熊と鹿の社会   語りの倫理と労働市場のゼロサム構造

 

本題に入る前にまず一曲紹介です♪  The Graystonesの演奏で、レディオヘッドの曲「Creep」のcoverです。

ライブは23曲構成の長丁場で、22曲目の「Creep」は終盤に演奏されたため、メンバーはかなり疲れていたようです。でも感じは十分に伝わってきます♪

 

 

 

以下のツィートの指摘は、いまの知的環境全体を見渡す上でとても重要でしょう。

 

 

現代の日本社会における知的言説において「前衛主義」と呼ばれる構えを感じることが多々あります。つまり、人文系の学者や文化人が「大衆を導く立場にある」と無意識に前提して語る、そんな構造です。

「社会正義」や「進歩」といった美しい言葉の陰にも、どこかで「わかっていない人々」を見下ろす視線が潜んでいないでしょうか。

それは、右派・左派といった政治的立場を超えて、日本の知的文化に深く根づいた“語りの癖”のように思われます。

 

吉本隆明『共同幻想論』において、個人が共同幻想に拘束されながらも、それを意識化しうる存在であることを示した。この視点は「大衆の原像」論での主張──大衆を生活感覚に根ざす主体として捉える──と連続している。


よって、彼にとっての「大衆」とは、単なる受動的存在ではなく、自らの生活を通じて世界を判断しうる主体である。

つまり、知識人が「教える側」に立つのではなく、生活者の思考力を信じること──そこにこそ思想の出発点がある。この視点は、単なる「知識の民主化」よりもさらに深い次元、すなわち「語りの民主化」へとつながります。

 

「パブリックヒストリー」という概念も、この文脈で考えると示唆的です。本来は「専門家と市民が共に歴史を語る営み」を意味します。しかし現実には、専門家が語りの枠組みを握り、市民の声を「素材」として扱う構図が少なくありません。

 

 

「市民参加」という看板が掲げられても、実際には“語る側”と“聞く側”の非対称性が温存されている。これは「知識の民主化」というスローガンの裏に潜む、語りの独占構造です。

語りの倫理とは、「誰が語るか」ではなく、「どのように語るか」を問うこと。語りの姿勢そのものが問われている。これこそが、現代の知の危機の核心だといえるでしょう。

 

もう一つ見逃せないのが、「労働の価値」と「知の階層化」の問題です。日本では、学歴や企業ブランドで人の価値を測る傾向が根強く残っています。

 

 

上のツィートに『正直、今の大学なんて医者・弁護士・科学者になりたい人以外にはほぼ詐欺みたいなもん。』とありますが、まあさすがにそうは思いません。

しかし、『ブルーカラーの仕事にもっと価値を置けば、若い人も興味を持つと思う。そろそろ「大学行かないとダメ」みたいなくだらない価値観は捨てよう。』というのは部分的にはわかります。

 

エマニュエル・トッドが指摘するように、アメリカでは製造業の技術者人口が著しく減少しています。

米国労働統計局(BLS)によると、2025年時点で製造業の熟練技術者は約50万人以上不足しており、特に溶接・機械加工・電気整備などの分野で顕著です。

建設・電力・水道・輸送などの基幹インフラは、現場技術者によって支えられている。技術者不足により、老朽化した設備の修繕が遅れ、事故や災害リスクが高まる。また熟練工の高齢化と若手の不在により、現場知の継承が途絶える。

 

しかし実際には、これらの仕事こそが社会の基盤を支え、AIにも容易に代替できない分野です。AIはブルーカラー職の一部を効率化・支援することはできますが、

建設・電力・水道・輸送・介護などの基幹インフラ分野では、約2〜3割程度の業務が自動化・AI代替可能とされ、残りの大部分は人間の身体性・判断力・倫理性に依存しています。

 

 

現場で判断し、状況に応じて創造的に対応する力──それは「知識」よりもはるかに実践的な知恵(フロネーシス)に近いものです。

もし大学教育がその価値を見失い、資格取得や就職のための通過儀礼に堕しているのだとしたら、それはまさに「知の空洞化」と呼ぶべき事態でしょう。

 

 

この構造的な非対称性は、すでにアメリカ社会でも顕在化しており、日本もその後を追っています。経済的困難を経験せずに大学へ進み、親の資金で留学した人々が、やがて学者やメディア関係者となり、「社会を語る側」に立つ。

しかし、そうした人々が地方の庶民や非正規労働者の感覚を本当に理解しているか、そこには疑問が残ります。

 

