前回に引き続き「ルサンチマンの多元性」をテーマに、今回は集団心理心理心理学、防衛機制、社会学の概念を用いて、カルトや宗教、そして集団の暴走現象などを考察しています。
「ロヒンギャ虐殺」での人間の無慈悲さ・凄まじい残酷さは、もし間近で日常の中でそれに遭遇すれば、その悍ましさはこの世のものとは思えないほどの地獄の光景でしょう。
背景や動機や自我運動の構造はそれぞれに違っていても、行動に現れる凶暴性や残酷さ、という姿には何の変りもありません。これは今も昔も人間の無意識の中にある暴力性が本質的には変っていない、という生物学的な事実を表してもいます。
暴力的な遺伝子「MAO-A遺伝子の影響」も多少はからんでいるのかもしれませんが、それだけでは説明がつきません。政治的な背景、社会、文化、内外の複合的な力学を見ていかなければ輪郭は見えてこないものでしょう。
そして人間という生き物の全体性が暴力だ、ということではなく、無意識の領域にはそういう要素が含まれている、という意味ですね。
ルワンダは唯物論者は非常に少なく、神を信じている人が多いにも拘わらずこの世の地獄を生み出しています。ロヒンギャ虐殺も仏教徒が積極的に関わってこの世の地獄を生み出しています。
地獄も平和も、それは信仰の在る無しに関わらず、「心の状態」「政治・社会の構造」が生み出すものなんですね。
ホロコーストやルワンダ虐殺、ロヒンギャ虐殺レベルの「外集団・内集団バイアス」は、対象を根絶やしにする原始的衝動と結びついた次元のものであるため、過激で悲惨な結果になりましたが、これを※ 集団心理学による自我分析で見てみましょう。まずPDFの紹介です。
※ 集団心理学とは:ここの人間をある部族、民族カースト、身分、期間の一員として、もしくは、ある時点で特定の目的のために集団へと組織化された人間の構成成分として取り扱う心理学。参考: 集団心理学と自我分析(1921)要約
「集団心理学と自我分析(1921)要約」 より引用抜粋
(前略)
各人が個人として獲得してきたものは集団の中ではその輪郭がぼやけ、それに伴い個人の独特さも消え失せる。
⇨精神分析的には…個人個人のもとで極めて多様に発達してきた心的上部構造は無力化し、誰にあっても同質の無意識の土台が露出させられると言うことであろう。
・無意識の欲動への抑圧を払いのけることを許すような条件下におかれ、また伝染といつもに増して暗示されやすい状態ゆえに新たな性質をも示すようにもなる。
⇨伝染を個々のメンバーが相互に及ぼしあう影響に関係付けて説明することで精神分析的な最良の解釈を加えることになるであろう。
・集団化した個人が集まると、個人としての抑制が全て消え去り、原始的な残虐では快適な本能が呼び覚まされる。
⇨精神分析が以前から証明している通り、子供や神経症患者の場合、真っ向から対立する観念が併存し両立しうるのであって、その際、論理的な矛盾から何らの葛藤も生じない。
□集団は錯覚を求め、それを断念することができない・・・
・集団は、非現実的なものと現実的なものの違いを認めない性向を顕著に示す。
⇨神経症患者には、客観的事実ではなく心的な現実の方が重みを持つことを見出している。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 集団心理学と自我分析(1921)要約
上の内容は非常にわかりやすいですね、そして防衛機制からの考察を加えるならば、神経症レベルの防衛機制は低次の防衛機制がメインに使われ、
そして集団が極端な同化と排斥の行動に向かう背景には、個々が集団の中に「 没個性化」していく流れがあります。「没個性化」というのは本当に個性が消えてなくなるわけではなく、個のアイデンティティが飲み込まれている状態です。
よって個のアイデンティティ単位では抑えられていた原始的衝動が、一気に噴出して暴走しやすくなるわけですね。
