「私」と「存在」の違い   「人格の統合」と「内的な自然破壊」    

 

今日は三回に分けて書いてきた「解離と憑依」というテーマの私なりの検証の現段階での結論を書きます。そして前回の記事の終わりに書いたように、

心のバランス異常が大量生産される現代社会に不足しているも一体何か? 現代に有効な対処法があるとすればそれは何か?に関しては、解離と憑依を超えた大きなテーマなので、また異なるテーマで次回以降に書いていこうと思います。

これまで「解離と憑依」というテーマを突っ込んで書いた理由は、意識と無意識の関係性がわかりやすい事例のひとつだからです。そして自我の健全な確立や統合が出来ないことの病理と危険性と、人格の統合の必要性がよくわかる事例だからです。

「解離と憑依」というと凄い異常なものに感じますが、心理学的に見ると小さな「解離と憑依」は日常的に起きていることであって、全然珍しくないといえるでしょう。

もちろん、解離性同一性障害霊媒体質という特殊なレベルになるとそれは滅多に起きないものですが、私たちは元々何百万年も原始的な意識で生きてきた人類の祖先のDNAを引き継ぎ、そしてたかだか数千年前くらいから急速に個別化された自我意識を発達させてきたに過ぎません。

私たちの脳の構造・肉体の構造を見れば明らかなように、それは動物の諸要素を全て引き継ぎ、そして徐々に新しい機能を追加し進化させた編集版・更新版の総合生命体に過ぎません。

どれだけ現代人の顕在意識が動物の意識と似ても似つかない内容であろうとも、無意識下ではあらゆる複合的な生命機能が働き、総合的な生命活動を営んでいる地上の動物には変わりないのです。

どれだけそれらを意識的に分離し抑圧しても、その機能は必要なものであるために完全になくすことなど出来ないのです。いえむしろ、顕在意識というのは無意識の総合的働きのほんの僅かな部分の自覚に過ぎないのです。

何百万年の人類の生で形成され遺伝された無意識の方が遥かに大きく、本当の生命力の源泉はむしろそちらにあるのですから。

顕在意識は私たちが覚醒時に 「私」として一般的に認識する自我のメインの拠り所です。そして無意識というのは「存在」そのものです。

人間存在が太古の集合的一体化状態の無意識的な生存状態から抜け出し、「私」として認識される自我・精神を強化し発展させてきたたことは、数千年前からの人類の急速な発展に繋がりました。

そこから抜け出すのに必要だったものが「個別化(人格化)した顕在意識」です。これは機能として人間に特有で顕著に発達した部分でしょう。

そして「個別化(人格化)した顕在意識」が個と集団のバランス・秩序を形成するために必要になってきたのが無意識の諸要素の統合です。

このブログで統合という言葉を使う場合は、強制力や支配力をもったものと言う意味合いは含んではいません。

そこがユングとの相違点かもしれません。ユングはキリスト教的な、西洋的な理性と無意識の関係性の力学に条件づけられていると私は感じます。

ユングの著作では、あたかも無意識を意識の働きかけで克服するかのような記述があり、その統合に成功した実例としてナポレオン・老子などを挙げていますが、

老子に関しては「統合された状態」が自然に理解できるのですが、ナポレオンのような無意識との対峙の仕方は、西洋二元論の極みだと感じるので、東洋的な感覚を深く理解しているユングですら、西洋人的感性がまだ強いんだなぁと感じます。

私はユングの深い分析には驚嘆に値するものがあると感じますし、共感できる部分も多々ありますが、何もかも全面的に共感しているわけではありません。

根底の感性的な部分で「西洋的な人格統合」と「東洋的な人格統合」の本質的な価値や意味の違いを感じるからなんですね。

ユングはかなり複合的な理解の持ち主で多角的だとは思うのですが、いかにも西洋らしい区分けがハッキリと感じられるのです。

 本質的に顕在意識には無意識は克服できないだけでなく、そもそも克服するような対象でもないというのが私の感覚です。

西洋人にとって外的な自然が克服すべき対象であったように、それは内的な自然に対してもそうなのです。

西洋人とっての人格統合というのは、「自然界と人間意識の対立的な関係性の中で立場を逆転させ、力を対象から奪う事で我が主人となる」ことです。

東洋人にとっての統合というのは、「自然界との調和的な関係性の中にあって我が主人とならず、力は対象から奪うものではなく、共存し循環させるものです。」

それは東洋古来の外的な自然観にもよく現れています。

無意識というのは自然界とリンクしている生命存在の総合機能でもあるため、いかにその内的な自然を破壊せず歪めずに豊かに存在させたまま、それを健全に調和的に機能させておくかを学ぶのが、私の感覚での「統合」です。

