実存は回復されない──制度の外側で起こる変容の哲学

 

このブログは「心理学」なんていうタイトルをつけていますが、「心理学も臨床も存在には全く触れらないものである」という独自の感性を含めてこのブログを書いています。だから「創造性の」という言葉を付け加えているんですね。

心理学だけでは、とうてい人間のことも存在のことも実存もわからない、ということを浮き彫りにしているのです。

 

 

「実存の一回性の出逢い」は、心理カウンセラーとクライアントの関係では(構造的に)生じません。カウンセリングは制度的な役割と顧客化された他者の関係として成立しており、現代社会の資本の回路の中に位置づけられています。

そのため、実存的な出会いは制度の外側で、何者でもない私と他者が非役割的・非資本的に触れ合う場でのみ現れます。

 

「実存」は、共有不可能な個の深度において生起する。一方、社会的な「運動」は、実存そのものではなく、それが集団的に可視化・言語化された表層として現れる。

だから臨床が公共的正当性を獲得しようとするとき、個の実存は不可避的に社会運動的言説へと翻訳される。 瞑想が触れるのは「私」以前の前人格的次元であるのに対し、臨床が扱う「私」は常に社会的規範と関係性によって規定された存在。

「私以後」の領域しか射程に持たない臨床心理は、語りと制度によって構成された社会的次元にとどまり、意味化以前に生起する実存はつねに見過ごされる。

 

その意味において「実存の一回性の出逢い」は、心理カウンセラーとクライアントの関係では原理的に生じません。カウンセリングは制度的な役割分担と顧客化された他者関係として成立し、現代社会の資本の回路と生政治の網目の中に不可避的に位置づけられています。

実存的出逢いは、非役割的・非資本的な場——何者でもない私と他者が、予め定められた目的や解釈の枠組みを超えて触れ合う瞬間——でのみ立ち現れます。

 

ではここで一曲紹介です♪ David Russell(デイヴィッド・ラッセル)の演奏で、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」です。デヴィッド・ラッセルさん、もう70代ですが、澄み切った豊かな音色、まさに達人の旋律、ゆらぎですね♪

 

 

ケア産業の成立史:制度化の必然と限界

近代的な「ケア産業」は、19世紀後半の精神医学の制度化、20世紀初頭の心理療法の専門職化、そして戦後の福祉国家の拡大とともに形成されました。

精神医療は国家の管理装置として、心理療法は中産階級の自己形成装置として、福祉は人口管理の技術として発展しました。これらはすべて、「生」を管理し、測定し、改善するための制度的技術として整備されてきました。

1970年代以降は、新自由主義の個人責任論と自己啓発文化が結びつき、ケアは市場化され、専門家は「サービス提供者」として再編されました。こうして、ケアは「商品」として流通し、個人の苦悩は「市場で解決すべき問題」として再定義されました。

この歴史的経緯から、現代のカウンセリングは制度化・商品化されたケアの典型であり、実存的深度に触れる構造を持たないことが理解できます。

 

カウンセリングの場で達成されるのは、「機能的有効性」のみです。この変化は、語りの整理、認知の再構成、意味づけの再編といった制度が測定可能な領域に厳格に限定されます。

身体的・存在論的な深度(実存の生きた重み)に触れることはなく、むしろ積極的に隠蔽・排除されています。「他者理解」は小説を読むような表層的共感に留まり、「触れる」「変容する」という実存的出来事は構造的に起こりえません。

この限界を支えるのが、料金・資格・専門性・倫理規定・契約・終了条件からなる制度的安全装置です。これらは関係の不可逆性・危険性を徹底排除し、相手を「撤退できない他者」や「壊れても引き返せない自己」に決してしないための仕組みです。

存在そのものが揺らぐ経験は、カウンセリングの制度内部では構造的に不可能です。

 

「何の役割も持たない他者」とは、私たちの欲望・意味づけ・利用の体系に回収しきれない残余です。レヴィナスのいう「顔の啓示」やナンシーの「接触の思考」が示すように、真の他者性は共感・理解といった調和的応答ではなく、不可解さ・危険・否定・揺らぎを伴います。

この管理や安全の外にある揺らぎこそが、あらかじめ用意された語彙・技法・態度が通用しない領域で、新しい思考・感受の可能性をひらく瞬間です。実存は「技術」で扱えるものではありません。

制度内で磨かれた社会的技術は、実存を最も深く疎外する作用を持ち、安全装置は生きた出逢いを阻み、資本の回路に再包摂する構造として働きます。

 