とはいっても祭りとかエンタメとかの集団的な没個性状態はハレに繋がる癒しでもあるので、その集団の性質がどのようなものであるかで「没個性化」の質も結果も変ります。
「正義の反対はまた別の正義」のような、互いが「我々が一番正しい」という観念やイデオロギーに囚われていたり、絶対者に従うカルト宗教のような集団の場合は、攻撃性・原始的衝動が暴走しやすいんですね。
「没個性化」という概念はフランスの物理学者、社会心理学者ル・ボン氏による「群衆心理」でもおなじみですが、「没個性化」によってより無意識的な存在へと退行し、人は抑圧化されていた攻撃欲動を解放するわけですね。
「群衆心理」での「感染」は、没個性の状態による「無意識的な同期」が生じているからで、
集団に埋没するので「個々の責任意識」が分散され、その結果、個々が無責任となり、高揚感に突き動かされて平気で乱暴な言動を行う、という傾向に向かいやすいのです。
また「敵側とされたもの」によって自尊感情が脅威に曝されたとき、「自己高揚動機」が高まるため、過剰な自分アゲ↑と相手サゲ↓、が行われます。
これが「燃料源」になって終わりなき泥仕合になって、アゲ↑サゲ↓無限ループにハマっていく光景を数多く観察してきましたが、
その手の泥仕合にハマってるタイプは、本人は「正義の世直しでもしているつもりであっても、知識や善悪云々を問う前に、「互いの精神構造が似た者同士」である以上、
そこに互いを高める議論は生じず、弁証法的に発展することはなく、どんどん敵意・分裂を強め、精神の質を低下させ、単に互いが「より手段が巧妙かより凶暴」になっていくだけです。
そして双方が「ああいえばこういう」的な感じになっていき、四六時中「防衛か攻撃か」みたいなことばかりしてる状態になっていくのです。
特定の属性の集団への帰属意識が高まることで、内集団・外集団バイアスは強化され、同化一体化がさらに没個性化へと向かわせることで、無意識への退行が生じるわけですね。
この構造性はナショナリズムへの過剰な囚われとかだけでなく、リベラルだろうが保守だろうが属性に関係なく、
一般人にとってひとつの属性に過ぎない程度のものを全体化して、敵味方に分けて存在否定し合う運動は大体同じ構造性を持ちます。
なので右も左も過剰な人は、その自己主張の内容が違うだけで、「精神構造」自体を見れば「似た状態」、ということです。
注意深く見れば、多かれ少なかれ人はバイアスや低次の防衛機制を使っていますし、当然「外集団・内集団バイアス」も質や次元には差異こそあれ誰でもあるものですが、
その質や次元が悪化するほど極端なものになりやすく、何かのキッカケで結構簡単に破壊的な方向性に暴走する、そんな一面が元々あるのがホモサピエンスの特質です。
宗教が主観に与える作用
先にカルト、次に伝統宗教の主観に与える作用のひとつを考察しています。
罪とは、存在する代わりに創作し、ただ空虚の中でのみ善と真とを問題にし、実在的にはそれであろうと努力しないことである。(キルケゴール)
宗教というのは、原始的な無意識と同化しないような保護作用と独自の境界性を持つもので、その守られた境界の内側で、それぞれの物語の観念・イメージを使って昇華させる作用を持っていますが、
新興カルト場合は、「健全さを保つ境界性」を破壊します。その理由はシンプルで、カルト教祖自身が「壊れた人」だからです。
「情報的に開いている先進国」であっても、例えばSNSで問題になった「エコー・チェンバー現象」+「フィルターバブル」のような現象が、「一部の人々」に意識のカルト化を生じさせることはありますが、これに関しては過去記事がありますので以下に紹介しておきますね。⇒ SNSの心身への作用
カルト宗教の場合はリアルの中で「閉じた世界」を作り出し、その中で絶対者を中心とした内集団に個を収束させます。
そしてバウンダリーが弱まり、「個のアイデンティティ」は集団への没個性化によって飲まれ、カルト教祖の肥大した自我を疑似的なアイデンティティとして共有します。