それではここで、参考として脳科学的な現代心理学の見解から、一つの記事と一つの動画を紹介します。

 

「CRN  子どもは未来である」より引用抜粋

「感情と無意識の葛藤の脳科学;知情意と脳の3重構造」

(前略)
人の心を知・情・意の3機能に分類して、人間には知性だけでなく、情緒と、意志がある。人間は知性をいかに働かせたところで自分自身の心を知ることはできない。

この世の中には、知性で解析しきれないもの、知的な認識の対象でないもの、無条件、絶対的にその存在を肯定せざるを得ないのがある。 

それが心(霊魂)であり、世界(宇宙)であり、神(根源的存在)である。このように知的理性の限界を認識し、知情意を併せ持つ 全人こそが、人間の本来の姿である。

すなわち知情意のすべてを統御し調和させるのが人間の理性であり、理性に統御された全人こそが人間であると考えたのはドイツの哲学者のカントでした。 

カントにおいては感情は理性に統御されるべき対象であり、意志すべての感情から独立したものでなければならないと考えられました。

フロイトはユダヤ家庭に生まれ育ちましたが、自らを無神論者であると宣言し、カントの「知性が解析しきれないもの」を「神」「霊魂」ではなく「無意識の心」と規定しました。 

この無意識の理論はこれまでの全ての哲学と人間学を覆す偉業であったと私は考えています。しかしフロイトによってカント哲学の全てが否定されたわけではなく、

「理性に統御された全人」こそは「無意識の心」と統合されることで現代の脳科学で再評価できる思想であると思われます。

知情意の3つの心の機能のうち、もっとも自然に理解しやすいの知性あるいは理性だろうと思います。それは私たちがこうして文章を書いたり読んだりするときに自分には知性あるいは理性があると実感できるからです。

それに対して感情や意志は少し掴み所が希薄に感じられます。その理由は感情や意志はこれから解説するように「無意識」を含んだ心の機能だからです。

感情には自分の理性では理解しきれない部分が残るけれど、意志こそは100%自分自身の理性判断に統御されているとカント並みに厳格な人格構造を主張する人もいることでしょうが、 

フロイト以後の精神医学の考えかたも、また現代の脳機能から考えても、意志は多分に無意識の部分の影響下にあることは事実であると思われます。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ http://www.blog.crn.or.jp/about/

 

意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説

慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科における講義「システム生命論」の一部です。この講義では、「意識(クオリア)は幻想か―「私」の謎を解く受動意識仮説」と題して、著書「脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説」で述べた内容を話しています。

知・情・意の働きの内的な自覚を生物学的に可能にしたのが、人間の多重構造の脳・神経の高度な認知システムです。

健康な子供であれば誰しも、多重構造の脳・神経の高度な認知システムが物理的に生体に初期設定化されているとはいえ、それは生後に「壊すこと」「歪めること」も可能です。

そして外的な歪んだ干渉によってそれを「壊してしまった」場合、様々な病理になって表れてきます。その一つが例えば「解離性同一性障害」、ともいえるでしょう。

そして「壊す」とまではいかないにしても、健全な初期設定を歪めてしまったのが、「機能不全家族」による子供のアダルトチルドレン化ですね。

そして長い時間をかけて、健全な精神機能をジワジワ蝕んで不調和状態に歪めてしまった結果が「うつ」の発症ともいえますね。

もちろん「うつ」にせよ他の障害にせよ、後天的な影響だけが全てを決定しているのではなく、遺伝や気質・体質などの先天的な要因も複雑に絡んでいるでしょう。

ただ、本来は全て健全な生命機能を有してスタートした「存在」が壊れる時、それは外的な不調和・不自然な働きかけの連続的干渉によって、「内な自然破壊」をされたことによるバランス異常が現象化したもの、ともいえます。

生き物には自然治癒力として修復機能もありますが、それが追いつかない、あるいは修復不能にまで破壊されてしまう事が起きてしまうわけですね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました