」という批判が待っているわけです。
脳神経科学は、これと構造的に比較できる発見を積み重ねています。
私たちが「ひとつの経験」として感じているものは、脳の多数の領域による並列的処理が統合された結果として成立していると考えられています。どのようにして分散した神経活動が統一的な意識経験になるのかという問題は、「バインディング問題(結び付け問題)」と呼ばれ、現在も議論されています。
さらにカール・フリストンの「予測的符号化」理論によれば、脳は外界をそのまま受け取るのではなく、常に予測モデルを生成し、感覚入力との誤差を修正し続けています。
知覚とは単純な受動的受け取りではなく、脳と環境の相互作用による能動的な過程です。注意の向け方によって同じ感覚が異なる構造として現れるという瞑想的観察は、この予測モデルの変化として神経科学的にも考察できます。
五蘊とは何か
「五蘊」は、人間と外界とのやりとりを五つの要素に分けたものです。色(身体や物質)・受(快・不快などの感受作用)・想(対象への意味づけ)・行(意志や行為の傾向)・識(対象を認識する働き)。
この五つが集まり、離合集散しながら「私」という経験が成立していると考えます。
説一切有部はこれを、それぞれの法が固有の性質を持つ要素の集合として理解しました。しかし龍樹は、五蘊のどの要素も単独では成立せず、原因や条件との関係の中でのみ存在すると批判します。
たとえば「色」も、身体・環境・感覚作用などから切り離された独立した実体ではありません。神経科学の視点から見ると、五蘊の区別は現代的な問題設定とも接続します。
「受」に相当する感受作用は、アントニオ・ダマシオの研究を踏まえると、身体状態の表象と情動、意思決定と密接に関係しています。
「行」に相当する意志・行為の傾向は、ベンジャミン・リベットの実験以来、意識的な意図に先行して神経活動が生じる可能性が示され、「行為する主体」とは何かという問題を提起しました。
「識」は、前頭前野・頭頂葉・側頭葉など複数領域の統合による高次認知機能として研究されています。しかし、それらが単一の固定した「認識主体」を作っているのかは明らかではありません。
分離脳研究からも、意識や自己の統一性が、単一の中心的な主体によって生み出されるものではなく、脳内の複数の処理過程の統合によって成立している可能性が示唆されています。
五蘊のいずれもが孤立した実体ではなく、関係的プロセスとして成立しているという見方は、龍樹の縁起理解と現代的な認知科学の一部の議論に構造的な類似を見ることができます。
『中論』の章ごとの構成
第1章は縁起(因縁)の考察から始まります。第2章では「去るものが去る」という具体例が登場し、「去る主体」と「去るという運動」を固定的に分けることの問題が指摘されます。
もし「去るもの」が完全に固定された存在なら、変化することはできない。しかし、変化しているものを固定的に捉えようとすると矛盾が生じる。龍樹はこのような分析を通じて、現象を独立した実体として把握する考え方を解体していきます。
第3章では根・境・識という認識の三要素が扱われ、「見る働きは自分自身を見ることができない」という論点が現れます。これは視覚そのものを考えたとき、見る作用を成立させるものと、見られる対象を単純に分離できないという問題です。
運動の話から認知の話へ移るのには理由があります。何らかの「認識する主体」を固定的に置こうとすると、その主体自体がどのように成立するのかを問わなければならなくなるからです。
「見る働きは自分自身を見ることができない」という問題は、現代の計算論的神経科学にも関連します。脳は自分自身の処理過程を完全に外部観察することはできません。
私たちが「自分の思考を見ている」と感じるとき、それはメタ認知という別の過程によって、一次的な思考や感情が解釈されていると考えられています。
「見る目は自分自身を見ない」。この論点は、自己参照するシステムが持つ構造的限界を示しており、ゲーデルの不完全性定理やダグラス・ホフスタッターの自己言及をめぐる議論とも比較されます。ただし龍樹が数学的な自己参照問題を論じたわけではなく、共通する構造があるという意味での比較です。
「今」にも自性はない
説一切有部なら、過去・現在・未来という三世の中に現在を位置づけます。現在法は現在として作用し、過去法や未来法もそれぞれの存在様態を持つ。しかし龍樹は、そもそも「現在」というものを固定できるのか、と問います。
今は過去との関係によって今になり、未来との関係によって今になります。つまり「今」も、それ単独で成立するものではありません。だから今にも自性はない。
脳神経科学における「現在の幅(specious present)」の研究も、この問いと接続します。私たちが「今」として経験する瞬間は、物理的な一点ではなく、ある程度の時間幅をもった統合された経験です。