ただしこの「アイデンティティ」の質はナルシシズムの質であるため、外部からの承認を常に得ていなければしぼんでしまう空虚な風船状態で、
空虚な実体しかないわけですが、その空虚さを「躁的防衛」で否認するわけですね。この「躁的防衛」には「支配感、征服感、軽蔑」という三つの感情が含まれます。
カルト教祖や盲信者に見られるあの異常なマウント意識や蔑視というのは、原始的防衛機制のひとつである「躁的防衛」による「支配感、征服感、軽蔑」という三つの感情にあり、
つまりそれだけ内実共に空虚で、虚像の肥大でしかないことの裏返しの過剰防衛なんです。
妙にハイテンション、とか、ひたすらしゃべり続ける、などのの過剰な「自己高揚動機」の傾向性、これは教祖に限らず信者の一部にもよくみられます。
必死で防衛し続け攻撃し続けている、そうしないといられないほどに空しい精神であり、虚像にまみれた心、ということなんですね。
またよく目立つ個人だけが躁的防衛をしているだけではありません。カルト組織は「教祖が信者を支えているのではなく、信者が教祖の自己愛を満たしてあげて肥大化させている」のであって、
同時に、「肥大化した教祖の自我に同化し集団が共有することで、信者は個の「卑小さ」を忘却する」というグルグル共依存のループ構造になっており、
「躁的防衛」を「集団への同化」による没個性と肥大化によって行っている、とも言えます。つまり集団全体がひとつの躁的防衛の質を持っているわけです。
大きな仕事でもしている気になって、自身の無力さ・卑小さへのありのままの気づきを避け、等身大のその人の現実から人生そのものと取り組むことを棚上げしてしてしまうわけです。
そうやって「虚無」を丸ごと回避しているわけですが、実際はこのやり方は「退行」しているだけであり、個々はさらに無力化⇒未熟化し、等身大のその人の現実・人生そのものと取り組む力をどんどん失っていきます。
それによってさらにしがみつき依存を深め、集団への没個性化と肥大化によって、躁的防衛を強めることで抵抗する以外なくなり、どんどんおかしくなっていくわけですね。
虚勢を張ることが私のエネルギーの実に多くを食いつぶしてしまう。(ハンナ・アーレント)
カルト信者の傲慢さ・無責任さのレベルは相対的であり、それは「教祖の自我肥大レベル」と「信者の没個性化の度合いによる同化のレベル」と、「躁的防衛」の強さと組み合わせで決まります。
このようにして、一つのアイデンティティ(自己愛性の質)を全体が共有し、その没個性化した集団がひとまとまりの細胞として境界性(バウンダリー)を形成し、外(ソト)への集団的な排斥と内(ウチ)への集団的な同化を強めることでまとまっているわけです。
それは近代社会における「個々が自立したアイデンティティを持つ者たちが、相互補完的に機能し連携する有機的組織体」とは大きく異なり、
「原始社会に似た単細胞型構造への退行」+「壊れた人」による独裁、という最悪の組み合わせであり、
カルト系の新興宗教の盲信者たちは、自我拡散状態から無意識に集団同化したことによって、誰もが「似たような目つきや表情」そして「言動パターン」になっていきますが、
これは外から見ていればよくわかりますが、本人たちは自身のアイデンティティの没個性化に無自覚なので気づきません。
このような人々が疑念を持ち離れ回復していく初期段階では、「共有しているアイデンティティ」の中核をなしている「教祖と法」はなかなかすぐには手放せません、
いきなり中心から外すのは難しいことなんですね。
ですが問題の本質は「教祖と法」にあるということに気づけた時、ようやく共有しているアイデンティティから解放され、個のアイデンティティを徐々に取り戻す段階へと移行します。
脱魔術化された近代的自我の場合、通常は既に多くの原始的・破壊的な無意識的要素・領域は意識化され統合されているので、※「脱魔術化」に関する参考PDF:脱呪術化と合理化
