創造性と相互補完関係   

 

日本人の創造性

去年、九州で大震災が起きた後、熊本の各所を訪れ、阿蘇の近くの小さな町の神社に立寄ったときに、偶然、 2015年にノーベル賞を受賞した大村智先生の言葉が書かれてあるのを目にし写真を撮りました。

 

 

流石「自然が答えを持っている」というだけのことはあります。先生の言葉に大変感動しました。言葉がスッと自然に入ってきます。

 

 

ico05-005 何か賞を取ろうと思って仕事をしているわけではなく、世の中の役に立とうと思って必死でやってきました

 

ico05-005 科学者は人のためにやらなければダメなんだ。人のためにやるということが大事

 

そして面白いのが、2016年のノーベル賞受賞者の大隅氏は逆のことを語ったんですね、

 

 

ico05-005 私は「役に立つ」という言葉がとっても社会をだめにしていると思っています。数年後に事業化できることと同義語になっていることに問題がある。

 

これだけを並べると「この二人仲悪いのかな」と思うような感じになっちゃいますが(笑)、大隅氏の言葉には続きがあります。

 

ico05-005 本当に役に立つことは10年後、あるいは100年後かもしれない。社会が将来を見据えて、科学を一つの文化として認めてくれるような社会にならないかなあと強く願っています。

ico05-005 分かったようで何も分かっていないことが、生命現象には特にたくさんある。

 

後、大隈氏は「流行ではなく面白いと思うことをやる」というようなことを話していましたが、大村智先生も負けないくらい研究が好きなのは言うまでもないでしょう。

 

そして二人とも「人がやらないことをやる」と語っていますので、「モチベーションの本質にあるもの」は同じであることがわかります。

 

ではここで「日本人の創造性」に関する記事を紹介です。

 

「日本人は「創造性」「挑戦心」が弱いという国際調査は本当か」 より引用抜粋

「創造性」について、日本人のようにノーベル賞を毎年のように受賞している国民を創造的でないと見なすのも妙だが、

さらに、「創造性」を体現している経済指標とも言うべき「技術貿易収支」についても、日本は世界有数の実績を有していることを思い出すべきだ(図3参照)。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 日本人は「創造性」「挑戦心」が弱いという国際調査は本当か

 

⇧上に紹介の記事において、日本人は「何事についても自負心が弱く己評価が厳しい」ため、本当は創造的で挑戦的だが「創造的であると思っていない」だけ

 

謙虚な日本人は「能ある鷹は爪を隠す」態度なんだというような結論を出していますが実際はどうなのでしょうか? 大村先生も大隈先生もそれとは逆の見方をしています。

 

だから先生方は「このままでいいのか」というような問いかけを発信したわけですが。⇧上に紹介の記事では「技術貿易収支」が創造性の指標ということですが、

 

ではこの内訳はどうなっているのか、参考として次の記事を紹介しますね。

 

「技術貿易収支は7割が親子会社間取引Comments」 より引用抜粋

ところで、技術貿易収支を見るときに重要なのは、「親子間取引」の存在です。日本の親会社から海外の子会社にライセンスする金額です。

統計では平成23年分と平成24年分しか掲載されていませんが、技術輸出の74.1%が親子間取引であることがわかります。

貿易額全体の前年比は14.1%の伸びに対して、親子間取引は18.1%の伸びで、親子間取引の伸びの方が大きくなっています。

試しに親子間取引を除いて計算してみましょう。技術輸出は、27,210-20.168=7,042(億円)です。技術輸入は、4,486-1,042=3,444(億円)です。

その収支はと言うと、7,042-3,444=3,598(億円)になります。赤字ではないとは言え、かなり低い金額のように見えます。親子間取引を除けば、日本の技術貿易はまだまだ低調な状態にあると感じます。

逆に言えば(というかこれが本質だと思うのですが)、海外との親子間取引が活発であるという状況は、産業の空洞化を如実に表しているだけだと思うのです。
(中略)
統計と言うのは切り口によっていかようにも捉えられるものですから、うまく利用して国民の士気を高めていきたいという意図は理解できます。

しかし、統計を収集整理する役割の総務省がこのような偏った視点で物を言うのはあまり褒められたものではないと思うのです。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 技術貿易収支は7割が親子会社間取引

 

上の記事にあるように、実態はほとんどが親子間取引」で、それを「創性」云々と言われても外れで、指摘にあるようにむしろ産業の洞化を如実に表しているだけです。

 

やはり「日本は創造性が弱い」という方がどちらかといえば正確ですね。

 

また「日本文化」が海外から称賛されるとはいっても、それは「過去の遺産」であり、歴史の長い島国で独自の文化的アイデンティティを熟成した、という特殊性と先人たちの積み上げてきた歴史的恩恵に過ぎず、

 

過去の匠の文化・職人文化がそれだけ素晴らしかった、その遺産が伝統として「型」として引き継がれているということで、文化的創造性そのものはそれを生み出した先人たちにあるわけで、

 

「今の日本人が創造的かどうか」、「今の日本が創造的な活力に満ちた社会かどうか」はまたそれとは別の話しです。

 

つまり数字的・統計的にも的外れですが、「ノーベル賞受賞者が毎年でるから日本人は○○」というような「一般的な日本人とノーベル賞受賞者を結びつける」のもやや強引です。

 

一般的な日本人感覚の人がノーベル賞をとるわけではありません、むしろ一般的な日本人感覚からみれば「変わった人たち・感覚が異なる人たち」がとるんです。だから先生方は問いかけるわけじゃないですか。

 

均一化した価値観にハマらなかった変人ばかりです。彼等が一般的な日本人だったなら受賞は無理だったでしょう。もちろん彼等がモラルのない非常識な人、という意味ではありません。

 

現在の日本社会の在り方に疑問も違和感もなくそのまま迎合しているだけのような一般人には、あんな創造的な仕事など出来ない、ということですね。

 

彼等のような日本人の枠に収まり切れなかった希少な変人がいなくなれば、あるいは変人の創造的活動など「無駄・非効率的」として支えずに切り捨てるだけであるのであれば、

 

もう誰もノーベル賞などとれないでしょう。もちろんノーベル賞が全てではありませんが、「創造性を失う」ことの意味は、賞をとるとかとらないとかそういう表面的なものではなくもっと深いんですね。

 

◇ 関連外部サイト記事の紹介2017 追加更新)

日本の科学研究は「失速」したのか?

日本人はノーベル賞を取れなくなる?進む科学技術力のちょう落

組織管理改革に遅れ 国立大の研究力低下

 

そういう危機感を持てないのであれば、少数の変人が好きな事を頑張ってるだけなのに、「俺たち日本人は創造的ウェ~イ」と勘違いし続け、親子間取引の数字で「創造的ウェ~イ」と勘違いし続け、

 

気づけば創造性も何もない人だけ残って、ますます尻すぼみの馬車馬労働社会になっていくだけでしょう。

 

一般人が普段馬鹿にしているような「クセの強い不器用な変人」が、「好きな事や夢ばっかり追っているマイペースな自由人」が、そんな人が枠を超えた創造性をもたらすわけです。

 

まぁ全員ではないですが、そういうタイプの人々の中から出て来るわけですね。

 

とはいえ、「守」「破」「離」で考えれば、日本は基礎・土台部の「守」がシッカリしている、だから「破」「離」にも繋がる、といえます。本当に基礎・土台もない社会なら、変人はただの変人で終わるだけでしょう。

 

これは基礎的な教育システムがシッカリしているということと、研究者を支える・育てる経済力・環境がある、ということで、この部分は創造性ではなくシステムと豊かさの問題です。

 

後、何を価値とするかの社会の傾向性ですね、韓国にも優秀な人は多いのに何故ノーベル賞がとれないか、というのも、優先される価値観が研究者を育てる方向性ではないからです。

 

ただバランス的に「守」に傾きすぎ、「型」にハマって「型」で終わる人が多い。「型」は社会を支えているとも言えるので、必要な役割で、相互補完的なものといえます。創造性だけあればいい、というものでもないわけですね。

 

そして「型」にも段階・レベルがあって、日本の平均レベルは優秀だしそれ自体を否定はしないですが、創造性を失った社会は発展力を失い、結果的には「型」も劣化していくという相互補完的なものなのです。

 

なのでどちらも必要であり、そして現在はそのバランスが悪い状態であると言えるでしょう。

 

以下に紹介のもうひとつの記事の指摘も鋭いです。このように「同じ統計」を見てもそこから何を感じとり、今後どうすればいいか、何を考えるべきか、の洞察力はそれぞれに違うわけですね。

 

「技術貿易は黒字だがこれでいいのか日本」 より引用抜粋

巨額の受取額の大半は自動車産業であり、その内訳を見るとその約75%が親子間での収支になっている。

つまりトヨタ、ホンダなどアメリカで工場を操業しているアメリカの子会社から、日本の親会社に支払っている特許、ノウハウなどのロイヤルティが大半になっている。
(中略)
言い換えると、同族企業の内部でやり取りする収益の分配にも見える。これでは本当のロイヤルティ収益と言えるのかという疑問がどうしても出てくる。もちろんこれは知財収益ではあるが、ここで欲が出てくる。

