うつ・気分変調症などになりやすいタイプの性格・気質があります。それを「病前性格」といいますが、元々のその人の性格・気質あるいは家庭環境などで形成された性格傾向にアプローチすることで、病気になりやすい性格傾向を治していこうというのが「認知療法」です。
シンプルに「うつ」を捉えている良い動画があったので以下に紹介しています。(※ 酷い鬱の状態になってしまうと認知療法ではどうにもならなくなります。ほんとに起き上がれなくなりますから。)
ところで、ストレッサーに対する個人の認知を扱うラザルスの「認知的評価理論」で、ストレッサーに対する個人の主観的な評価には一次的評価と二次的評価があり、「ストレス対処」として問題焦点型対処、情動焦点型対処があります。
以下の動画は、そして認知の質を変える(問題・現象の受け止め方を変える)ことで対処する認知療法は「情動焦点型対処」に含まれるものですね。それに関連する記事も以下に紹介しておきます。 ⇒ ストレスとホメオスタシス オートポイエーシスな身体・心・環境・システム
ですが治療と平行して認知療法を行うことでまずは心の負の無限ループになりにくい考えかたをしていくこともプラスになるでしょう。
うつになりやすい6つの性格 思考タイプ
1. 人・出来事・現象の評価を100か0かで考える性格・思考
黒か白かという両極端の区分けをする。完璧主義的で潔癖症的でもある。光側とか闇側とか、絶対悪とか絶対善とか。 一つの側面から決めつける断定なども含まれる。
固定的な認識を変えるポイント
物事には中間やグレーゾーンなど白黒に区分けが出来ない部分があり、裏と表、高さと深さなど、質の違う相対的な複数の尺度がひとつの現実として集まり一体化し「立体的な全体性」が成り立っている。
そしてそこにはゆらぎやブレ、不規則さや乱れなどの波も存在している。完璧なもの・人など存在しない。 見方角度を変えれば物事の見え方や評価・価値などすぐに変わってしまう。評価や価値感は初めから相対的なものであり、評価や価値感に絶対的なものはない。
物事を絶対的な基準・モノサシでみようとすると必ず現実の相対性と矛盾がでてくる。物事・現象の認識は相対的で、現実は多面構造であるということを認める「思考の柔らかさ」を持つ。
2. 一つの現象だけを見て未来に起こる全ての現象に当てはめる性格・思考
否定的な現象が一回でもあると、すぐに未来にも悪い事がたて続けに起こると、そればかりを連想するクセを持っている、ネガティブで臆病で不安が強い人。
固定的な認識を変えるポイント
未来も過去もどこにも存在していない。 そこ、ここにあるのは今という現実だけ。つまらない預言者や狂信者が終末論を語り未来の不安を煽り、そして全てハズれたあの愚かさと傲慢さといい加減さを見ていれば、
たかだか一回や数回、否定的な事が身の周りに起きたからといって未来の全てを理解した気になることの愚かさも同じ程度のものということがわかるだろう。
良くなるか悪くなるかは誰にもわからない。それだけでなく、今が良いのか悪いのか?だって本当のところはわからない。ただそこに、ここに、現実があるだけであり、良いか悪いかなんて、本人や他人が勝手に決めつけているだけ。
3. プラスの部分を見ずマイナス面ばかりに着目する性格・思考
よく観察するなら、ほんのちょっとした良い事や楽しいことや成功が起きていても、それは全く見ず感じずに、ちょっとした悪い出来事や失敗などの否定的な出来事ばかりにとらわれ、マイナス面だけを全てだと決めつける。
固定的な認識を変えるポイント
物事や現象を楽観的なバイアスをかけて見ても現実は何も変ってはいないが、逆に悲観的なバイアスをかけて見てもやはり同じく何も変ってはいない。それなら楽観的なバイアスをかけた方がより楽に生きれることは自明。