原始的な単一の要素が極端に肥大化するような同化現象は、平時の日常下では滅多に起きないわけですが、条件が揃うときは通常では考えられないほどの同化現象が生じます。
まるで「ヒトではない何か別の生き物であるかのように感じる」、あるいは「悪霊でも取り憑いているんじゃないか」、と思うほどのギャップ感がある時というのは、
原始的な無意識の単一の要素がそのまま全体化して現れてきている時なんですね、ある意味「乗っ取られている状態」です。
「あくまでも比喩として」という限定的な意味ですが、「悪霊・悪魔に取り憑かれている者」というあの手の表現は、「人間の本質の負の一面の極端な表れ」の比喩であるなら、そんなに間違ってもいない表現です。
昔であれば、こういう人たちは鬼とか魔物とか物の怪と呼ばれて忌み嫌われていたことでしょう。昔はそういう物語的表現を通して、人間の無意識の負の面を見つめ、大人は子供たちにそれを言い伝え、
「人間らしさ」を保つように善悪を相対化し対比させながら諭し、統合していったわけですね。現代社会ではそこまで酷く人格・人間性が壊れている対象が少ないから、希少な特殊な現象に思えるだけで、
太古のヒトにおいては、このような原始的レベルで鬼化する現象はよく起きていた、と考えられます。
しかし特殊な事件の犯人だけでなく、一見すると普通で健全な者でも、心・精神のバランス状態が大きく壊れて極端になると、一気にケダモノのようになってしまうことは結構あるわけです。
共通感覚を奪われた人間とは、所詮、推理することの出来る、結果を計算することの出来る動物以上のものではない。(ハンナ・アーレント)
そして自我が壊れたとき、あるいは壊れるまでいかなくても、病的退行が非常に深い無意識領域にまで及んでいる状態では道徳は役には立ちません。
一般道徳というのは社会性と関連するので、基本的な自我形成とアイデンティティの土台が先にあることが条件で、無意識領域でよく機能するのは「宗教的なもの」の方です。宗教的シンボルや元型の方が深い部分に作用するんですね。
だから退行や実存的な問いが生じている時に人は、「宗教的なるもの」に救いを求めることがあるわけです。理屈じゃなくて本能的に求めるんですね、一般道徳では実存的不安の支えにはならず、自我の危機は存在の深いレベルから生じるからです。
なので日常で機能する社会道徳と、日常の土台が壊れたところでよく機能する宗教の本質は、最初から役割が違うんですね。
宗教というものの本質は初めから「見えないもの・非社会的領域」が主体であり、見える世界での道理やらが中心になってはもうそれは宗教ではなく、一般道徳・常識、社会の領域の話でしかないわけです。
祈りは神を変えず、祈る者を変える。(キルケゴール)
キルケゴールの「実存の三段階」で、①「美的実存の段階」⇒ ②「倫理的実存の段階」 ⇒ ③「宗教的実存の段階」というものがあり、①~③は弁証法的に発展するものとされ、
①が快楽や刺激を求め続ける刹那的人間であるなら、②は主体的な人間、そして①と②の本質はキルケゴールにとっては「自己の喪失」の状態であり、
「自己の喪失」の結果、「死に至る病」⇒ 絶望に陥る、そこから「真の自己」に目覚めるには③「宗教的実存の段階」に進まなくてはならない、と考えるわけですが、
いうなれば、② 主体的に生きても永遠の不完全者であり続けるために、絶対的な自己にはなれない、ゆえに③「絶対的な他者」によって規定される自己にシフトする、ということですね。
まぁこれが弁証法的な発展のゴールにあるとするキルケゴールの結論、神に対する捉え方を私は否定しますし、こういう考えを全的に受け入れる人は少ないでしょう。
ですが、「見えないもの」は一見どうでもいいものとして扱われますが、見えるものだけが存在を支えているわけではありません。虚無に飲まれつつあるとき、宗教は道徳よりもよく機能する、
