男女の性のアンコンシャスバイアス

数年前、「過保護のカホコ」というドラマが放送されていて、高畑充希さんの挙動が面白くて気に入っていたのですが、もしあれが「過保護のカホ雄」だった場合、おそらく多くの人が殴り殺したくなったことでしょう。

「もうだまれだまれだまれだまれ うるさいうるさいうるさいうるさい  もうこれ以上カホコの邪魔しないで!!」のセリフは高畑充希さんが言うから笑えるんですが、

カホ雄が同じこと言ったらロシアンフック、いや流石にそれはやり過ぎなのでカーフキックでしょう(笑)。

過保護のカホ雄だったら多くの人が殴り殺したくなる」、これがアンコンシャスバイアスです。アンコンシャスバイアスも結局、「どのバイアスにスポットを当てるか?」が先に選択的(優先的)に決定されているため、不公平なんですね。

「アンコンシャスバイアス」についての語りそのものがすでにアンコンシャスバイアスを前提にしている、という構造なんです。結局「どのバイアスにスポットを当てるか?」は「政治」と力関係で決まっているだけ。今回のテーマと関連する過去記事を二つ紹介しておきますね。

 

 バイアスの背景にある隠れたバイアスとパラドックス   傷つきとアイデンティティ  運動と搾取の逆説

 

「セクハラ」もアンコンシャスバイアスが働いていて、「威圧的な態度や言葉の暴力等のパワハラやモラハラ」に比べると主観に左右される要素も大きく、同じことをしても裁かれる人とそうでない人の差が大きくなりやすい。

「無自覚な職業差別」、「地位の低い男への見下し」の感情で敵意が増幅するため不公平なんですね。

 

 

「男性の性被害」というのは殆どスポットが当たりません。また男性へのセクハラも同様に殆ど問題にされません。遅いですがようやく厚労省が実態調査に乗り出したようです。⇒  男性の性被害、実態調査へ 本年度から、厚労省研究班

〈アカハラで停職6カ月〉「自宅や研究室で性行為を…」早稲田大学“女性准教授”が男子学生に訴えられた

 

以下追加更新です。

「見た目」や「職業的地位」で同じことをしても反応や結果が変わる、というのはまぁ昔から言われていますが、「成績の評価」まで変わるとなるとちょっとこのアンコンシャスバイアスはほっとけないですね。特に「魅力度の高い女性」に対するバイアスは。

学業の成績は学生の「外見の魅力度」によって左右されてはならないはずですが、スウェーデンの工学部修士課程に通う約100人の学生を対象にした研究によって、対面授業では男女問わず魅力度が高い学生の成績が良くなることが判明しました。

加えて、新型コロナウイルスの感染拡大に伴うリモート授業への移行によって魅力度の高い女子学生の成績が感染拡大前と比べて下落したことも明らかになっています。「ルックスが魅力的な学生ほど好成績な現象」は対面授業からリモートになるとどう変わるのか?

 

 

男女の性のアンコンシャスバイアス

 

 

ああいう番組を観ていると、「女性がたくさん入っている会議は時間かかる」と言っただけで解雇になった森さんは、確かに失言の多い人ではあったけれど何だか気の毒に思えてきますね。

私もたまたま観ていたのですが、あそこに出ている人たちはまだ優しいし、愛情の裏返しという感じですね。平和な親密圏というのは大体あんな感じでしょう。

しかしあんな可愛い次元ではなく、シリアスな次元の「鬼嫁」は実在します。では「鬼」に対して我々はどう向き合うのか?その答えが以下の動画 「あなたは本当の鬼嫁をまだ知らない!」の中にあります(笑)

 

 

まぁ上の動画は「笑い」に昇華出来ている時点で「本物」ではありません。しかし「妻からのモラハラ」、「妻からのDV」も増加している時代です。以下に紹介の外部サイトでは、「モラハラ妻」についてわかりやすくまとめているので参考にどうぞ。

【モラハラ妻は家族を破壊する】自分を客観視できるモラルハラスメント漫画7選
36歳キャリア妻のモラハラ懺悔 夫の仕事にダメ出し「私のほうが何倍も優秀」と説教が止まらない
男のDV被害は想像以上に多い「言葉の暴力は女性のほうが圧倒的に加害者です」

