哲学なき臨床が生む支配──「問い」を取り戻すための哲学的実践

 

現代のポリコレやキャンセルカルチャー、そしてアイデンティティ政治の先鋭化には、レヴィナスが批判した「全体性」の論理がしばしば見られます。

そこでは「正しい言葉」や「正しい態度」、「正しい歴史認識」や「正しいジェンダー観」といった規範が道徳的純粋性の基準として絶対化され、異論は単なる誤解ではなく「悪」や「差別」や「暴力」として扱われます。その結果、議論の余地が失われ、相手の存在そのものが否定されてしまいます。

レヴィナスが「顔」と呼んだ、他者が自分の理解を超えて存在するという事実も見えにくくなり、キャンセル文化の中では他者がラベル化された存在へと押し込められます。こうした状況は、レヴィナスが最も警戒した「正義の名による暴力」が、現代的な形で表面化していると言えると思います。

 

 

ではまず一曲紹介です。Hetty & the Jazzato Band「Tu Vuo’ Fa’ L’Americano」です♪ これはハマるなぁ。

 

たまに「批評家の○○の批評を読んで△△が好き/嫌いになった」等の話を聞くけれど、音楽にせよ絵画にせよ映画にせよ漫画やその他の何かの作品せよ、それに触れるとき、「批評家」なんてものをそもそも介さない。 「インテリ批評家の言葉」なんてどうでもいいからです。

アカデミア人の芸術云々の語りも基本どうでもいい。しかしアカデミックではない製作者たちの「癖の強い生の語り」は好きですね。

 

ムフ思想の現代批判

シャンタル・ムフ(政治哲学者)の「政治的なるもの」は、本来、対立を消去せず、敵を抹消せず、正統な対抗者として共存させることを前提としたアゴニズムの構想です。

ムフは、リベラル民主主義の理想が対立を合意によって消去しようとすると、社会的緊張が地下化し、潜在的に暴力的・非民主的な形で再噴出する危険性があると警告しました。

もし制度化された言説が、問いを単数化し、立場を道徳的に序列化し、例外を吸収・無効化するような運用を行う場合、それはムフのアゴニズム的構想とは異なり、彼女が批判した「コンセンサス政治」の典型に近づきます。

コンセンサス政治の特徴は、問いや立場の単数化によって多様な価値観を「正しい合意」に還元し、異論を非合理的・非道徳的として排除すること、そして道徳的序列化によって立場の優位性を示すことにあります(例として、特定の被害経験に基づく優位性の強調が起きやすい傾向)。

ポリティカル・コレクトネスの規範絶対化は、このようなコンセンサス政治の病理に陥るリスクを孕んでいます。

また、例外の吸収・無効化は、対抗者の正当性を認めず、「敵」として排除することにつながり、ムフのアゴニズム—正統な対抗者との闘技的共存—の実現を阻害します。

 

ムフは、ブレアらの「第三の道」のような新自由主義的合意形成を例に、対立の消去を前提とするコンセンサス政治を批判しています。このような合意は、社会的緊張の地下化を招き、長期的には非制度的な対抗やポピュリズム的圧力の発生と結びつきやすい、と指摘しています。

真の民主主義は、対立や緊張を完全に消去するのではなく、「闘技(agonism)」に転換し、制度の枠組みの中で共存させることを前提とします。

この観点から現代のキャンセルカルチャーやアイデンティティ政治をみると、異論排除や規範絶対化の傾向は、コンセンサス政治的病理の現代的表現として理解することができます。

 

たとえば男性を「加害者カテゴリー」として一括りにし、個々の顔を見ずに構造的加害者として扱い、異論を女性嫌悪として封じ、正義の名のもとに他者の存在を裁くような態度は、レヴィナスが批判した全体性の運動そのものです。

もちろんフェミニズムには多様な潮流があり、すべてがこのような傾向を持つわけではありませんが、規範の絶対化から異論の道徳化、そして他者の抹消へと向かう構造が現れるとき、それはレヴィナス的な意味での「戦争」の論理に近づいていきます。