□ 市場化・商品化の二重構造:資本主義+リベラル言説

現代では、性・恋愛・苦しみすら市場化・サービス化が進んでいます。このケアの商品化は、単なる資本主義の論理ではなく、フェミニズム・リベラルな正義言説によって加速・正当化されています。

「自己実現」「権利としてのケア」「トラウマ回復」といった理念が、心・精神・愛を制度装置に変える強力なレトリックとして機能しています。

ナンシーの「接触の思考」でいう「わからなさ」「変容リスク」は、このケア産業が排除する領域です。制度化された「共感」は、他者性を意味体系に回収する幻想を強化します。

 

□ 専門家の自己省察の決定的盲点:権威再生産のパラドックス

制度や家族、国家の構造には批判的でも、自らの語りが持つ疎外作用や権力性に驚くほど鈍感な専門家というのは、ナンシーの触覚論で言えば、この鈍感さは「理解の幻想」を体現し、接触の不確実性を避ける防衛です。

専門家が他者の言葉を解体しつつ、自らの語りの前提を絶対視する非対称性は、新たな権威を再生産します。

他者の言葉を「抑圧的前提」として解体し、自らの語りを「解放の真理」として据える。これはナンシーの「接触の思考」でいう「わからなさ」を他者にのみ押し付け、自己の枠を不問とする権威化です。

特定の属性や政治性を批判する前に、自分自身の価値基準や思考の前提を疑えない専門家が、SNSやメディアで目立つ状況も見られます。この盲点そのものが、制度化されたケアの限界を象徴しています。

 

思想的地平からの構造分析

 

イルリッヒ:《脱専門職化》と「無効化」の罠

イヴァン・イルリッヒの《脱専門職化》は、制度化専門職が人々の固有能力を奪い、依存の罠に陥れる「無効化」の構造を暴きました。心理療法も例外ではなく、当事者の自己治癒力を「治療対象」に再定義し、専門家の領域に囲い込みます。

 

ボードリヤール:ハイパーリアリティと「語りの名づけ」

ボードリヤールのシミュラークル論は、現代社会が経験をサインの空洞的連鎖に還元し、ハイパーリアリティを生産する構造を分析します。

「語りの名づけ」——家族葛藤を「構造的暴力」、罪悪感を「家父長制の内面化」に翻訳する臨床実践——は、まさに「ハイパーリアリティのケア」です。言語以前の生がシミュレーションに置き換わり、実存の重みは消失します。

 

吉本隆明:幻想の階層と個人幻想の独立

吉本隆明の「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」論は、制度が個の実存を幻想の回路で回収する構造を解明します。

共同幻想の「制度化された語りの暴力」が個人を規定し、言語化以前の経験の原初性のみが真の「生の力」です。専門家語彙は新たな共同幻想として機能し、個人幻想の独立を阻害します。

 

アガンベン:ホモ・サケルと生政治の包摂・排除

アガンベンのホモ・サケル論は、主権権力が生を直接管理し、法の内側で保護から外す構造を明らかにします。

カウンセリングも生政治的ケアとして、実存を包摂しつつ排除——測定可能で管理可能な「機能的生」に再構成——します。「制度や語彙に回収されない生の潜勢力」は、この網目からこぼれ落ちるものです。

 

ルネ・シャール:詩的暴力と意味秩序の破壊

ルネ・シャールの詩は、言語化以前の暴力的な生の力が、意味の秩序を破壊し、名づけられない世界を露わにする瞬間を描きます。この力は制度・技法を無効化し、実存的衝撃としてのみ立ち現れます。

 

制度の必要性への応答:なぜ「制度を否定しない」ことが重要か

ここで重要なのは、制度そのものを全否定することではありません。制度は、暴力の抑制、最低限の安全、社会的弱者の保護といった不可欠な役割を担っています。制度がなければ、ケアは恣意性と暴力に満ちたものになりかねません。

しかし、制度が必要であることと、制度が実存的深度に触れられることは別問題です。制度は安全を提供しますが、安全と実存はしばしば両立しません。

制度は危険を排除することで成立し、実存は危険を通過することで立ち現れます。この緊張を理解することが、制度批判を単なる反制度的言説に堕とさないために不可欠です。

 