 

 

ところで、「表現の自由」にもアンコンシャスバイアスが働いています。ある属性の表現であれば問題とされず自由、別の属性なら徹底的に糾弾され自由を奪われる。

「Jリベラル」の暴言ならどんなに汚くても「正義」の文脈になり、保守側の暴言は「悪」「ネトウヨ」で片付けられ蔑まれるというように、政治的正しさによって「表現の自由」が非対称になるんですね。

ただ現在の保守は大方リベラルなんです。たとえば「親が決めた人と結婚する」、なんていうガチガチの保守なんて絶滅危惧種でしょう。

 

本質主義的なステレオタイプな性役割2.0

「○○はステレオタイプでダメ」とか性役割がどうのこうの言いながら、「女はこういう生き物だから○○はどうにもならない、そういう時は男は女にこう接した方がいい」的なことを言っちゃうんですが、

それって「本質主義的なステレオタイプな性役割2.0」なんですね。しかも「自分に都合がいいところだけ」をそうする。逆に男性が同じことをすれば叩かれる。「女性がそうする場合」だけ全的に許される。

女性は本能のままに感情的であることを肯定され、男性は徹底して理性的に振舞え、という感じですね。

それなら『「男の私」はこういう生き物だから○○はどうにもならない、そういう時は「女のあなた」は「男の私」にこう接した方がいい』も同時に対等なものとしてないと不公平です。

そうではなく延々と一方的にやられたら、男は「主体性なき下僕」になるだけでしょう。

「主体性なき下僕」、これぞ「理解のある彼君」の最終形態といえます。「有害な男らしさ」を削った先にあるのが「主体性なき下僕」なんですね。これじゃ女性の側にだけ都合が良い存在です。

そしてここでも同様に、人間の両義性として「ある面のネガティブさ」を「有害」というのであれば、それは男女に拘わらず何かが「有益」にも「有害」にもなり得る両義性を持っているのだから、

女性だけを「有害さを持たない属性」に置くのは不公平で、お互いに「こういうところが強く出過ぎるのは気を付けよう」でいいはずなんですが、男性ばかりに抑制が求められるんですね。

結局、「どの有害さにスポットを当てるか」にもアンコンシャスバイアスがあり、たとえば先のああいう番組もそうですが、過激化するフェミニズム等で可視化される「有害な女らしさ」、それが以下のノートでよくまとめられていますので紹介しておきます。

 

「有害な女らしさ – 受動的攻撃、集団でのいじめ、自己正当化」 より引用抜粋

リバプール大学の進化生態学教授ポーラ・ストックリーとダラム大学の心理学教授アン・キャンベルの研究[10]によれば、女性が好んで使う攻撃戦術は「間接的で表面化しにくい攻撃を、共感でつながった女性たちが連帯して同時に展開し、標的となった人物を私刑にかける」ものだという。

これは女性の集団によるいじめである。女性が集団で寄ってたかって特定の人物や事象をいじめて排除する様子は、学校における少女たちや、職場や地域の女性たち、そしてSNSのようなネット空間など、女性のいる場所ならどこでも見られる。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 有害な女らしさ – 受動的攻撃、集団でのいじめ、自己正当化

 

このようにして特定の属性だけが過度に「意識化」を求められ行動を制御され、反対にもう一方は「無自覚なままでいられる行動範囲」を拡大し続けてその範囲でやりたい放題出来る、ということです。

まぁ「恋愛・結婚をしない若者(男性)」が増えているのも仕方ないんですね。(経済的なことだけじゃなくて)それ自体に価値を感じない、むしろリスクだと考える若者が増えているのも仕方ない。

地方で急増…男性の生涯未婚率「35年で6倍超」が示すほの暗い未来予想図

 

ところで「フェミニストが嫌い」というのは昭和のおじさん的な反応だと考えるのもアンコンシャスバイアスなんですね。実際は若い男の人の方が多く、フェミニズムの運動が盛んな韓国では圧倒的に若い男性ほどフェミ嫌いです。

若い男性ほど「フェミニストが嫌い」、なぜ? 識者の見方は

 

また「若い女子のフェミニズム離れ」も起きていますが、その原因を分析した外部サイト記事を紹介します。

「フェミニズムから離れていく若い女子」は何を考えているか?

