今日は「認知・思考の個人と社会の関係」をテーマに認知の歪みや神経症やパーソナリティ、そして「うつ」を分析しています。 そして前回に引き続き、西田幾多郎のことばを幾つか紹介しています。
社会の中にいる個人が各充分に活動してその天分を発揮してこそ、始めて社会が進歩するのである。個人を無視した社会は決して健全なる社会といわれぬ。 出典:善の研究 第三編第十二章「善行為の目的(善の内容)」
我々は根本的に悪なるが故に良心を有し、個人的なる故に社会的限定の意味をもっていなければならない。 出典:『自愛と他愛及び弁証法』旧全集6巻
以下は堀有伸 氏による「現代うつを巡る考察」の記事です。内容は「メランコリー親和型」を「うつの病前性格」ではなく「日本人の特性ではないか?」と考えるもので、今回の私の記事テーマとも重なります。
「現代日本における意識の分裂について(1) 現代うつを巡る考察から」より引用抜粋
(前略)
木村敏や樽味伸のような精神病理学者は、メランコリー親和型を単にうつ病の病前性格ではなく、日本人の特性と通じるところがあると考えた。そして、木村は日本人における自己が西洋近代の主張するような自我とは別様のものであることを示し、次のような議論を展開した。「突発的な激変の可能性を含んだ予測不可能な対人関係においては,日本人が自然に対して示すのと同じように,自分を相手との関係の中へ投げ入れ,そこで相手の気の動きを肌で感じとって,それに対して臨機応変の出方をしなくてはならない。
自分を相手にあずける,相手次第で自分の出方を変えるというのが,最も理にかなった行動様式となる。このようにして,日本人の人と人のとの間は或る意味では無限に近い,密着したものとなる。
そこには,厳密な意味での『自己』と『他人』はもはや成立しない。自己が自己でありつづけるためには,自己を相手の中へ捨てねばならない。そして,相手の中に自己をもう一度見出して,それを自分の方へ取り戻さなくてはならない。」
このような自己が社会的な役割に同一化することを通じて、社会的な人間が形成されていくのであろう。西洋近代における「自我の確立」のような課題は、先送りされる。
筆者はこのような記載から、西洋近代が直面した個の疎外という課題を乗り越える積極的な可能性と、全体主義的な潮流に抵抗できない否定的な可能性の両方を感じるのである。
メランコリー親和型の病前性格を持つ典型的なうつ病と、現代うつをめぐる議論が混乱しやすいのは、二つの問題が混在しているからだと筆者は考える。一つは、精神疾患に対する社会の偏見が弱まり、早期受診する軽症例が増加したことである。
そのために、ある程度重症化してから受診することが普通であった時代に作られたうつ病治療の常識が、当然のように改変を迫られている。もう一つは、かつて日本国内で広く共有されていた「日本社会」への同一化が揺らぎ、価値観が多様化したことである。
20~30年前であるならば、患者も家族も、医療関係者や職場も日本社会全体への同一化が強かった。その時には患者の示す「同一化」の傾向を大切にする治療方針が奏功することが多く、道徳的にも正しいと考えられた。しかし、現代社会における状況は多様化している。
ある精神科医が「メランコリー親和型の強いものは,境界設定の曖昧な職場の中で,彼が『済まない』と感じる仕事があることに対してレマネンツ感情(注:負い目の感情に近い。注は筆者)を刺激され,それを回避するために際限なく仕事を負う孤立した立場になる」と論じたように、
同一化を行う傾向が強く個の確立が果たされない個人が、かつてのメランコリー親和型のように保護されずに経済的に搾取される可能性が大きくなっている。その中で、個別の状況への配慮が求められるようになっている点で、「現代うつ」への治療的対応は複雑で難しくなっているといえるだろう。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
