浅はかな人間は運を信じ、流れを信じる。強い人間は因果関係を信じる。(19世紀を代表するアメリカの思想家 ラルフ・ウォルドー・エマーソン)
この言葉は「心の姿勢」としては納得出来ます。が私の場合、「運」には多くの力学が存在することを感じてもいます。
また「信じる」という状態にも多元性があるので、これが全て浅はかだとも思いません。とはいえ今回は「因果関係」をテーマにしているので、「抽象的な力学」ではなく、「具体的な力学」の有効性を中心に考察していきましょう。
まず最初は「疾患喧伝と精神医学」、その後に「相関関係・因果関係と疑似科学」をテーマに書いています。
「類型」と「疾患単位」に関してはかなり前の過去記事で書きましたが、「形而下を出発点とする身体医学」と、「形而上を出発点とする精神医学」の違い、まずこれを理解しておく必要があります。
「精神医学における類型と疾患単位―「実在するもの」 と「そのように呼ぶもの」」 より引用抜粋
精神障害には疾患であるものと疾患ではないものとがあることを、記事1『精神医学から見る精神障害 精神障害はすべてが「病気」ではない』でご説明しました。
そして疾患である精神障害については、身体的基盤が明らかであるものと、明らかではないものとがあるということをお話ししてきました。精神医学を理解する上でもう一つ重要なことが、類型と疾患単位という概念です。 (中略)
類型と疾患単位との違い
疾患ではない精神障害と、内因性精神病の領域にある精神障害は、全てが類型にあたります。これに対して、身体的基盤が明らかな精神障害は類型ではありません。
その身体的基盤を確認することで、「それは〇〇である」ということができます。実際に存在していることを確認できるわけです。このように、実在が確認できるものを疾患単位といいます。
この「である」(疾患単位、実在するもの)と「と呼ぶ」(類型、約束事)の違いは、非常に重要です。
身体医学におる類型と疾患単位との関係
身体医学においても類型(症候群)はあります。例えば糖尿病や高血圧、あるいは肺炎という大きなくくりは症候群です。しかし、さらに詳しく検査をすることで、その背景にある疾患単位が明らかになります。
今日の身体医学の疾病分類は、ほとんど全てが疾患単位で構成されています。(中略)
精神医学と身体医学の本質的な違い
(中略)
身体医学の類型は、その出発点から対象とするものが知覚的に把握しうるものです。少々難しい言葉ですが、形而下にある、時間的・空間的に知覚しうる対象であるということです。これに対して、精神医学の対象とするものは、身体的水準ではなく、精神症状(精神症候学)によって定義されています。
精神症候学によって定義される精神症状は、時間的にも空間的にもまさにそこにあると呼べるものではありません。これを形而上と呼びますが、この出発点の違いが大きな意味を持っています。
精神医学も身体医学と同じように、形而下で把握できる事象から出発したいわけですが、その確実なものがなかなかつかめないわけです。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
◇ 誤診や疾患宣伝に関する外部サイト記事の紹介
○ [PDF]双極性障害と疾患喧伝(diseasemongering)
○ 双極性障害、診断過剰か過少か
○【双極性障害:過剰診断が問題】
○ 精神疾患とME/CFS-誤診された時の問題点
相関関係と因果関係
「科学的治療」だというのであれば、相関関係を因果関係に短絡的に結びつけるのではなく、因果関係を明確にすることが必要なんですね。
そして因果関係を明確にしようとする姿勢は、民間療法よりも医学の方がずっと重きが置かれているので、より信頼度が高い、というだけで、「全体に完璧で信頼できる」というわけではありません。
生命、存在、その生物学的・物理学的な真実は全てが解明されたわけでもなく、未だ謎や神秘、未知な領域が存在します。
また人間の認知機能に条件づけられた範囲でしか世界を知り得ない「限界」があり、そして認知機能にも「対象・現象」の捉え方には質的違いがあります。
そして「感性で捉えるもの」・「理性で捉えるもの」のように「現象の捉え方自体の質的差異」もあります。
物事の全ての「質」がその全てを数値化・言語化・記号化出来るかといえば出来ないし、そして考察角度を変えれば見え方が変わるような「全体性としての複合的な現象」を扱う場合においても、
一つの角度から均一・画一的な見方で現象を固定的に捉えるだけでは全く不十分なこともあります。
例えば医学の場合、精神的な病も内科的な成人病なども、遺伝性の要素も含まれていたり「心・精神・肉体の状態は生理的・機能的な因果関係によって生じている」と「大まか」には言えるんですが、
このような場合でも「原因そのもの」の具体的な特定となると明確に単純化できるような因果関係ではなく、「相関関係」としての危険因子・幾つかの要因などを特定しリスク軽減などの予防をするわけです。
◇ 性格と病気の相関関係の例: 外部サイト記事の紹介