「出羽守」や「インクルージョン専門家」と呼ばれる人々もまた、「包摂」や「多様性」を語りながら、実際には語りの特権を手放していないのではないでしょうか。さらに厄介なのは、「正しさ」を掲げる側の語りが、しばしば免責の構造を伴うことです。

過去の発言や行動をもって他者に「反省」を迫る一方で、自らの語りやその運動が誰かを傷つけた事実や大小の問題を引き起こした事実や可能性には沈黙を守る。

 

「誰が語るか」によって許容の基準が変わる状況は、語りの倫理を根本から揺るがします。

「正しさ」が免罪符となり、「包摂」が排除の手段に転じるとき、社会運動や批評の言葉は、その理念を裏切り、新たな暴力装置へと変質してしまいます。

 

前衛主義の病理は、学者が「大衆はまだ成熟していない」と見なし、その上で自らの語りを正当化してしまうところにあります。そこには、無意識のエリート主義が潜んでいます。

 

吉本隆明の「大衆の原像」は、まさにその構造を根底から批判しました。彼にとって大衆とは、政治的ラベルを超え、「生きることそのもの」に根ざした主体です。これは、古代ギリシャ的な「衆愚政治」批判とはまったく異なる視点です。

問題は「大衆が愚か」なのではなく、「政治や知識の構造が大衆を愚かに扱うこと」にあります。批評は人を見下ろすものではなく、共に考えるための言葉であるべきです。

 

民主主義の質を決めるのは「民度」ではありません。むしろ、「語りの構造」です。専門家がどこまで生活者の視点に降りて語れるか、それは誰のための言葉なのか、こうした問いを引き受けることこそが、民主主義を成熟させる道です。

「知識の民主化」から「語りの民主化」、それは形式化した思想を壊し、生活のリアルに接続する営みです。前衛なき政治、生活者への信頼、語りの倫理の再構築、その延長線上にこそ、これからの言葉と民主主義の希望があるのではないでしょうか。

 

 

熊問題とポリコレ社会 ― 経済と社会の森に何が起きているのか

「語りの非対称性」は、思想界だけの話ではない。労働や経済の現場にも“見えない前衛主義”が潜んでいる。たとえば、「熊が森を追われる構造」を見てみましょう。

近年、熊が人里に出没するニュースが相次いでいる。背景は複合的ですが、その一つの要因として森の中で鹿が増えすぎ、限られたドングリや木の実が食べ尽くされたという事情があります。

そして餌を奪われた熊のうち、力の弱い個体から順に森を追われ、人里へと下りてくる。

森の奥にはオスのボスグマがいて、自分以外のオスを駆逐し、非血縁の子グマを殺すという生態も記した。 ➡ 市街地出没のクマ、多いのは「駆逐された若いオス」「繁殖相手にならない子連れのメス」

この構図は、実は現代社会にもよく似ている。労働市場という「森」の資源(仕事・賃金・地位)は有限であり、そこに新しい「鹿」――女性、移民、高齢者、そしてAI――が次々と参入している。

その結果、森で生き残れない「熊」、すなわち既存の労働者、とりわけ経済的弱者(特に男性)が社会の周縁に追いやられているのである。

 

ある集団の参入が別の集団の取り分を減らすように捉えることを「ゼロサム思考」と呼ぶことがありますが、平たく言えば「誰かが得をすれば、誰かが損をする」という感覚のこと。

しかし、成長が止まり資源が限られる局面では、それはもはや感覚ではなく、実際のゼロサム構造として現れることがあり、予算や定数(枠)が決まっている場合もそうでしょう。

経済成長や技術革新等によって新たな価値が創出される場合はプラスサム(ノンゼロサム)の状況となり、全体の利益が増加するため、ゼロサム思考が錯覚となることもありますので、長期的には錯覚と現実は文脈に依存します。

「ゼロサム⇄プラスサム」は静的な対立ではなく、経済環境に応じて移行する可変構造だということ。

 

産業革命期のイギリスにおいて、工場に女性や子どもが大量に雇われ、熟練男性労働者の賃金が低下。1811〜1817年には「ラッダイト運動(機械打ち壊し)」が発生した。

1970年代アメリカでは、女性の労働参加率が1960年の37%から1980年に51%へ上昇。一方で製造業雇用は1979年の1,950万人から1990年に1,700万人へ減少。とりわけ高卒以下の白人男性の賃金が停滞した。

