時の流れと人間  不完全な親子の心理学  

 

ここ数日は、私よりずっと若い世代の人々へ向けて書いた記事が続きましたが、若い頃に私の目に映っていた世界の姿と、今の私に映る世界の姿は、全く同じではなく、かなり違っていますね。

年を経ていく中で、いろいろな無意識の大きな変化のタイミング訪れることがあります。「物の見え方」が大きく変わる時があります。それは無理やりそうなろうとしてなる、なれる、ようなものではなくて、自然にそうなるのです。

例:若い頃はどうしてあんなことであんなにこだわり、そしてあんな頑なにしか表現出来なかったのか?

と思い返すことがあったり、

逆に、若い頃はあんなに素直でおおらかだったはずなのに、今は些細なことで随分怒りっぽくなったような気がする..とか、

またそういう性格的な変化だけでなくて、「今になってハッキリわかるようになったこと」もあれば、逆に「若い頃にはあったはずの感覚が今はない」とか、

このように「認識それ自体が何か大きく変わる時」が訪れてくるんですね。

そういうターニングポイントが、人生には何段階もあると感じます。季節の変化のように、殆ど変わらない部分もあれば「何かがガラッと様変わりする」部分もあるのです。

単純に「今」という一元的な精神論で、人の心・精神を何でも同じように捉えるのではなく、「年齢」での変化、月日の流れの中で変化していく身体・記憶・関係、

そういう「時間軸」の中で変化していく相対的な状態を多元的に捉えることも大事ですね。

 

そして今日紹介の「相田みつを」さんも、若い頃は特に関心がなかったはずなのに、徐々に「そうだなぁ、そうなんだよなぁ」と共感することが少しだけ増えてくるから不思議です。

若い頃(十代後半二十代)はあんなにバラバラに分離して見えてたはずの人間が、年を経るごとに、みんな同じように見えてくるのです。表面的な細かい違いよりも、人間としての本質部分に目が行くようになるからかもしれませんね。

もちろんみんながみんなそうではないでしょうけど、私はそうでしたし、そう感じる人も結構周りに多いんだということを、最近は特によく感じるんですね。

 

母という存在の大きさ

ここで、ちょっと他サイトを紹介します。以下のリンク先のサイトでは、親や家族への様々な不満と怒りと嫌悪が多くの人たちに赤裸々に語られています。

⇒ 家族が嫌い、仲が悪い

みんな表だって公言しないだけで、一見普通の家族でも、タテマエはそう見えなくても、実際はこういう心のリアル状態であることが沢山あるわけですね。

 

親子の負の感情は無意識の中から湧き起こるので、外から見ているだけでは、その制御不能さはわからないことでしょう。

私は、自身の無意識にずっとアプローチをしていきました。ですがとても深く根付いた負の感情・記憶からの作用に本当にアプローチすることは、決して簡単なことではなく難しいのです。

だから私は、安易に親孝行を美徳化して、親への感謝は素晴らしい人としてそうあるべきだを誰彼に勧めることは好きではありません。

私が無意識の中身を理解しようとし始めたプロセスは、ほぼ毎回失敗に終わりました。想像以上にものすごく強い負の感情・記憶の塊が存在するからです。

ただ私は、理解のプロセスに四苦八苦している内に、逆に「毎回そうなる」ことが不思議に思えてきました。

『 私は何かにプログラムされているのか? 全くどうにもならないのが私の無意識の中にあって、その見えないものに左右され続けているだけなんて、何だか得体が知れないしスッキリしないなぁ。』

そこでさらにそれを深く観察していきました。簡単に書いていますが、これは相当に時間がかかりました。

そして「これが自分の人生の大きな負の原動力のひとつだったんだぁ」と気付きました。

それは確かに「プログラム」のように私を束縛しコントロールし、そして人生に投影され負のループを現象化していたんですね。

そしてこういう親は割と多く存在します。「愛情」「依存」「支欲求」混同してしまうタイプです。つまり母自身がシッカリ自立した人格が統合されておらず子離れが出来ていないために、無意識的にそうしているんですね。

そこに気付いてほしいだけなのですが、親にとってもそこに「気付く」というのは大変なことなのです。「無意識的にずっとやってきたこと」に気付くのは、私がそうでしたが、本当にとても大変なことなのです。

そして結局、自身の気持ちが最優先になる。

そして「自身の気持ちが最優先」であるに関わらず、それを「親の愛情」という綺麗な印象の言葉に置き換えて納得させようとするんです。

「親に対しての理解」だけを子どもたちに求め、自身の依存的な愛情表現を正当化して一方的に押し付けて、それを変えることなく貫いていこうとします。

 

子は子の、そして親は親の、どちらも自身の正しさを主張したいだのような姿である時、そこには永遠の平行線状態があるだけでしょう。

どちらもが「私の気持ちを理解して欲しい」を要求し合っている時、そこには依存の関係しかない。

お互いが「自身の姿と相手を理解しよう」という状態であればそうはならない。でも「一方だけそれが出来る状態」でもやはり限界はあるんですね。

そして一方だけが理解しようとして、自分の気持ちを抑えて譲って引けば、今度は相手だけが絶対正義のように自己肥大し、そしてどこまでも「正しさ」の要求がエスカレートしてますます支配的になっていきます。

しかもそれが「当たり前」の関係状態になり、そうなるともう精神的にとても耐えられないものになっていく。

私は、安易に親孝行を美徳化したり、親への感謝は素晴らしい、人としてそうあるべきだを、形ばかりの道徳教育みたいに勧めることは無意味だと感じますが、人間は少しずつ何かが変わりゆく途上の存在であり、みな理想通りにはいかずに不完全なまま生きているのです。

玉置浩二の『純情』ように心の底から素直な心境になれる時は、お互いにさらに年を重ね、互いに「余計なもの」が本当に落ちていっ、きっと自然にそなっていくんでしょう。

無理にそうなる必要もなくあわてる必要もないでしょう。ですが、玉置浩二の『純情』はいい歌だなぁと感じます。

玉置浩二 『純情』

 

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