社会・現象の力学が個のヒトへ影響し、その反応パターンに一定の型があるのは、「外的な現象の様々な質」と「反応の元になる心理メカニズム」という生物学的な因子との相互作用であるとは言えるのですが、
複雑系は「相関関係」であって、「現象」のメカニズムに多角的な力学が含まれていることを見逃さないで考察する姿勢であり、個々の因果関係を明確にするアプローチではないんですね。
これは負の現実・現象だけでなくて、「運任せではなく何かを具体的に達成する人・成功する人」は因果命題と相関命題の違いを理解し、相関命題ではなく因果命題に取り組み現実的に解決していこうとします。
だから貴重な時間とエネルギーを「不確かなもの」に使わず「確かなもの」に有効に使って人生の中でシッカリと目標を立て、具体的な結果を出し達成・実現が出来るんです。
そして社会学・心理学・精神医学の場合、「相関命題の段階で、それを因果命題と思い込む」ような状態もよく見かけます。
いや医学や他の科学分野などであっても、特に権威や有名な学者などがテレビや本などで「相関関係に過ぎないデータ」を断定的に「因果関係の証明」のように話を持っていくこともよく見かけます。
これは「相関関係なら全て無意味で無駄」ということを言いたいのではなく、影響力のある学者や著名な専門家などが、この二つは違う、ということをシッカリと認識しているかいないか、
あるいは一般人に向けて話す時にちゃんと使い分けで話しているか、という点が重要なのですが、現実には案外いい加減なんですよね。
だから錯覚や誤解を与えてしまうのですが、一般人はそれを見分けられないので、科学的に実証された因果関係だと信じてしまう人も多いわけですね。だから影響力のある学者・科学者の嘘は一番タチが悪いんです。
とはいっても、「大抵の無関係な人」はそれで多くの時間を搾取されたり、大金を貢いだりすることはなく、ただその時はそれを信じた、という程度で、結構簡単に忘れます。
「ああそんなこと言ってた人いたね」程度です。そもそもテレビや本とかでちょっと信じた程度の人物や情報の真贋に対して、そんなに本気の執着心も持続的な興味もないし、色々忙しいからです。笑
「相関関係は因果関係ではない」 より引用抜粋
最後にAssociationとCausationの違いです。これには2つの考え方があります。より狭い意味合いでは、Xが原因でありYがその結果であると言う因果関係の矢印が引けるものをCausation、
その矢印の方向性がはっきりとしないものをAssociationと呼びます。つまり、「X⇒Y」がCausation、「X⇔Y」がAssociationだとイメージしてください。
(中略)
より広い意味合いでは、XとYの間に内生性(Endogeneity)・交絡因子(Confounding)が介在する見せかけの因果の関係性をAssociation、これらが存在しない純粋な因果の関係性をCausationと呼びます。因果推論の世界では、実際にはこちらの使い方がされている場合の方が多いです。前のブログでもご説明した通り、XとYの共通の原因(Commoncause)のことを経済学では内生性(Endogeneity)、
疫学では交絡因子(Confounding)と呼びます。これが存在しているとXとYの間に全く関係が無くても、見かけ上はあたかも関係があるように見えてしまいます(下図)。
(中略)
この見かけ上(まやかしの)の因果関係をAssociation、真実の因果関係をCausationと呼びます。この場合、内生性・交絡因子で補正(Adjustment)するか層別化(Stratification)することで、XとYの真の関係を評価することができるようになります。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 相関関係は因果関係ではない
※「相関関係と因果関係の違い」で図を引用させていただきましたが、リンク先の「科学的根拠に基づく食事」の内容に関しては他の研究者からの指摘があることも同時に紹介しておきます。(私は白米は毎日食べていますが、上記のサイトでは白米は悪い、ということになっています。)
(2018/9 追加更新)栄養学の専門家、食事法の専門家である医師等による関連するテーマの外部サイト記事を二つ紹介します。
上記の内容のような研究者や専門家レベルの見極めとなると、研究や統計学と無縁の一般人には難しいでしょうが、そういう複雑で細かい正誤の判定は研究者・専門家の知識と正直さと良心に基づく緻密な分析に期待するとして、
「もっと極端に強引なもの」、そういうものであれば、一般人でも少し冷静になって情報を吟味・分析すれば見極められると思います。
ですが基礎知識や業界の現状を多少知っておくだけでも、すぐに盲信せず「疑いながら吟味する」ことで、より正確な判断に近づいていけると思います。
◇ 関連記事の紹介(2017/9 追加更新)
○ 「相関関係」と「因果関係」の違いを理解すれば 根拠のない通説にだまされなくなる!