 

正義の名のもとに行われる暴力は自覚されにくく、被害の経験は他者の顔を見えなくするほど強い道徳的力を持ちます。さらにアイデンティティ政治は、他者を「敵」として構造化することで自己を確立しようとする傾向があり、その分だけ対立は固定化されやすくなります。

つまり正義の運動であればあるほど、レヴィナスが警告した「戦争の論理」に陥りやすい面があると言えます。レヴィナスは他者の顔を見ることを倫理の出発点としましたが、現代の文化戦争はSNSやメディア、運動の構造によって、むしろ顔を消す仕組みを強化しています。

ラベル化やカテゴリー化、道徳的純粋性テスト、群衆による断罪、「敵」の人格の消去といった現象は、レヴィナスが恐れた「全体性の暴力」が、今日の社会で新しい形を取って現れていると言えるでしょう。

 

ここでシャンタル・ムフが区別する「政治的なるもの(the political)」「政治(politics)」という概念を重ねてみると、この構造がさらに立体的に見えてきます。

ムフが言う「政治的なるもの」とは、社会に避けがたく存在する対立性や敵対性のことで、人間がアイデンティティを形成する際に生じる「われわれ/彼ら」という緊張関係を指します。

この発想は、カール・シュミット「友/敵」論から着想を得たもので、制度や合意を超えた存在論的な次元に属し、社会の中で常にヘゲモニーをめぐる力の争いとして現れます。

これに対して「政治」は、その根源的な対立性を制度的・実践的に扱う領域を意味します。議会制民主主義や政党間の競争、政策決定といった具体的な活動がここに含まれ、対立を暴力ではなく手続きの中で処理しようとする営みとして理解されます。

 

ムフは、リベラル民主主義の弱点として、「政治的なるもの」を否認し、対立を合意によって消し去ろうとする傾向を指摘します。彼女は、対立を排除するのではなく、敵を完全な敵としてではなく競争相手として位置づける「闘技(agonism)」へと転換する必要があると述べます。

この考え方は、レヴィナスが「戦争の可能性は永続する」と語ったときに見ていた現実と、別の理論的枠組みから同じ地平を捉え直していると言えます。両者は、対立や戦争の可能性が消えないという前提を共有しつつ、その扱い方に異なる倫理的・政治的方向性を与えているように見えます。

 

この視点から見ると、現代のポリコレやキャンセルカルチャーに見られる規範の絶対化は、「政治的なるもの」を抑圧し、表面的な平和を作り出す一方で、対立を地下に押し込めてしまう危うさをはらんでいるといえます。

対立をなかったことにしようとするほど、異論が道徳化され、社会の緊張が別の形で噴き出す可能性が高まるという点で、ムフの議論とレヴィナスの警告は、現代の文化戦争やアイデンティティ政治の状況を批判的に照らし出しているように思われます。

 

語りの制度化と経験の喪失

「個人的なことは政治的なことだ」。1970年代のフェミニズムを象徴するこの言葉は、当時の社会で語れなかった苦しみを可視化するための枠組みとして機能した。

しかし、この語りは時間とともに“正しい理解の形式”として制度化され、別の種類の語りを周縁化する力も持つようになった。かつて解放の言葉だったものが、いつのまにか経験の多様性を整理し、特定の解釈へと導く枠組みとして働き始める──その転換点こそが、いま改めて問われるべきでしょう。

この“語りの形式の固定化”は、歴史的な問題にとどまりません。現在の心理臨床や人文系の言説にも、同じ構造が静かに浸透しています。

その結果として生まれるのが、「この悩み、本当にあなた自身の言葉で語れているのか?」「専門家が用意した概念や解釈のテンプレートに当てはめられていないか?」という違和感です。

 