宗教的実存と制度ケアの不可通約性

ここから先は、瞑想的な領域も含んでいる複合的な内容となっています。

フロイトラカンの精神分析も、象徴界・想像界の枠内で作用し、生きた実存には触れません。一方、ヨブ記の「神の沈黙」や親鸞の「悪人正機説」は、破壊・絶望の中で「元の深さ」に触れ、非・制度的な変容を描きます。

「元」とは表層自我を超えた存在の深層であり、そこへの回帰は自然発生的な変容です。

制度化技術・語彙・観念指導は、この深度に決して到達しません。実存との出会いは理解・物語ではなく、不可避の衝撃として現れます。技術も語彙も専門性も無力であり、制度そのものが障害となります。

 

「回復」「元」「新しい生」をめぐる根源的再解釈

「回復とは元通りになることではなく、新しい生き方をはじめること」というカウンセラーの言葉ですが、このような「わかりやすくスパッと理解できる言葉の上手さ」は、SNSで活躍する精神科医の人とかにもいたりしますが、

こういったものに対する「根源的な違和感」は大事した方がよいです。(これは良し悪しのジャッジではありません。)

「回復」「元」「新しい生き方」という語が、それぞれまったく異なる存在論に根ざしているために、同じ言葉を使っていても指している現実が根本的に異なることから生じていることがあるということです。

 

カウンセリングが扱う「回復」は、制度的・心理学的枠組みの内部で定義されたものです。そこでは、語りの整理、認知の再構成、意味づけの再編、行動の適応、情緒の安定といった、制度が測定可能な“機能”の改善が中心となります。

これは社会的役割を果たすための「機能的回復」であり、存在の深度には触れません。この限界を支えているのが、料金・資格・倫理規定・契約・終了条件といった制度的安全装置です。

これらは関係の不可逆性や危険性を徹底的に排除し、相手を「撤退できない他者」や「壊れても引き返せない自己」に決してしないための仕組みです。存在そのものが揺らぐような経験は、制度の内部では構造的に不可能です。

 

しかし、ここで語る「元」は、表層的な自我の“元通り”とはまったく異なります。それは、言語化以前の存在の基底であり、価値判断や意味づけが生じる前の場であり、身体と世界が分かれる前の接触の層です。

禅で言う「本来無一物」、道元の「身心脱落」、親鸞の「自然法爾」に近い領域です。そこでは、自我の構築物が崩れ落ち、理解や努力が無効化され、ただ“そうならざるを得ない”方向へと生が流れ始めます。

この「元」への回帰は、意図的努力や技法の成果ではありません。むしろ、自己のはからいが崩壊したときに自然発生的に立ち現れるものです。親鸞が「自力無効」を語り、行者が「身を以て知る」と言うのは、この層が技法や理解の延長線上には存在しないからです。

 

したがって、カウンセラーが語る「新しい生き方」も、ここでの「新しい生」とは別物なんですね。心理学的な「新しい生き方」は、適応的行動、自己物語の再構成、認知の再編、社会的役割の再獲得といった、制度が望む“機能的な新しさ”です。

しかし、ここで言う「新しい生」は、自然発生する生のあり方であり、技法や理解によって到達するものではありません。

そもそも「今と共にある生」は常に新しいのです。「新しい生き方」がそれを新しくするのでもなく、「私」が別の何かに変わることで新しくなるのでもないのです。

 

ここで重要なのは、「スピリチュアルな語り」もまた社会学的な広い意味で制度化(規範・習慣・市場による行動定型化)されうるという点です。「癒し」「浄化」「波動」「アセンション」といった語彙は、心理学的語彙と同様に、経験を名づけ、分類し、商品化し、能動的に消費可能な物語へと変換します。

これらの語りが一見深いように見えたとしても、制度化されたケアと同じく、実存の深層には触れません。行者的な身体性や宗教的実存の深さとは根本的に異なる領域です。

 

実存との出会いは、理解や物語として処理されるものではなく、不可避の衝撃として訪れます。技術も語彙も専門性も無力であり、制度そのものが障害となります。

専門家の「回復」は制度内概念に限定され、真の回復は非言語的・制度外であり、宗教的・行者的伝統が示すように、「回復する」のではなく、「戻る」ものです。

それは「私以前」に触れることで生じる創造性。この根源的な力に触れるためには、カウンセリング・スピリチュアル・専門家体制を相対化し、「非役割的他者との制度の外での生きた出会い」、そして自我の構築物が崩れるような出来事に開かれなければなりません。

そこにこそ、「元」から自然に湧き上がる生があり、制度化されたケアが決して触れられない実存の深度があります。

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