認知・思考の個人と社会の関係
道徳的自己があるということは、自己を不完全としてどこまでも理想を求めることで あり、良心が鋭くなればなるほど、自己を悪と感ずるのである。出典:『叡智的世界』
認知療法は、アメリカのペンシルベニア大学精神科のアーロン・T・ベック教授が作り上げた精神療法で、「認知の歪み」を修正するものですが、
「認知のバランス異常」の原因は、先天的な気質・機能異常の場合もあるし、両親・家族の問題、そして幼児期~成人までの総合的な教育・成長過程で培ったものなど、様々でしょうが、
今回はそういうものが全ての原因ではなく、個人の「認知の歪み」と社会の状態がリンクしている、という負の力学を書いています。
「選択的抽出」「 過度の一般化」「 自己関連づけ」「 独断的推論」「 感情的決めつけ」「すべき・あるべき思考」 「百ゼロ思考」という認知の歪みをそれぞれ簡易説明しつつ、社会との関連性を見ていきます。
◇ 選択的抽出
物事・対象の悪い面・否定的側面ばかりに目がいき、それが全体的印象となり、他の面には気づかず、気づいても否定的に処理され、その結果、その部分以外何も見えなくなってしまう状態。
◇ 過度の一般化
幾つかの失敗、あるいは否定的な事例・経験だけで、「全て・絶対こういうものだ」と断定的に思いこむ傾向。
◇ 独断的推論
相手のちょっとした言葉・しぐさ・表情などから「相手からどう思われているか」を必要以上に気にし、勝手に相手の心を読み過ぎて、事実とは違う、あるいは一部の要素だけを膨らませて度が過ぎる結論を下してしまうような傾向。
◇ 感情的決めつけ
「自分は今こう感じている、ゆえに現実・みんなも同様のはずだ」と思いこむこと。
以上、まず4つ書きましたが、選択的抽出、過度の一般化、独断的推論、感情的決めつけというものですが、これは今の社会の状態もそうですね。
「ひとつの側面・概念・感情」からの印象操作・偏向報道によって、特定のイメージだけがピックアップされ、過剰な否定的感情バイアスがかかったラベリング傾向になる、そういう社会の状態があるでしょう。
「大きな物事・小さな物事・単純な物事・複雑な物事」の区別もなく、「デジタルな点の目線」で同一に「ある部分の否定的な要素」がクローズアップされ、それ以外は何も見えなくなって、多角的に見る姿勢もなく、それを全体化して断定的に決め付けて叩く傾向は増大しています。
◇ 自己関連づけ
自分の身の回りで起きる・起きた失敗・否定的な出来事・現象を、何でも「わたしのせい」と思って自己責任化してしまうこと。
◇ 「すべき・あるべき」思考
人間は「こうすべきだ」「こうあるべき」と潔癖な基準を作り、完全主義的な規範意識に囚われている。「本当はどうありたいのか?」は否定されるため、何をやっても不満足で、自らに課した過剰な自己規範によって自己嫌悪・無気力に陥る。
◇ 百ゼロ思考
一般的には、「立体的な物事」を黒か白かの二分法で考え、中間を考えないというものですが、実際は見落とされているのは「中間」だけではありません。「奥行や多元性」、「言語的な思考では捉えられない質」なども見過ごされています。
責任あるポストにいれば「自己関連づけ」や「すべき・あるべき」思考は必然的に強くなる傾向があります。これも真面目で善性が強い人ほど過剰適応になりやすく、その結果バランスを見失うわけですが、現代の日本社会に「おおらかさ」が認められることは少なくなりました。
むしろ「おおらかさ」は悪いもの・劣ったもののような言われ方さえします。なので、ひとつの失敗が全てを失うほどのことになるんですね。しかも再チャンスはほとんどありません。そして弱い個人ほど守られない。
ある種の「強迫症状」の増大現象の無意識的背景には「自己責任だけが過剰化する中での安心感の欠如、自己肯定感の慢性的な欠如」があると感じます。そして過剰な規範主義・同調圧力によって内外に制御され過ぎた結果の反動として強迫観念的な自己防御が働いているともいえるでしょう。