専門語りの正当性と限界

重要なのは、すべての専門的な語りが問題というわけではない点です。医師が病気や治療について説明するとき、科学者が実験結果や法則を語るとき、その説明は検証可能な事実に基づいています。こうした領域では、専門家の語りは価値の押しつけではなく、事実の提示として機能します。

たとえば患者が医師に対して「それはあなたの価値観の押しつけでは?」と反論する必要は基本的にありませんし、物理法則の説明に対して「複数の解釈を並べるべきだ」と非専門が対抗する必要も基本的にありません。

価値判断を扱う学問領域もありますが、すべてが「個人の経験を奪う構造」を持つわけではありません。今回問題にしているのは、「専門家が解釈命題を事実命題のように扱い、異論の余地があるにもかかわらず異論を道徳的に封じること」です。

 

「問いの立て方」を独占するメタ権力

フェミニズムを基盤とする心理臨床で最も巧妙な権力は、結論を示すことではなく「問いの形式」を規定する点にあります。

問いとは単なる疑問ではなく、経験をどの概念枠組みに接続するかを決める操作であり、思考可能性の地平を形作る行為です。何を原因とみなし、何を問題とみなし、何を検討対象から外すか。問いの段階で、すでに方向性は与えられてしまいます。

ミシェル・フーコーが指摘するように、言説は単に答えを与えるのではなく、「何が問いとして成立するか」を規定します。正しい答えの前に、正しい問いが制度化されるのです。

 

たとえば「私が悪いのでは?」という内省が、「内面化された抑圧」という言葉で処理されると、その内省は反論されたわけではなく、問いとしての資格を失ってしまいます。ここで否定されているのは内容ではなく、問いの形式です。

なんでもかんでも「全部自分のせい」と考えることは思考停止につながりますが、「全部構造のせい」とあらかじめ規定することも、同様に思考の自由を制限します。両者の違いは結論ではなく、枠組みの由来にあります。外部から与えられた説明形式が、当事者の思考を先取りしてしまうのです。

この段階で生まれるのは、認識論的な非対称性です。問いの選択権が当事者ではなく専門家に属してしまいます。

 

たとえば「自己肯定感という言葉は嫌い」「他責こそが解放だ」といった発話も、制度的権威の位置から語られると単なる価値判断ではなく、臨床的な方向付けとして作用します。ここで起きているのは、価値判断の真理化です。

さらに、「自己肯定感という言葉は嫌い」と感じることと、「構造という言葉は嫌い」と感じることは形式上同じ水準にあります。どちらも概念への違和感であり、経験の単純化への抵抗です。

しかし専門家が一方のみを理論的に正当化すると、個人的感覚が規範的優位へと格上げされ、非対称性が生まれます。こうして経験は解釈の出発点ではなく、解釈を適用される素材になってしまうのです。

 

ここで必要なのは、過去の哲学者の体系を学ぶことではなく、概念の前提そのものを問い直す「哲学する力」です。なぜその言葉で語るのか、他の語り方はありえないのかを問う態度こそが、解釈の唯一化を防ぎます。

問いを立てることは、結論を出すことではなく、枠組みの選択肢を保持する行為です。専門家の価値観が唯一の正解として固定されると、当事者は思考の主体ではなく、単なる説明体系の内部要素に置き換えられてしまいます。語りは許されても、問いは許されません。この段階で、主体性の縮減が生じるのです。

本来、問いを立てる権利は当事者自身に属します。専門家は問いを与える存在ではなく、問いの競合可能性を保障する役割を担うにすぎません。

問いが複数であり続ける限り、理論は道具として機能します。しかし、問いが単数化されると理論は規範へと変質し、その規範が不可視化されると、解放の名のもとに静かに支配が成立してしまいます。

 

「家族ポリティクス」という名の排除

シャンタル・ムフが語る「政治的なるもの」の概念は、社会に不可避に存在する対立や緊張を抑え込まず可視化し、異なる立場が衝突しながら共存できる空間をつくるための考え方です。個々の経験や対立の多様性を尊重し、それを押し付けずに開く理論です。