 

フェミニズム運動が生じ世界的に広がったのは、女性が「属性単位」で虐げられてきた歴史が事実としてあるからで、それ自体を否定はしませんが、しかし現実にはどう考えても「これはいくらなんでも」というのはあります。

そしてよく使われる「ジェンダーギャップ指数ランキング」ですが、この指数が「どのような基準でどのように導き出されているか」を分析すらせずに「日本は120位!これは酷い!」という感じに短絡的に攻撃材料に使うわけですが、

そこにも「思い込み」があるんですね。過去記事でも紹介しましたが、「ジェンダーギャップ指数」というものはどういうものか?をきちんと分析した以下の外部サイト記事を再び紹介します。

ジェンダーギャップ指数:アイスランド12年連続1位の強さの秘密に迫る

 

こういうランキングをただ鵜呑みにして「上位だから良い」「下位だから悪い」としてしまうのは思考停止そのものです。

 

 

そして最近は進歩主義左派の運動と合わさってどんどん過激になってきていますが、この運動の極端化を末端のフェミニストのせいにしてトカゲのしっぽ切りにするのは、逆に権威を温存しているだけなんですね。

大元は人文系、アカデミアの権威ある人々の方にあって、そこにシッカリ切り込んで批判していかないと、今のままではこの運動は男女の対立を深めていくだけになって、韓国みたいにどんどん互いが修羅化していくでしょう。

 

 

 

つい最近のニュースですが、以下も酷いですね、「女性からのDVやパワハラ」は不可視化されやすく、男性側も黙っているケースも多いため、暗数はかなり多い可能性もあるでしょう。

 

「拳で顔面を殴打」東京五輪公式記録映画・河瀬直美監督が事務所スタッフに暴力 より引用抜粋

河瀬監督は奈良市内の雑居ビル2Fにある組画のオフィスで、男性職員Aさんの到着を待っていた。Aさんが部屋に足を踏み入れた瞬間、河瀬監督は彼に向かって真っすぐ歩いてゆく。そして固く拳を握り、いきなり顔面を殴りつけたのだ。

Aさんはその場に崩れ落ちたが、なおも河瀬監督は暴行をやめようとしない。Aさんはなだめながら逃げ回るが、河瀬監督はオフィスの中を執拗に追いかけ続けた。

「居合わせた数人の職員は恐怖のあまり、別のフロアに逃げ出しました。しばらくして戻ると、抵抗せずに一方的に殴られたAさんの顔は腫れ上がっていたそうです」(事務所関係者)

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「拳で顔面を殴打」東京五輪公式記録映画・河瀬直美監督が事務所スタッフに暴力

 

◇ 逆DVに関する外部サイト記事の紹介

〇 「夜中に着の身着のまま逃げ出した」夫を”しもべ”にしたモラハラ妻の逆DV行状の戦慄
〇 「馬車馬のように働けや! 一生奴隷だ」専業主婦妻のDVに5年も耐えた自営業男性の”100倍返し”

 

 

 

話を戻しますが、私の世代は勢いで結婚し子供を作っている人も多く、あまり深く考えてなかった世代ともいえる。でもそれは生き物・哺乳類としては健康だといえます。しかし今の若者にしても複雑なことを考えているというよりも、「損か得か」を含め、現実的な面での事情がほとんどでしょう。

 

「男性にとっての男女共同参画コラム 「非婚化進める結婚損得論」」 より引用抜粋

晩婚という言葉が生ぬるく感じられるほど、急速に非婚化が進んでいる。これまでは「結婚したいけどいい人がいない」というのが、女性の非婚の大きな要因だった。要は高望みする女性の結婚相手の条件に合う男性がいない、ということ。

だがいま、非婚化の様相は大きく変わっている。アエラでは3月19日号で20代30代の独身男女400人に調査、「結婚損得の分岐点」という特集を組んだ。あまりに結婚前から頭でっかちに結婚に対して脅え、損得で考える若い世代が増えたと感じていたからだ。