エルンスト・ペッペルらの研究では、人間の時間知覚には数秒程度の統合単位があることが議論されてきました。「今」は客観的な時間上の点ではなく、神経系によって構成された時間的まとまりとして理解できます。
さらに時間知覚には、小脳・基底核・前頭前野・島皮質など複数の神経系が関与しています。単一の固定した「現在」を生み出す場所が存在するわけではありません。
「今にも自性はない」という龍樹の論点は、現代的には時間経験が関係的・構成的な性質を持つという問題と比較できます。
十二支縁起の「識」から唯識へ
『中論』第26章では十二支縁起が論じられます。
十二支縁起とは、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死という十二の項目によって、苦が成立する過程を分析する教説です。ただし龍樹がここで問題にするのは、単なる時間的な因果系列ではありません。
「何が最初にあるのか」「どこに固定した根源があるのか」と問うこと自体が、縁起の理解から外れているのではないか、という点です。
特に識と名色の関係は重要です。初期仏教経典では、識と名色は一方が一方を一方的に生み出すというより、相互依存的に成立するものとして説かれています。
つまり、「まず世界があって、それを後から意識が認識する」という単純な構造ではなく、経験される世界と経験する働きが関係の中で成立するという方向が見えてきます。
龍樹はこの構造をさらに徹底し、識も名色も、それ自体で成立する自性を持たないと論じました。識があるから名色が成立し、名色があるから識が成立する。しかしその相互依存そのものも、さらに別の条件に依存している。どこかに絶対的な始点を置くことはできない。
これが縁起の空性という理解につながります。
唯識思想の展開
唯識学派は、この縁起のネットワークの中で、特に「識」の働きに注目しました。唯識思想は主として無著(アサンガ)・世親(ヴァスバンドゥ)によって体系化され、仏教の認識論・存在論をさらに展開した学派です。
ただし「すべては単なる主観的幻想である」という意味ではありません。唯識が問題にしたのは、私たちが経験する世界が、独立した外部対象をそのまま受け取ったものではなく、認識作用の構造によって成立しているという点です。
主体と客体は最初から完全に分離して存在しているのではなく、認識という関係の中で同時に成立する。この点で唯識は、根・境・識という説一切有部以来の問題をさらに深めたものと理解できます。
特に唯識では、阿頼耶識という概念が展開されました。これは経験や行為の潜在的な傾向(種子)が蓄積される深層的な識として説明されます。ただし阿頼耶識を「永遠不変の魂」と理解することは誤りで、それ自体もまた変化し続ける条件的な過程として考えられています。
ここで重要なのは、アートマンのような固定した自己を立てずに、どのようにして記憶・人格・経験の連続性を説明するかという問題です。
説一切有部は三世にわたる法の存在によって連続性を説明しようとし、唯識は識の流れと潜在的傾向によって説明しようとしましたが、龍樹は、そのような説明の基盤そのものに自性がないと問い返しました。
それぞれが「自己とは何か」「経験はどのように成立するのか」という同じ問題に対して、異なる方向から答えようとしたわけです。
自己と環境の相互成立
マトゥラーナとヴァレラによって生物学から提唱された「オートポイエーシス(自己産出)」の概念は、この問題と比較されることがあります。生命系は外部から固定的に設計されたものではなく、自らの構成要素を作り出しながら、自分自身の境界を維持するシステムです。
ここでは「内部」と「外部」は最初から完全に分かれているのではありません。生命活動そのものによって、何が内で何が外なのかという区別が成立します。この点は、唯識における主体と対象の成立構造と比較されます。
外界が先にあり、それを内側の主体が受け取るのではなく、認識という関係の中で主体と対象の区別が生まれる。もちろん生物学的自己組織化と仏教思想は同一ではありません。しかし「固定した実体ではなく、関係の中で成立する」という視点には構造的な類似があります。
『中論』から時代は下りますけど、中観派のシャーンティーデーヴァの『入菩薩行論』にこんな一節があります(大西薫訳)。「自己」も「他者」も「意味」も「無意味」も「生」も「死」も空じた者には、「自己」や「他者」と言語で表現されるものを平等に慈しむ慈悲が生じるという話であります。 pic.twitter.com/j7MUfLDXmd
— DJ プラパンチャ (@prapanca_snares) April 28, 2026