デヴィッド・オーターらの研究によれば、「中国ショック」が低学歴層の賃金低下を引き起こした。

戦後日本においては、高度経済成長期は実質GDP年平均成長率9.1%という高成長が続き、女性の参入による競合は緩和された。

 

経済が拡大する局面では熊も鹿も共存できる。しかし停滞局面では、「新しい参入者」が「既存の弱者」を押し出すという構造が顕在化する。

 

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社会学者ピエール・ブルデューは、格差は経済資本だけでなく文化資本・社会資本を通じて再生産されると指摘した。この視点から見ると、ポリコレ的支援の裏で「支援の網から漏れる層」が生まれている。

OECDデータ(2021年)によれば、日本の25〜34歳男性の大学進学率は55%で女性の60%を下回る。低学歴男性は非正規雇用に集中し、年収中央値は200万円台にとどまる。

東京大学研究チーム(2022年)によれば、高学歴・高収入男性ほど既婚率が高く、低学歴層では未婚が多数を占める。

 

内閣府「孤独・孤立調査」(2023年)では、20〜30代男性の約2割が「しばしば孤独を感じる」と回答。このように、「経済的弱者である男性」は、女性支援制度やマイノリティ政策の想定外に置かれがちである。

内閣府報告書『社会的排除にいたるプロセス』(2021)は、排除の要因として「制度との接点の欠如」を強調している。つまり、制度の善意が「もう一つの排除」を生む――これが制度的排除(Institutional Exclusion)である。

 

ここで、「森の資源不足」という比喩を労働市場だけでなく社会全体に拡張してみましょう。

日本社会が直面しているのは、労働力の減少と社会保障費の膨張という二重の資源制約である。総務省によると、2025年には高齢化率は29%を超える見込み。生産年齢人口は1995年の8,700万人から2025年には7,000万人台に減少。

国の社会保障給付費は1990年の50兆円弱から2022年度には約132兆円へ膨張。今後も年金・医療・介護費が財政を圧迫する。65歳以上の就業者は2010年の580万人から2024年には約930万人へと増加(総務省)。しかしこれは“自発的就業”だけではなく、“生活防衛型就業”であるケースも多い。

 

このように、森の栄養(税・保険料)は減り続ける一方、消費する「老いた鹿」は増え、若い熊(現役世代)は負担にあえいでいる。つまり「森の資源不足」は、労働市場の飢餓だけでなく、社会保障財源の枯渇としても表れているのだ。

結果として、現役世代は「雇用の不安」と「将来不安」という二重苦にさらされる。これは経済的にも心理的にも、熊が森を去る(社会的離脱)方向に作用してしまう。

 

さらにAIと自動化は、森そのものの生態系を変えてしまった。もはや「誰が餌を取るか」ではなく、「餌の種類そのものが変わる」時代である。

労働政策研究・研修機構(JILPT, 2025)によれば、AIを導入する企業の従業員割合は12.9%、自らAIを利用する労働者は8.4%に達する。

これはケインズが1930年に予言した「技術的失業」そのものである。AIを使いこなせる“強い熊”は森に残るが、スキルを持たない“弱い熊”は森の変化に耐えられない。

 

熊が人里に下りてくるのは、熊が悪いからではない。しかし、森の資源はもはや無限ではない。木の実は減り、土壌は痩せ、季節は変わった。この国の森(社会)もまた、急速に痩せている。

労働力人口は確実に減り、社会保障の支え手は細る。子どもは減少を続け、出生率1.2という数字は構造的縮小を意味する。

もはや「成長して分け合う」時代ではなく、「縮小の中でどう生き残るか」を問われている。そこに、AIや移民を導入しても、単純な代替策にはならない。移民もまた高齢化するし、AIは利益を特定の層に集中させるからだ。

 

もはやかつてのような「年5%成長」や「完全雇用」は望めない。だが、局所的な創造――地域産業、テクノロジー、ケア、教育――の中で、人と人が協働して新しい価値を生み出すことは可能だ。

小さな成功がつながり、森全体の生命力を少しずつ回復させていく。それは奇跡ではなく、データに裏付けられた現実的な再生の道である。

「語りの民主化」とは、知識の平準化ではない。 むしろ、知と経験、専門と日常、理論と実践の翻訳と循環のネットワークを形成することに他ならない。 その意味で、吉本隆明の遺した思想的課題――「大衆を信頼する思想」――は、今なお未完の民主主義の根底にある。

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