結婚って好きな人と勢いでするものじゃないの?という我々40代は、彼らから見ると、とてもお気楽に見えるらしい。

結果は、男性は圧倒的に「損派」が多かった。現在の収入に満足しておらず、就職にも失敗したと感じているほど「損派」。「嫌婚」と言われるほど、結婚を嫌悪すらしている。一方の女性は「得派」が多い。だが、その理由は「経済的に安定するから」。そのために相手に年収500万円以上を求める。
(中略)
正直、こんな状況をどうしたらいいのか、私にもわからない。「そもそも結婚して、何かいいことあるんですか」と後輩に聞かれれば、答えにも窮してしまう。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 男性にとっての男女共同参画コラム 「非婚化進める結婚損得論」

 

 

経済的な問題としては「正社員か、非正規か」で結婚率に大きな差が出るのは重要なファクターなんですが、それは主に「男性」にとっての話であり、「相手に年収500万円以上を求める傾向性のある属性」の話ではないんです。

「男はつらいよ」は昭和の話ではなく、令和になっても続いているんですね。 ⇒  50歳男性の生涯未婚率が爆増 非正規はついに6割超え、健康も悪化

 

後世に伝えておくべき真理の言葉があります。それはショーペンハウアーのこの言葉です。

ico05-005 結婚とは、男の権利を半分にして、義務を二倍にすることである

今から二百年以上前のショーペンハウアーが生きた外国においても既に、結婚とやらの実態はそうだったのだ。

結局「性役割から降りていい」なんて嘘八百。男は死に場所を決めるしかないが、しかし「降りた場合」その男は死から逃げ切ることはなく、逆に「二度死ぬ」運命に向かう。

まず降りることで男として死に、そして「死んだことすら忘れられる」のが二度目の死。しかし見方を変えれば「二度も死ねる男」こそ本物の男かもしれない。「一度目の死」は男のささやかな名誉であり逃げでもある。

「死して忘れられる」という絶望的な虚無から逃げない者こそ、まさに本物の勇者である。

まぁ冗談はこのくらいにして話を戻しますが、男女の本質主義的な要素はどちらにもある、本質的なものだからこそ譲れない、それを一方の属性にだけ「より多く譲らせる」のが関係の不公平な非対称だとすれば、

「自らの都合の悪い部分」は本質に置いて「私はそのまま・ありのまま」で「自由」にあろうとし、相手を批判する時は構築主義の理屈で相手の本質を解体しながら「あなたはこうあるべき」の方向へと誘導し、

相手を「責任を負う主体」にして雁字搦めに行動を制御するのはある種のパワハラ&モラハラでしょう。そして脳がどうとかこうとか、そういうもので「性」を本質主義的に観ないのがジェンダーフリーです。

 

 

家庭は妻の宇宙」とか「夫は寄生虫」とかもそうですが、「固定的な本質主義的な性別での捉え方」で男性を価値下げするしぐさは、アンコンシャスなステレオタイプ思考の一種なんですね。

ただステレオタイプ思考とはいえ、多くの女性が「ある状況に置いて特定の感情反応パターンをとる」という傾向性は事実としてあるので、ある程度の普遍性がそこに働いているのだろうとは思います。

私は「性」というのは構築主義だけでは語れない、と考えているので、本質主義的なステレオタイプもある程度は肯定しているんですね。

なので「家庭は妻の宇宙」にせよ、その他のよくあるステレオタイプな男女観にせよ、「男はこういうもの」「女はこういうもの」という感覚は単純に全てが社会的に構築されたものとか、思い込みとかではなく、本質主義的な力学が強く作用した生き物的な事実でもあるのでしょう。

しかし、「あれもこれも家父長制」的なステレオタイプな思考だけでは実際の「家庭の力学」「関係性」は観えてきません。では実際の「家」の中では男女はどのように生きてきたのでしょうか。

 

「女性の論理が家庭を支配する」 より引用抜粋
(前略)
日本では女が財布を預かっているうえに、家庭は「女房の城」となっている。新たにマンションを買う時には、女―妻の好みに合わせて計画することが多いようである。すると女性が自分の都合に合せて盲目的にプランしたところに、夫が強制的に住まわされることになってしまう。