それは自己を見失い軸を見失っている人、無意識に飲まれた人の「仮」の支え、仮の「中心」としてはとても強い支えとなり、完全な崩壊や虚無に飲まれることを防ぐ作用があります。
ですがその本質は「自我の虚無」の状態であり、絶対軸によって「存在の虚無」に飲まれることを防いでいるだけなんですね。
そしてこういう保護作用が蔑ろにされている近代では、虚無に落ち込んだ時の支えがないために、存在は危機に対して脆弱な状態に置かれている、といえます。
なので一気に崖下に落ちていく危険は現代の方が高い、ともいえるんです。
また、自己肯定感が損なわれ、否定的アイデンティティを強力に形成している場合は、一方的な道徳の押しつけは逆に否定的アイデンティティを強める負の作用になることがあり、
段階としてはまず、「実存的安心」と「基本的信頼」をベースに、自然自我の次元まで遡って発達過程を学びなおすことが必要です。
自然自我の土台がないと社会的自我は上手く機能できないんですね、異常性がどの次元なのかによっても異なるんです。そういう人に必要なものは、土台から時間をかけて再構築することなんですね。
ルサンチマンの多元性
ここからルサンチマンを防衛機制と社会学から考察しています。
ニーチェが語るルサンチマンという概念は、「低次の防衛機制が強く働いている状態での他者や外部の否定性」として考えると、現代でもよく生かすことが出来る、といえます。 参考 ⇒ ニーチェ・哲学早わかり
ルサンチマンというものが不毛な結果をもたらすのは、その本質が低次の防衛機制の「脱価値」「合理化」「知性化」などをメインに使った「弱者の復習、怨恨」でしかないわけで、
そしてこれをひとくくりに「弱者の精神構造」に全的に帰するようなニーチェ解釈の仕方は、別の問題を生じさせます。
ニーチェの言う弱者や奴隷道徳が何を意味するかは、ニーチェが生きたその当時の社会構造や文化を理解しておく必要があります。 参考 ⇒ ニーチェ『道徳の系譜』を解読する
そして精神分析とニーチェの哲学には多くの類似点があります。
フロイトはニーチェの著作の影響を受けていた可能性はかなり高く(ニーチェの著作を読んでいたことは確かです。)両者は同時代(ニーチェの方が一回り年上)に生きていたのですね。
確かにルサンチマンは人間の一面を表すものではあっても、否定や肯定、能動や受動の力学だけで説明できるほど人間は単純でもないわけです。ただ低次の防衛機制次元での人間の自我運動の一面として見るならば、非常に鋭く捉えているともいえるでしょう。
「正義感」に含まれた「復讐心」、というよりも「復讐心」を隠すための「正義」、攻撃が主であるのに「表向きは愛の形」をとる、その「すり替え」を否定したわけですね。
つまり社会的弱者に限らず、社会的強者であってもルサンチマンは生じるので、社会的な立ち位置に固定化された心理現象ではないんですね、低次の防衛機制もそうです。
「相手への恨みや優越が動機ではない善そのもの」、「復讐心が裏に隠されたものではない正義そのもの」をニーチェは肯定しています。なので社会的立ち位置の高低に関係ありません。
では次は社会学の概念からルサンチマンを見てみましょう。
人は社会的自我を持ち、社会や外部との相互作用の中で人格を形作られる生き物である以上、元々「弱者」という固定化され完結した個人が最初から存在するのではなく、
それは社会的な力学によって、「そうならざるをえない」作用で形成された相対的な「状態」に過ぎないわけです。社会から妥当と認められている目標達成の手段を「制度的手段」と呼び、これは過去にも書いた社会学的な概念のひとつですが、
文化的目標を達成するために「制度的手段」でそれに近づこうとするか、受け入れるか、反発するか、逃げるか、
その適応様式をマートンは「同調」「革新」「儀礼主義」「逃避主義」「反抗」の五つに分け、この中の主に「同調」「儀礼主義」「逃避主義」の態度がニーチェのいう「末人」にあたりますね、
