無意識の転写のミラーニューロンや2・6・2の法則などの個別のテーマは予定よりも随分と遅れていますが、出来るだけ多角的に「無意識」というものを考察・分析していきたいので、このテーマは来週も引き続き書いていきます。
今日はミラーニューロンpart1ですが、ミラーニューロン仮説のまえに、受動意識仮説とクオリアについて書きますね。これらは完全に実証されたわけではないです。
仮説段階なのですが、現時点での科学的な研究結果や部分的な証明から推測して、また深層心理学的に見て、おそらくどれも正しい概念だと考えられます。(全部が正しいというわけではなく、「部分的に」の意味)
今日はミラーニューロン、受動意識仮説、クオリアと顕在意識と無意識の関係をおおまかですが整理してみます。(科学的な考察だけでなく、東洋的な思想観も含め、哲学的な考察も含まれています。)
受動意識仮説
受動意識仮説については以前の記事内で「慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授」の前野 隆司博士のYouTube動画でも紹介しましたが、その動画は時間が長いものなので、もう一度簡単に受動意識仮説とは何か?と、その根拠・部分的証明ともなる実験を引用紹介します。
「マインド・タイム 脳と意識の時間」 ベンジャミン・リベット著 下條伸輔・訳 岩波書店 より引用抜粋
『リベット博士は、時計回りに光の点が回転する時計のようなモニターを開発した。そして、脳に運動電位準備を図るための電極を取り付けた人に、モニターの前に静かに座ってもらった。その人には、心を落ち着けてもらい、「指を動かしたい」という気持ちになったときに、動かしてもらった。
(中略)
つまり、「意識」が「動かそう!」と「意図」する指令と、「無意識」に指の筋肉を動かそうとする準備指令のタイミングを比べたのである。この結果は衝撃的であった。「無意識」下の運動準備電位が生じた時刻は、心で「意図」した時刻よりも約350ミリ秒早く、実際に指が動いたのは、「意図」した時刻の約200ミリ秒後だったのである。指が動くのが「意図」よりも遅いというのは、もちろん予想通りである。
一方、運動準備電位が「意図」よりも350ミリ秒早いということは、心が「動かそう!」と「意図」するよりも前に「無意識」のスイッチが入り、脳内の活動が始まっているということを意味する。』 - 引用ここまで
これが受動意識仮説の根拠となっている実験結果です。つまり、私たちを動かしているものは無意識・潜在意識であり、顕在意識は「その無意識活動に選択的なスポットライトを当てたもの」であり、
「選択的にスポットを当てた無意識の動きの断片」を意味付けして記憶する(エピソード記憶)の機能に過ぎないというものです。
そして脳科学的には「意識」の発生・原因は「脳」に還元されるため、物質が意識を生み出したということになりますが、そうなると「自由意志」の問題が生じてきます。
「私の行為」の主体は「私」を生み出した「脳」= 物質にあり、「私」は「脳」= 物質に先立つものではないから「私」には根本的な意味で主導権はない。
脳からの指示をそのまま表しているだけの受動的存在に過ぎず、「私」には根本的な意味で選択権もない、つまり「決定論」的な人間観に繋がるわけです。
しかしそうなると、主導権も選択権もない存在に「責任」を問えるのか?という必然的な問いが生じます。
逆に「私」は脳= 物質に先立つ意志の主体というのであれば、「物質でない何かが物質に影響・作用を与えて動かす」という神秘主義的な何かを肯定することに繋がるわけですね。
「自由意志の問題」に関する様々な捉え方に関しては以下のPDFを参考に紹介しておきますね。⇒ PDF 脳科学と自由意志
受動意識仮説は、無意識・潜在意識・顕在意識という深層心理学の構造とも関連し、また東洋的な身体観・意識の捉え方にも部分的につながりますが、この理論だけでは部分的な一致に過ぎません。
東洋的な身体観・意識の捉え方は「唯心論的な世界観」と思われがちですが、情報論的・機械的な意識・身体の捉え方ともいえるような、「感性的でありつつ科学的」な身体理論と認識理論が存在します。
東洋的な身体観・意識の捉え方は、肉体と認識のシステム構造を感性で理解したものであり、そしてその内奥には「機械論的なもの・唯物論的な理解」を超えた形而上的な概念である「生命の元・原理」というものがあるのです。
受動意識仮説の前野 隆司博士の理論では、唯物論的な「生命」の理解になりますが、東洋の身体観・意識の捉え方は、唯心論でも唯物論でもなく、「唯識論」なんですね。これは西洋二元論的思考では理解が難しいものです。
前野 隆司博士の理論はタオや仏教の本質の一面は表わしていても、肝心なところが抜け落ちているため、やはり異なるんですね。生命に対するさらに深い東洋的な感性と理解が欠如しているのです。
東洋的な身体観・意識の捉え方には、「生命力の源泉・原初の意識」となるものがあるからこそ、そこで初めて「システマチックな物質的な構造」が発生・起動するのです。そこに「ただのロボットと生命の永遠の違い」があるのです。
「生命力の源泉・原初の意識」となるものや、「記憶・情報」に関しては、また次回のテーマとして書きますね。
受動意識仮説は(部分的にですが)仏教の空の概念に近いものはあるのですが、それはあくまでも「意識」と「自我」が相対的なものであり、「認識」としての「私・自意識」が「錯覚から生まれた相対性的なもの」であるということです。
「私」という主観は「本質的に自律的にそれ自体で存在する主体ではない」ということであって、「人間存在」の全体性である「今ここにある」もの「それ自体」が「非実在」であることを意味するのではありません。
クオリア仮説
外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕え、それが神経細胞の活動電位として脳に伝達され、何らかの質感が経験される。例えば波長の長さが700ナノメートルの光(視覚刺激)を目を通じて脳が受け取ったとき、あなたは「赤さ」を感じる。このあなたが感じる「赤さ」がクオリアの一種である。
という一般的な説明ですが、クオリアは「主体的な、あるいは能動的な何か」なのでしょうか?それとも受動的な発生物なのでしょうか?