○ 因果関係・相関関係・前後関係の違いは?~意図的なミスリードに騙されないために
「相関関係と因果関係を曖昧にしているような人」の中には、未だに迷信的な 思い込みで、どんどんズレてオカルト原理主義のような妄想世界に固執している人もいます。
カルト教祖とか悪質な霊能者みたいな人々は、その信者や「オカルトなどが大好きな人」以外は、普通の一般人はもう初めっから胡散臭いと感じますし、
言ってることはメチャクチャで「相関関係を因果関係だと断定する」だけでなく、批判的な反証として「事実に基づく因果関係」 を提示されても、それを否定し全く無関係なものを結びつけて自己正当化し続けたり、
さらに酷くなると「相関関係すら成立していない」状態で「妄想関係で自己完結する」という病的状態になります。
多くの場合、このような人物や盲信者に対して人は疑ってかかるか、冗談感覚で聴いている程度なので、本気で騙される人 はごく僅かです。
まぁそんなものに何百万とか何千万とか貢いだ上に、積極的に活動までして人生の時間を何年もあるいは十年以上とかかけてしまう人もごくわずかにはいますが、
「人付き合いの少ない孤独な人とか、ちょっと変わった人とか、心・精神のバランス異常の人とか認知症の老人とか」を除けば、
普通の若者やシッカリした大人はそういう「圧倒的に低次元レベル」のものに騙される確率は低く、しかも「長期間騙され続けて、膨大な労力と膨大なお金を失うような人」はさらに少ないわけです。
そういう人の場合、投資詐欺とかオレオレ詐欺とかとは違い、一般人の騙されやすさとは質の違う他の原因も複合的に絡んでいるので、もっと深刻なレベルなんですね。
「自分が正しいという方向に持って行けさえすれば手段など選ばない」、そういう「自己中で次元が低すぎる精神」は最初から相手せず、問題があれば事実に基づいてシッカリと否定し、
逸脱レベルが大きいようであれば落ち着いて冷静に法的に対処し、「事実に基づく因果関係」を明らかにして社会的に制裁する、という現実的対応が一番良いでしょう。
人の認知資源は有限。 なので効率的にショートカットで結論を導く=「ヒューリスティックス」は、判断や意思決定において日常的に多用されていますし、これはステレオタイプ・タブロイド思考なども、認知コストの効率化という点では同様です。
効率的という点では長所なんですが、
例えば心・精神のようなテーマは複雑・複合的で全体性を含んだ問題なので、 本来、これを本当に事実と現実に基づいてシッカリと見ていくとなると 「難しいこと」で「時間のかかること」なんですね。
ですが、「難しいことはわからないし、面倒くさい、多角的な分析なんて時間がかかる」とショートカットして「単純化」してしまうことによって、
物事の全体性・様々な質・複合的な背景などの多様性は見過ごされたり、認知の偏り(バイアス)が生じる傾向性も高まります。なのでシッカリと緻密に正確に深く多角的に考察することも大事でしょう。
例えば「うつ」「精神疾患」というよく知られたラベリング一つとってもそうですね。これをシッカリ掘り下げて見ていくとそこには多様性と複雑性があるんです。
例えばこれを医学的な例 – 「機能性内科疾患が精神疾患と誤診されるようなケース」でみてみると、脳器質疾患や慢性疲労症候群、そして心臓や肺・肝臓・腎臓の疾患、膠原病などでも「うつ症状」は生じ、
そして尿毒症、血液疾患、ビタミン欠乏症や感染症による「せん妄状態」や甲状腺機能亢進症・低下症による「双極性障害・うつに類似する症状」など、
その「症状・現象」= 結果 だけを見て精神疾患と決めつけたり、「内因性・心因性のうつ」と判断して対策・治療を誤れば悪化させることがあるわけですね。
身体因性うつ病には「器質性うつ病」と「症状性うつ病」があり、脳の病気(例:脳卒中・脳腫瘍)に関連するのが「器質性うつ病」、他の臓器などの身体の病気(例:糖尿病)が原因の場合は「症状性うつ病」という。
なので病理(原因や発生機序)を明確化することで的確・適正な現実的対応・処置となり、現実的な解決に繋がるわけですが、
先にも書いた通り、「ある現象」の因果関係が曖昧である場合、仮説の段階からそれを慎重に多角的に分析・検査し、「先入観を排した客観的な統計分析・実験」などによって 実証していくことが必要です。