そして男は外で勤勉に働くが、日本は仲間的な群意識によって結ばれている社会であって、つきあいに費やす時間が多いので、ほとんどの日には夫は家に寝に帰るだけの生活を送っている。

もともと日本では、女のほうが男よりも強かった。戦前、男が家長として威張っているようにみえた時でも、妻が男の着物を揃えたように、夫は妻を個人として独立した女性としてみるよりは、妻のなかにある母性を頼りにしていたのだった。
(中略)
河合隼雄教授の『母性社会 日本の病理』(中央公論社、昭和五十一年)を読んでいたら、次のような指摘があった。「昔の父親は家長としての強さを絶対的に有しているが、それはあくまでも母性原理の遂行者としての強さであって、父性原理の確立者ではなかった。

・・・お人好しのアメリカ人はこのあたりの事情がまるで解らなかったのであろう。男尊女卑の後進国日本の発展を願って、日本の父権制度をこわしにかかったし、もともと強くなかった日本の父親たちがたちまち降参したのも当然である。かくて日本はグレートマザーの国になった」。

戦前の男の権威は大多数の家庭において、民法によってかろうじて支えられていたのだろう。そして、あっと気がつくと、男は家庭から締め出されていた。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 女性の論理が家庭を支配する

 

昔「男は度胸 女は愛嬌」今「男は臆病 女は狂暴」

 

時代は変わりました、十代の若者の「デートDV」において「女子から男子への暴力や暴言」の方が多い上に、しかも「暴言が嫌と言えない」のも男子の方が多いという調査結果さえあります。⇒  暴言や暴力…被害者は男子生徒、女子の倍以上

 

昔は「母の子宮世界」に包摂されていた男性たちが、今は「妻の宇宙(グレートマザー)」に取り込まれた二次的生命体として「宇宙の秩序」を維持する「去勢されたサムライ」として死に場所を得た、というこの流れを観る時、

「子宮」という特異点がビッグバンを起こし「宇宙」に肥大し、それが「家庭内宇宙」では収まらずに、親密圏から公的な社会領域へとはみ出し全てを飲み込んでいくマクロなフェミ運動へと膨張し、やがて秩序を維持する父性原理は破壊されていく、という負の予測。

↑上の記事の最後に、『せっかく結婚したのに、夫婦で共通の体験を分かちあおうとするよりも、男の領域と女の領域とに互に立て籠ってしまうことになる。』とありますが、平穏な言葉で表現していますがなかなか深いです。

の二つの作用は太極から生じたものであり、陰が太極を生むのでも陽が太極を生むのでもない。どちらかが宇宙になってはならないんですね。それは全て「偽宇宙」であり、自然界を無視した「虚」の肥大に過ぎない。陰と陽バランスによって万物は調和する。

「私」の肥大「個人主義」の肥大によって根源的なところから「ヒトの自然」を見失っていく。そして世界はエントロピーが増大し、熱的死に向かい終焉を迎える(笑)

 

話を戻しますが、相手(男)を「自分の都合が良いように去勢・調教する」というのは「洗脳」の一種でしょう。「釈迦の手のひらの孫悟空」ではなく「女の手のひらのサル」。そして「感情」を使って人を操るマニピュレーション能力は女性の方が基本的に高いです。

「男性が女性の尻に敷かれている親密圏」は女が男を日常的に支配し操作しているわけで、その中には「不可視化された逆DVの温床になっているケース」も含まれていることがあります。

ではここで、「サイコパスの女性」の特徴として挙げられている要素をザックリまとめてみましたが、大体以下のようになります。

『美人でおしゃべり上手だが感情が薄く本当の友達がいない、周りにあまり共感せず、そのくせ主導権を握りたがり、プライドが高くわがままだが悪びれることもなく刺激を求め続け性行動が奔放』

う~ん、これってサイコパスなのか? っていうよりも何だか「美人」以外も含めたら心当たりの人がかなりの数.. おっと、この辺でやめときましょう、偉大なるグレートマザーたちの逆鱗に触れて「宇宙の外」に放り出される前に。

 

 

天父神と地母神

女性が男性に向かって「器の小さい男ね」ということはよくあっても、男性が女性に向かって「器の小さい女だな」とあまり言わないのも「性役割」によって男には「度量」が求められる、ということです。