権威をそのまま受け入れる「同調」、戦わず依存し集団に埋没する没個性的な存在である「儀礼主義」、さらに退行する「逃避主義」は、末人の中での2・6・2の法則性、ともいえます。
そして超人は「反抗」に似ていますが同じではないです。また「反抗」と「革新」は似ていますが、「革新」は手段を選ばずに文化的目標を達成しようとするので、逸脱しつつも目標は末人と一緒なんですね。
ですが、「反抗」はそもそも目標が末人とは異なり、ゆえに手段も「制度的手段」を受容しないわけです。なので社会の規範や規則を変えようとして逸脱に向かう方向性ですね。
最も急進的な革命家も、ひとたび革命が起こるや、たちまち保守主義者に化けてしまう(ハンナ・アーレント)
結局、これが理想と現実が乖離したままの「疑似超人」の現実的な限界であり、「疑似超人」が社会の権威の座を取って代わっても同じことをするだけなんですね。
まぁミクロな場でもよくみかけますね、正当なやり方では勝てないから、裏で工作して座を奪おうと画策する姿、
そしてそういう人たちが上に立っても、力も創造性もないから、結局は下を抑圧して自身の優越的な立場を固定化しようとするため、以前と同じことが起きるだけなんです。
「何も変わらない構造」が、あたかも何かが変わったような錯覚だけを与えながら循環するマクロな虚無の構造性は、終わりなき創造性に突き動かされ続ける超人でない限り終わらせることは出来ないわけですが、
「疑似超人」に過ぎない自我肥大者が、「超人思想」を自己の補強に使うことで「自己のルサンチマンを隠蔽し、他者のルサンチマンは抑圧する」ことの浅ましさに比べれば、
「嫌いな人の真実よりも、好きな人の嘘がいい」と語ったハンナの方がずっと正直で正気を保って生きている、と私は思いますね。
ハンナは現代日本社会に生きていれば、文春砲のルサンチマン祭りの生贄になり兼ねない「ハイデッガーとの不倫に走った末人」ではあったが、
彼女は安易なルサンチマンの正義にも疑似超人にも向かわなかった点で、集団に飲まれず個のアイデンティティを失わなかった人、ともいえるでしょう。
そして「同調」以外の適応様式が増えることで社会は不安定化へ向かい、アノミー(無規制状態)が出現する、
そしてそのアノミーの中で、「道徳」とか「愛」とか「善」などをやたら声高に叫ぶ者たちは、一見すると「正しい自己主張」をしているように見えるが、
その建前の裏にはルサンチマンが隠れており、そのような質の弱者たちが連携するとき、それは強力なルサンチマン運動体になる、ということなんですね。
もちろん「道徳」も「愛」も「善」もない暴力的で犯罪だらけの社会が良いはずがない、ということくらい誰でもわかっていることでしょうが、
力のあるもの同志の「下克上合戦」ではなく、力のない者が復習を果たす=「ただ相手を引き下げるだけ」のやり方は「誰でも出来る」ことが厄介で、
これを社会の多くがやっている状態は、不毛な足の引っ張り合いのループ現象となり、
上に立つ力もない者たちが責任も引き受けずに、ただ引きずり下ろすことで、パワーを持つ者の働きが低下し、エネルギーが低いレベルで均一化されていきます。
一時的に嫉妬や不平等感は減るかもしれませんが、エントロピーが増大した社会の中で無力な個人たちには虚無を跳ね返す創造性もないめに、どんどん退廃した状態になっていきます。
なので結局は、それを統制するために以前よりも強い権力的支配と抑圧を生み出します。そして再びルサンチマンの無限ループが続いていくわけです。
暴力は権力が危うくなると現れてくる(ハンナ・アーレント)
「変えようとする者たち」こそが「変わらない状態」をむしろ維持し、それどころかより質的悪化すらもたらしてしまう、という皮肉なパラドックス状態になっている、ということですね。
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