例えば虹が見えるのは、日光が空気中の水滴に当たり、色の波長ごとに異なる方向へ屈折する作用から生じるわけですが、この虹という現象のありのまま全体性は、見る側の認識プロセスの差で異なる現象に映る。
例えば日本とフランスでは7色(紫・藍・青・緑・黄・橙・赤)に見え、アメリカ人だと藍色抜きの6色に見え、そしてドイツ人の場合だと、藍・橙が見えずに5色に見える人が多いという事実が存在するのです。何故、「虹という一つの現象・現実」は、異なる認識になるのか?
これは色を表す言葉が言語圏・文化圏でどのように共有されているか?で異なってくるからなんですね。つまり「網膜や目の器官」「虹」が異なるのではなく、「内的な認識プロセスである主観」が異なるんですね。
なので受動意識仮説のところでも書きましたが、「私」という主観は「本質的に自律的にそれ自体で存在する主体ではない」という意味は、あくまでもその「相対性」を示しているのであって、
ありのままのリアルの全体性である「今そこにある存在・対象・現象」それ自体が「非実在」であることを短絡的に意味するのではありません。
クオリアを受動意識仮説と脳科学の両方の概念で説明すると、「記憶と刺激で自動的に機能する潜在意識.・無意識の動き」を、後付けで確認し意味付けし、それをエピソード記憶する過程に生じるニューロンの発火によって「意識に移し出されたもの」と言えるでしょう。
よってクオリアも「無意識に条件づけられた受動的なもの」であり、その本質は相対的な脳内現象だと言えるでしょう。クオリア(映し出されたもの)は、「個・私」という自他の分離的な「主観的な現実感」を生じさせる原因のひとつとも言えるでしょう。
ミラーニューロン仮説
ミラーニューロンもほぼ間違いなく存在するでしょう。部分的には証明されてもいるからです。ですが人間に対して具体的な実験をすることは倫理的に考えても不可能なので、サルのように具体的に物理的に特定できているわけではありません。
※ 機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)による脳イメージング研究によって、ヒトの下前頭回と上頭頂葉が、被験者が実際に行動する時と他者の行動を観察する時の両方で活動を示すことが分かり、この領域にミラーニューロンが存在し、ヒトにおけるミラーニューロンシステムを構成していると考えられている。
巷でよくいわれているミラーニューロン仮説は、「模倣」の機能であり、「共感」に関連する機能である、といわれていますが、しかしあくまでもこれは仮説であり、神経神話の類として「ミラーニューロンの拡大解釈」に対する批判もあります。
科学的にミラーニューロン自体は存在するとしても、巷でいわれているほどのことをミラーニューロンが担当しているとは到底いえない、ということですね。
※ 補足で追加更新 以下にミラーニューロン仮説に対する批判的考察の外部サイト記事を紹介しています。とてもわかりやすくまとめてあるので、ミラーニューロン仮説の立体的な理解の参考になると思います。
「読書メモ(再掲):The Myth of Mirror Neurons(by Gregory Hickok)」 より引用抜粋
ミラーニューロンは本当は何をしているのか.主流のミラーニューロン理論によると,ミラーニューロンは模倣(イミテーション)を可能にし,模倣は相手の心を理解する(=「心の理論」)ことの第一歩だとされる.
しかし,著者の意見では,それは論理的誤りである.イミテーションは意外と難しい.ミラーニューロンをもつマカクザルは実は模倣しない.つまり,ミラーニューロンだけではイミテーションできない.