器量」は男女と共に求められますが、器量の質は多元的です。そして「父」の元型が天父神

父性原理・男性原理『切断する原理』なので破壊の質に向かえば残酷にもなりますが、「器の大きさ」によって身内以外にも広く発揮される方向に向かう時は大きく物事を発展させる力学にもなる。

しかし女性の場合、「包摂」が「無意識に」出来る「器」は基本的には「母」だけです。

言うまでもないですが、「母性」に関しても例外および個人差等ありますが、「大方そういう傾向がある」という程度の話です。「人間の自然」は「生物学的な自然」とは異なり、「人間以外の他の動物」とは比較できないものを含んでいます。

 

ところで「宗教」によって疑似的に「母性」の役割を果たすことが可能ですが、宗教は父性原理的なものなので、『切断する原理』が働いているんですね。だから指導者には男性が多い。

子供を「可愛い」と感じれる力に母性、女性原理が強力に宿ります。男性が母性に弱いのは、この世で唯一の「自然な包摂」だからです。仕事でもなく訓練して身に着けた専門的能力でもないものだからこそ、逆説的に「実存を包摂できる力がある」のです。

しかし母性には負の面もあります。いえ、「負でもあり正でもあるもの」だけれど「負の要素を強く感じる」と言った方がよいでしょうか。

脳科学者の黒川 伊保子さんは、「母性」の基本機能として「過去の経験を瞬時に引き出して、子どもを守る」という性質があり、それが「おせっかいと蒸し返し癖」として現れてくると分析していますが、

「母性」もまた構築的なものだけではなく、「母や姑のうざさ」というあの普遍性には本質主義的なものが働いている、ということです。母性も父性・男性原理と同様に、単純に「良い・悪い」で二元化出来ない両義的なもの。 ⇒  「悪気はないけど、どうにもうざい」昔のことを蒸し返す母親を一発で黙らせる”ある方法”

「専門家が他者に寄り添う」ようにするのではなく、「自然にただそうある」、太陽や海のようにただそうある、無条件にただ存在を愛することで「ただ在ること」を支えている当たり前さの中に「実存を包摂できる力」がある。

そして母性が「怨念」に変わった時は凄く怖いんですね。あのプーチンですら「兵士の母親の会」には恐れをなすのは、「ロシアの屈強な父たちの暴動」より、「母」の我が子への情の深さが怨念に変わる時の影響力の方が生き物として強いからです。

母の「器」というのは「上に引き上げる力」ではなく「懐の深さ」の質です。「母なる大地」というように総ての命の根源。「地母神」はその元型のひとつですが、天父神と地母神の元型は世界各地の宗教・神話にもあり、日本の場合はイザナギイザナミですね。

ところで「鬼滅の刃」は「家族愛の物語」ともいえますが、それが「人間」の普遍性のテーマだからこそ日本だけでなく世界的にヒットしたともいえます。そして煉獄さんも丹次郎も心の中に「」が生き続けていた。なんだかんだいって人はああいう物語が好きなんです。

だから私はステレオタイプも全否定はせず「ある程度の普遍性がある」と表現します。

○○のようにありたい」と思う気持ちもあってよいんだと思うんです。生物学的に肉体をいくら観たって「物語」など発見出来ませんし、「実」としての肉体だけでは「鬼滅の刃」は生まれてこないんですね。「虚」の創造性によって生まれてきます。

人間は「実」だけでなく「虚」を生きていますが、そこには元型が深く作用している。

「元型」は物理的な脳・神経をどれだけ観ても見出せません。そして「母性」だけでなく、「人間」も「社会」も「構築的なもの」を含んだものである以上、それはある種の「虚」の共同幻想なしには成立せず、

そもそも「言語や概念」自体が構築されたものであり、宗教なんてその最たる創造物です。そして人間及び社会には必ず両義性があるから、「母性」の話に限らず「誰も傷つかない構築」など存在しないんです。

その意味で、生物学的な「実」の面だけ観て「○○は幻想」という否定の仕方というのは、「人間そのもの」を全否定しているのと変わらず、「動物」としてのデフォルト機能だけしか認めないということにもなるんですね。

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