元来我々の欲求は我々に与えられたものであって、自由にこれを生ずることはできない。ただ或与えられた最深の動機に従うて働いた時には、自己が能動であって自由であったと感ぜられるのである、これに反し、かかる動機に反して働いた時は強迫を感ずるのである、これが自由の真意義である。出典:善の研究(岩波文庫)
理性・知能至上主義の現代社会では、言語的思考が優位になり過ぎているため、言語的な対象認識が過剰に適用される。それが理屈の領域・技術の領域にのみ向けられているのであれば適切なものですが、
感性を含んだ領域である非言語的な領域や、それらが入り混じった多元的な対象に過剰に向けられた場合、「質」の全体性が逆に見落とされるんですね。
つまり、この「認知の歪み」は社会の要請への過剰適応で形成される場合もあり、その人自身の本来の認識の傾向ではなかった可能性もあるわけです。
その場合、その人の元々の認識傾向は、単純に「真面目で素直」という基本的な傾向があっただけで、むしろ善性優位の性質を過剰適応に追い込んだ結果ともいえるでしょう。
そしてそこには、家庭・職場・社会を含めた外的な心理的力学が作用していますが、
「社会・周囲がそういう状態になるように追い込んでいる部分」がカットされ、そうなった結果だけを見て「元々この人はこういう歪んだ認識・性格だからこうなった」とひとくくりにラベリングされ自己責任・自己の問題にされてしまうことがあるわけですね。
自責型ループと他責型ループ
「自責型ループ」と「他責型ループ」の簡単な構造パターンを先の「認知の歪み」と合わせて書いてみました。
まず「先天的気質による性格傾向、幼少期~成人期までの物理的・精神的な環境、成人後の社会生活での物理的・精神的な環境」によって、① ストレス・抑圧による内的な機能不全 ⇒ ② 以下「自責型」と「他責型」へ分かれる。
「すべき・あるべき思考 」+「自己関連づけ」が基本ベース
② マイナス思考 ⇒ ③ 選択的抽出 ⇒ ④ 一般化 ⇒ ⑤ レッテル張り ⇒ ⑥ 否定的自己完結のラベリング ⇒ ②に戻る
この悪循環ループを繰り返すことで、自家発電的に思考運動のパターンを強化していく結果、それが慣習化され「形状記憶的なもの」になり、ますますドツボにハマる。結果 ⇒ 「自身そのもの」を原因として否定し攻撃するため、全く動けなくなる。
「独断的推論」 +「感情的決めつけ」が基本ベース
② マイナス思考 ⇒ ③ 選択的抽出 ⇒ ④ 一般化 ⇒ ⑤ レッテル張り ⇒ ⑥ 否定的な他者・事象のラベリング ⇒ ②に戻る
結果 ⇒ 自動的に「パターン化した負のループ」が「他者・環境からの刺激」によって誘発され、それを原因として否定し攻撃するため、社会適応が出来なくなる。両者とも、本当の「原因そのもの」は外にも内にもいない。それは「相互作用」で起きているため、どちらか一方が欠けても成立しない。
「刺激そのもの」は、ループと結びつかない限りは深刻な作用とはならない。なので人によっては何の負の影響ももたらさない。
負の思考ループが起きるのは、潜在意識の領域に既に形状記憶化されているからで、そうなるとそれが自動的に顕在意識に上ってくる。それによって心身のリズムを左右される。
これが単に顕在意識レベルの浅い負の感情・記憶であれば「寝れば忘れる」わけです。あるいは、覚えていても心身のリズムは簡単に切り替えられるわけです。
私が人格的となるといふことは、創造的なるものに接するといふことでなければならぬ。人格的となればなる程、創造的なるものに接するといふことができる。逆に創造的なるものに接すれば接するほど、私は人格的となる。出典:論文『現実の世界の論理的構造』
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