Cecilia Heyesという心理学者の説では,ミラーニューロンの持つ性質は,純粋な連合学習によってつくられる.つまり,自分の行動とその視覚との結びつけで形成されるというのだ.
著者の解釈も「古典的な条件づけ」というもの.また,パルマの実験では,ミラーニューロンの中には実はミラーしていないニューロンもあった.
むしろ「観察した行動」に応じた「自分の行動」をするようなニューロンの活動も見られた.
初期の段階で,それらの「鏡になってない」ミラーニューロンにはじめから注目していたら,違う理論が構築されてきたんじゃないか,と著者は指摘する.
9章
自閉症とミラーニューロンを結びつけた「壊れた鏡」理論は,今では否定的な研究者も多い.著者の考えでは,自閉症は何かの欠如ではなく,何かの過剰によって引き起こされると考えたほうが良い.10章
ミラーニューロンの活動が「行動の理解」に他ならないとする理論は,説明力をもたない.パルマ大学のメンバーを始め,多くの研究者がミラーニューロンのalternativeな理論を作っている.つまり,ミラーニューロンから「理解」の機能を除外した見方が増えてきている.一例として,ミラーニューロンの役割はpredictionに関わるのではないか,などと考えられている.
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
過去記事で、無意識下ではヒトは自他の区別がなく他者と繋がっている、そういう意味のことを書きましたが、それはミラーニューロンによるものではないにせよ、感性として知覚され、
心理学的な分析からもそういえる部分はあるわけですが、無意識はさらにもっと深く広く繋がっている、と観察されるのですが、それはまたいつか書くことにします。
それでは記事の最後に、ミラーニューロンの関連記事を以下に二つ続けて紹介しておきますね。
「ミラーニューロンの発見」 より引用抜粋
ミラーニューロンというのは、サルの脳F5領域に電極を挿した実験で発見された細胞であって、自己がある運動をしている時でも他者が同じ運動をしているの見ているときでも同様に活性する。動きの他にも対象物自体や操作音においても同種の応答をする細胞が見つかっている。
要するに、自他の区別無く反応することで他者を脳内で模倣しているのである。
(中略)
要するに、我々は自分で考えて行動しているのではなく、ミラーニューロンや報酬系が勝手に無意識に反応し、脳内シュミレーションを行うのである。その後、これらに対する抑制システムが動き出し、自他を区別したり衝動を抑えようとしているのである。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ http://www.hi-net.zaq.ne.jp/bupef907/books273.htm
「最新の脳科学は、子ども観をどう変えたのか 小林 登 × 澤口俊之 」 より引用抜粋
(中略)
例えばサルの場合、手を握ったり開いたりすることに関係する脳の領域は、画像や動画でその動きを見せても活動するんです。ヒトの場合は、道具を命名させると、そこで同じような活動が起こる。
つまり、言語には運動系が関係しているようなんです。そして、ミラーニューロンという物真似ニューロンがあるところもそこに近いし、言葉は物真似から覚えていくので、どうも物真似と言葉に関係するシステムが同じ領域に存在しているようなのです。
そしてその領域というのは、人間で言えば45野、つまり言語に関連するブローカー野にあたる部分なんです。
(中略)
ただ、現在私たちが困っているのが、思っていた以上に脳には個体差があるということです。我々としては一応普遍性を獲得したいのですが、個体差があるので、むしろ固体差の原理をわかりたいということがあります。個体差があるのはおそらく、バリエーションをつくっておいた方が進化的な意味でいいということでなんでしょうね。だから、もともと遺伝子にもこれほどのバリエーションがあるのだと思うのです。
脳も一種の臓器といいますか、遺伝子でつくられていくものですから、バリエーションがあるのは予想できることなのですが、
わからないのは、どういう仕組みでこういうバリエーションが生まれるのかということなのです。現在これについては神経伝達物質のシステムから考えています。
伝達物質のシステムのバリエーションがかなり遺伝子レベルでわかってきていまして、例えばセロトニン系の遺伝子の反復配列の数にはバリエーションがあり、それによって心の安定性が違うということがわかってきました。
(中略)
そのように反復配列を調べれば、この人は実はうつ病になりやすいとか、あるいは精神的に安定しているかどうかがわかるわけです。 また、ドーパミンのD4レセプターに関してもバリエーションがあって、D4レセプターの反復配列が多いと、新しいものが好きだということがわかってきていて、それを「センセーション・シーキング(sensation seeking)」とか「ノベルティー・シーキング(novelty seeking)」と呼んでいるのです。そういう遺伝子レベルでのバリエーションが、性格のバリエーションにつながっていくわけです。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ http://www.crn.or.jp/LIBRARY/EVENT/EVENT04/TAIDAN03.HTM
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