2017/9 追加更新 – ここから –
以下は「健康・医療情報の信頼性を検証する研究デザイン(方法)」を、「情報の信頼性が高いもの」「情報の偏りや偶然性が少ない」順番に並べたものです。参考⇒ 相関関係と因果関係の違いに注意
〇 システマティックレビュー 〇 ランダム化比較試験 〇 非ランダム化比較試験 〇 観察研究(比較群有:コホート研究・症例対照研究など) 〇 観察研究(比較群無:症例報告など) 〇 実験室の研究(細胞実験・動物実験) 〇 経験談・権威者の意見
ラストの二つ(実験室の研究・経験談・権威者の意見)以外は、一般の方には耳慣れない専門用語だと思うので、これらの概念をわかりやすく説明している以下のPDFとサイトを参考として紹介しておきますね。
もう少し踏み込んで、「医療統計学」の基礎知識の参考としてPDFを以下にひとつ紹介していますが、統計学一つとっても深く難しいですね。
こういうものは別に専門家でないのであれば深く理解できなくてもいいと思います。ただ「エビデンスっていってもそんなに単純じゃない」ということがわかることに意味がある、と私は思います。
そうすれば「エビデンス的なるもの」を見せられても、ドップリと盲信してしまうようなことは避けられますので。PDF ⇒ 医学研究初心者のためのやっぱりわかりにくい統計道場
追加更新 – ここまで –
そして脆弱なエビデンスに基づく公的な判断は多くの被害に繋がる可能性もあり、例えば「ワクチン有害説」とかはその最たる例です。
○ 「エビデンス弱い」と厚労省を一蹴したWHOの子宮頸がんワクチン安全声明
疑似科学
「疑似科学」といっても定義は色々あり、例えば古来からある「迷信」などは基本的に「科学の装いをせずそのまま」なので、「全く根拠のない思い込み」というのは同質であってもこれは分けて考えます。
疑似科学で問題にされる点は、十分な客観的検証・実証もないまま「あたかも正式に認められた科学的事実」であるかのように振る舞う姿勢で、
フリンジサイエンス(境界科学あるいは周辺科学)は疑似科学に近いが、「プロトサイエンス(未科学)と疑似科学の中間にあるグレーゾーン的なもの」で未実証の仮説段階。
なのでフリンジサイエンスは疑似科学・トンデモ説と線引きは難しいでしょうが、先の「問題とされる疑似科学的姿勢」があるかないかそれ次第ですね。
プロトサイエンス(未科学)に関しても「科学的実証」は出来ていない、という点では同じですが、「正式に実証された科学的事実」であるような態度はとらない。ここで、「信頼度」でザックリ分けると以下のようになります。
(信頼度 低 < 信頼度 高)
迷信 < 疑似科学 < フリンジサイエンス < プロトサイエンス < 科学
ただ、「未科学」「境界科学」であっても、実証できれば「科学的事実」になるし、現在は「科学的事実」とされたものであっても、その中には未来において覆される可能性のあるものも含まれているでしょう。
そして記事の先頭でも書いたように、精神医学のような不完全で確立度の低い科学的分野の場合、疑似科学的な要素は入り込みやすいわけです。
そして「心・精神」というものは個の物質的な側面だけでなく、形而上の領域及び複合的な作用を含んでいるために、「明確でハッキリした対象・現象をメインに扱う科学領域」に比べると抽象度が高い性質があるのは仕方ないでしょう。
また、「疑似科学」~「未科学」の中に含まれる文化的意味、心理作用、創造的可能性、そして役に立つもの・有益性があるものに関しては、その分野・領域内では問題なく存在意義があり、
たとえそれが科学的事実とは異なるとしても、質的に異なる役割として調和・自立しているならいいと思うのですが、
科学の領域を強引に境界侵犯したり、過剰な科学批判や明確な科学的エビデンスを否定する、というような不毛な闘争関係や逆転現象は非常にマズい、ということなんですね。
◇ 関連外部サイト記事の紹介
○ ニセ科学は科学に擬態して、人々の科学概念についての誤解を利用する
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