しかし、日本の制度化されたフェミニズム言説では、ムフの理論そのものが積極的に参照されるわけではありません。実際の運用はしばしば、この本来の方向性とは逆に働きます。

家族内の具体的で複雑な葛藤が「家族ポリティクス」という抽象語に置き換えられると、専門語を使わない当事者の語りは「未理論化」や「十分に整理されていない」とみなされ、議論の中心から外れやすくなります。

さらに、家族内の対立が「女性=被害者」「男性=加害者」という単純な属性軸で整理されると、相互加害や男性被害、ジェンダー以外の要因が絡む対立など、多様な現実が見えにくくなります。

本来は「多様な敵対性」を認めるムフの概念が、制度化された言説では「語りの幅を狭める装置」として働いてしまうのです。

 

「鉄のトライアングル」と自己増殖する権威

こうした一方向の言説が強固になるのは、思想が単なる理念ではなく、制度として要塞化されているためです。資格制度や学会ネットワークは、特定の思想傾向を持つ専門家を選抜し、保護する役割を果たします。また、出版・講演・企業研修・メディア出演といった資本の回路は、その言説を増幅し、経済的・社会的利益をもたらします。

批判者は「構造を理解していない」「専門性が欠如している」とレッテルを貼られ、キャリアや承認の場を失いやすくなります。この構造は、かつての左翼知識人が「体制批判を通じて体制内での地位を維持した」仕組みにも類似しています。

 

制度化された言説に対抗するための実践

制度化された言説は「例外(自分たちの指定した定義の範囲から外れるもの)」を嫌います。例外は理論の輪郭や限界を露わにしてしまうからです。男性被害、相互加害、女性加害、構造では説明しきれない個別事情――こうした例外を語ること自体が、制度化された言説に対する強い抵抗になります。

しかし制度化された言説は、単に単一の正解を提示するだけではありません。対抗的な解釈さえも枠組みの内部に吸収し、無効化してしまう力を持っています。そのため、複数の解釈を並べるだけでは独占は崩れません。必要なのは、「どの解釈を採用するかを決める権限」を当事者に返すことです。

構造として語るのか、性格として語るのか、偶然として語るのか、あるいは語らずにおくのか――その選択権を当事者自身が持つこと。それこそが、語りの主導権を取り戻す核心です。

専門家の枠組みに依存しない対話の場は、制度への対抗軸になり得ます。経験を交換し、解釈を押し付けず、唯一の正解を作らないことが重要です。

また、制度化された言説を相対化するには、異なる認識論に触れることが有効です。学問、芸術、宗教といった多様な実践は、それぞれ異なる仕方で経験を開きます。概念化しきれないものを保持する形式に触れることで、語りは単一の枠組みに回収されにくくなります。

 

たとえば以下のような「野の問い」は、視点がとても鋭いです。問いの言語表現の形なんてものは素朴な形でいいのです。こういう問いをどんどん立てて、そこから思考を深めていけばいいのです。

 

専門知に偏った学者は門家同士の言語を前提に議論を進めがちです。しかしそれはインテリの高度な自己満足になりやすく、外部の「他者」を置き去りにしたまま自己完結してしまうことがあります。

身体知や実践知、状況知の欠如に気づけず、その盲点ゆえに“大衆よりも知らない”という状況に陥ることすらあります。

 

問いを自ら立て、経験を自分の言葉で語り、どの解釈を採用するかを選び直すこと。それが制度化された言説に対抗する力です。

これは体系の暗記ではなく、自ら概念の前提を問い直す「哲学する力」を持つということにほかなりません。そして言語の限界を自覚し、身体的な実践を通じて経験の幅を広げていくことでもあります。

問いが単数化されると、理論は規範になります。規範が不可視化されると、支配が成立します。臨床の課題は、解釈を与えることではなく、問いを複数のまま保つことにあります。

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