独創的な知財で稼ぐイノベーションが必要

欲がでるという言い方は、独自の技術開発でロイヤルティを取りたいという欲である。つまり系列の親子間でのロイヤルティのやり取りではなく、独自の技術のロイヤルティで系列外の企業から稼ぐことである。

技術輸出で稼いだ額のかなりの部分が、親子間の知財収支で得た額に占められているというのはいかにも寂しい。しかしこの状況には、日本企業全体が気が付いているのではないだろうか。

来たるべき知財立国への踊り場にあるのかもしれない。そう考えないと、日本の長期停滞への序奏ということになりかねない。そういうことを考えさせる総務省の発表データであった。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 技術貿易は黒字だがこれでいいのか日本

 

 

エンジニアと創造性

 

やる気もなく活気もなく自殺者が多く、将来も不安で収入も少ないの消費も冷え込んでいる、それはみな事実である。事実から目を背けた精神論や楽観的な思い込みだけでは社会は変わらない。

 

謙虚に控え目になり過ぎずに、こういうことをシッカリと言える空間、そして社会の在り方を変える方向性を潰さないことが大事でしょう。

 

知能・技能は高いし、真面目で良く働くのは長所ともいえるが、創造性を発揮するには「変わった人・独創的な人」の可能性を伸ばし、失敗を含めて長いスパンで挑戦過程を応援し見守る社会的雰囲気が必要ですね。

 

 ジョブスとウォズ

ジョブスはIQ140で非常に知能は高いが性格に難があり、(発達障害&強迫性人格障害ともいわれている)で、日本では間違いなくパワハラで訴えられるタイプの人でしょう。

 

彼に殆ど利用された形になったもう一人の影の天才「スティーブ・ウォズニアック」は、ジョブスを一切憎んでいないどころか、二人は深い友情で結ばれていました。

 

ウォズさんは技術の天才でIQ200超えですが、極度にシャイで温厚な平和主義。上昇志向もないので、ジョブスがいなければずっとオタクのままだったというような不思議な人です。

 

私はウォズさんが好きです。彼の言葉も話し方も表情も、根っからの優しさ、暖かさが伝わってくるからです。そしてただ自然な寛容な心を持っているからです。この方は生粋のエンジニアで、日本の匠系の職人に通じる何かを感じますね。

 

ウォズさんは過去にジョブスにピンハネされていたことを知っても、ジョブスとの友情は変わらず、ジョブスは極端な人格なので人生でいろんなことがあった人でしたが、結局悩み事はウォズさんに相談するんですね。

 

 

ico05-005 物事をコントロールする人より、笑って過ごす人のほうが幸せだって、僕は思う。それが僕の考え方なんだ。

僕は、人生で一番大切なのは幸せであり、どれだけ笑って過ごせるかだと思うんだ。頭がちょっといかれたやつのほうが幸せなんだ。僕はそうゆう人間だし、そうなりたいとずっと思ってきた

 

ico05-005 僕は、エンジニアとは世界の鍵を握る人種だと信じている

 

ico05-005 何か新しいもの、世界を変えるものを作るには、みんながとらわれている制約の外側で考えなきゃいけない。みんながそんなもんだと思っている人工的な限界の外側で考えなきゃいけない。

白黒じゃなくてグレースケールで世界を見なきゃいけない。誰も考えつかなかったものを作りたいなら、そうする必要があるんだ。

 

この二人は共に質の異なる知能の高さがあり、ジョブスにはアイディアが、ウォズには技術があり、凄い次元の相互補完関係です。普通の人であればウォズを生かせないし、ジョブスの性格には耐えられません(笑)

 

例えば天才科学者の「キャベンディッシュ」さんは、ウォズさんみたいな無欲な人でしたが、相互補完的な関係となる人がいなかったために、ただ研究だけ楽しんで誰にも発見を知られることなく死んだ天才です。⇒  ノーベル賞よりスゴい天才! 科学者キャベンディッシュ

 

「社会で許容できる範囲」というものはありますが、社会にはいろんなタイプや能力の人がいた方がいいと私は思います。人は単体では無力だったり誰かとは合わないかもしれませんが、他の誰かとは合ったり、役に立ったり支えになっていたりするからです。

 

あまりに均一化すると、多様性の化学反応による発展や相互補完によって互いが生かされる可能性の幅が少なくなってしまうんですね。「分かったようで何も分かっていないことが、生命現象には特にたくんある。」と大隈氏も語るように、人間もまた同じです。

 

だから様々な人間がいた方がいいんですね。頭のいい優秀な人だけが全てを知っている理解しているわけではないんです。「知る」ということはとても多元的で深いもの、そういうものだと私は思います。

 

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