だが、楽観的なバイアスを無理にかけなくてもよい。「何も変わってはいない現実」を楽観・悲観のバイアスをかけずに眺めてみるとよい。
そうすると物事や現象は実に多面的であって、否定的な受け取り方も簡単に出来れば、肯定的な受け取り方も簡単に出来てしまうほど相対的で立体的なものだということに気づく。 現実が完全固定されているのではない、物の見方が固定されているだけ。
4. プロセスを飛び越えて論理を飛躍させ極論に走る性格・思考
人の心の深読みし過ぎて勝手に疲れている人や、「対象の全体性」の理解のプロセスを経ずに部分的な一面から一気に思い込んで全体を決めつけていく思考タイプ。
( 物事の裏ばかり考え過ぎて陰謀論などにハマっているような人や、ごく自然に起きている現象に勝手にオカルト的な複雑な「意味付け」をしてそこから極論に持っていく思い込みの激しいタイプなども含む。)
固定的な認識を変えるポイント
本音や建前、裏表など、人の心も現象にも見たまま聞いたままではではない側面がある。 だが裏ばかりが真実でもなく、表も裏もあって両方で現実が出来ている。
人の本心を気にしてひたすら探ったり思い込んでも意味がない。仮に探って何かをそこに見つけても、それは部分の要素に過ぎず対象の全体ではない。部分にとらわれそれが全体だと思い込むなら、対象の全体性を逆に見失う。
つまり真実を気にし過ぎて真実を見失うという本末転倒なことをしている。だから対象や現実は「部分」ではなく「全体でそれそのもの」であるのだから、物事を理解する過程で思い込みや決めつけをなくし、ひとつの部分・角度だけに執着しないことである。
5. 感情的、その時の気分を現実認識に投影する性格・思考
気分・感情と現実を同一視するタイプ。「悲しい気分=人生なんて悲しいものだ」「虚無感=人生なんて無意味だ」 「怒り=社会みんなが私を攻撃している」「人生に絶望感がある=まもなく世界の終末がくる」 など。
固定的な認識を変えるポイント
その時その時の感情と「現実・人生の意味」は何の関係も無い。その感情は現実のある出来事によって引き起こされたもの、天気や気圧の変化によるものであっても、それはあくまでもその特定の出来事の反応に過ぎず、部分的な関係性に過ぎない。
6. 観念的で、何々すべきであるという「べき」性格・思考
全ての人間はこうあるべきである。 わたしはこうあるべき、こうするべきである。女性はこうあるべき、こうするべきである。男性は...と、なんでもかんでも「べき」で凝り固まった人。観念プログラム通りに生きようとする完璧主義者など。
固定的な認識を変えるポイント
宗教教義の観念、政治的イデオロギー、教育理念、倫理道徳観、霊的観念など、「人は世界はこうであるべきだ」が社会に溢れています。 そして親や身近な人々も幼いころから私達に「こうあるべきだ」と言い聞かせてきた結果、
私達は数々の「こうあるべきだ」を心に初期設定したまま大人になっていきます。それは社会的な生き物である人間にとっては必要な一面もありますが、
『あなたの「べき」』と『他の人の「べき」』は必ずしも同じではなく、それもまた絶対的なものではなく相対的なものなのです。だから「べき」を絶対化せず、必要以上に観念的な内部束縛を強めず固定化しないことですね。
精神科医 心療内科医 廣瀬久益によるDr.講話を二つ紹介。
コメント
昔極論で走ってました
部活で卓球をやってたんですが毎日毎日何百球ドライブを打たれまくってました
と言うより顧問が頭が硬い人だったのでドライブと言う攻撃手段を一切教えてくれませんでした
なので但ひたすら返球するしかない状態でした
その為精神的に辛くストレスが溜まりミスが目立ってました
その事を良く注意されました
注意されたく無かったから「勝てば良いんでしょ!勝てば!」と思って勝つ事だけを考えてしてました
結果現在鬱になりました
なんかなるべくしてなっているのかなと思いました