人格障害という言葉への疑問   精神医学的・心理学的な概念の拡大解釈

 

「人格障害(パーソナリティ障害)」という言葉はかなり強い響きがありますし、精神医学的な概念が拡大解釈されて、「多少言動がおかしかしい」というだけで人を精神病扱いするなら、それは別の問題を引き起こすでしょう。

当ブログのスタンスは、精神医学・心理学的な概念だけで人を見ていくものではありません。「精神医学・心理学的に見るとこう定義される」という学問的・専門的な基礎的な見解を書きつつ、同時に全く違う角度からも見ていきます。

ですがそれらは結局「人間とは何か?」という巨大なテーマであるため、非常に時間がかかりますし、たかだか数十や数百の記事程度ですぐに全体像の明確化に至るような簡易なものではありません。

いや、そもそもそれは「絶対的な答え」もなければ「最終結論」もない問いかけの連続でしかないでしょう。

現段階ではまだブログ作成から日も経っていないため、「部分の段階」に止まっていますが、徐々に角度を広げてきます。

ドイツの精神医学者である「クレッチマー」は『精神異常の性質は健常の中にもあり、その性質がより顕著にあらわれ、社会的に逸脱してしまったものが精神異常者』と述べていますが、この見解は私もそう思います。

「クレッチマー」に補足してさらに言えば「社会的」という「公的な活動の逸脱性」だけでなく、「日常生活の困難や、心身の苦痛や混乱、家族や身近な人間関係の破綻などの破壊的なバランス異常が生じている、破壊的な影響力を与えている」という、その点が最も重要なことであり、

考え方が違う、価値観が合わない、生き方が気に入らない、何か言ってる事・考え方がおかしい、生理的にムカつく、など、ちょっとした違和感や異質感、主張・言動の違いや、気質・思考・観念の型・感情表現の個人差だけで、

「自分と合わない者・自分の意にそぐわない者」に対して「人格障害」という強い否定的な響きの言葉を使うのはよろしくないと思います。

本人は「社会的・公的な活動の大きな逸脱・脱線」も特に起こしておらず、日常生活の困難や、心身の苦痛や混乱、家族や身近な人間関係の破綻などの破壊的なバランス異常が生じているわけでもなく、

また「他者の精神にそのような破壊的作用・影響力を与えている」という明確な事実があるわけでもないのに、人格障害・精神障害という言葉が「気に入らない相手を攻撃するための武器」として独り歩きするのは、本末転倒であると言えます。

そういうことを踏まえた上で、「人格障害」というものが実は健常者と紙一重のものであり、一般の人にも見られる要素であることを書こうと思います。

私達が「テレビで上から目線で語っている一部の心理学者や精神科医」などに不快感や疑問を抱くのは「私は正常な人間で私に分析される側は異常な人」という「確定的に決めつけた態度」と「人間の区分け」にあると思いますね。

もちろん「何かを定義する事」は人間にとって必要なことであり、それがなければ言葉自体が存在出来ないわけですが、

人間というものを立体的に見ていくならば「定義している側」も、そして「定義されている側」も、どちらも紙一重の「不完全な人間存在」ということに気づくでしょう。

相手と戦うためにその武器として心理学的な概念や精神医学の概念を使うのではなく、競争原理と価値判断が結びついた「専門知識の恣意的・ご都合主義的な使い方」をするのではなく、

あくまでも「人間を立体的に見ていくためのひとつの角度」として参考にするというスタンスであるならば、

「テレビで上から目線で語っている一部の心理学者や精神科医」や「何らかのイデオロギーに極端にとわれている者」や「何らかの観念・思想を盲信する信者たち」のように、

相手を言い負かしてやろう」「正しいのは私で間違っているのは相手・対象だ」というような、闘争心理から専門知識が濫用されたり拡大解釈されたりするような本末転倒なことにはならず、

専門知識・技術は「日常生活の困難や、心身の苦痛や混乱、家族や身近な人間関係の破綻などの破壊的なバランス異常が生じている人々」を助けるための手段として適切に機能し、

事実の現象として存在する「他者の精神に破壊的作用・否定的影響力を与えている力学」をより明確化することで人々を負の力学の影響から守るという役割を果たすことでしょう。

つづき 「社交的 内向的」・「美徳 健全」の文化的相違 – 人格障害という言葉への疑問 part2

 

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