今日はE・T・ホールの文化的時間概念、基層文化からみた現代日本と自我をテーマに書いています。このE・T・ホールの文化的時間概念のテーマは、角度は異なりますが「集合的無意識」や「ミーム」などの概念とも通じるものがあり、
文化人類学はとてもユニークな分野で、心・精神の大きな基層的力学として、いつか記事テーマにしたいと思ってはいたのですが、
丁度、ブログ読者のよちさんがE・T・ホールの面白さに感銘を受けていて、それでコラボで自由考察し、そこに他の様々な複合的な考察を加えた記事です。
今回は「仕事」「自我」 を主軸に「日本社会」を分析していますが、よちさんとのコラボ考察はテーマが多岐にわたるので、後数回に分けて書く予定です。
前回の記事 → 対人コミュニケーションの多元性 文化的時間と対人距離・自閉症と共感性
※ 個々の差異や他の複合的な力学を含めて考慮すると、実際は個人の心・精神、そして文化・歴史というものはもっと多層的で複合的なものとは思いますが、今回はテーマを絞って自由に考察しています。
文化人類学的な「主観的な日本観」への批判や指摘は昔から行われていますが、私は文化人類学的な日本文化への考察が全て過度なバイアスによるものとは考えていません。主観的考察と思われるものの中にも感覚として理解できる要素や興味深いものが含まれていることもよくあります。
同時に、文化人類学的なカテゴライズのみで決定論的に日本及び日本人をみる、というのではなく、「ひとつの考察角度」という感じなんですね。
関連 PDF ⇒ 文化人類学における「日本的自我」を読みなおす ― 文化ナショナリズム批判を超えて ―
モノクロニックタイムと仕事
学術的にみるのであれば、E・T・ホールの文化類型論は統計学的なエビデンスからほど遠く批判・否定もされていますし、先にも書いたように民族の複雑性・全体性をこれだけで表せるとは考えていませんが、
この概念にはユニークさがあり、ひとつの捉えかた、切り口として、E・T・ホール以外の他の考察も交えながら「おおまかな主観的な考察」として書いています。
日本文化論にみる「日本人のイメージ」は、客観的な統計分析では「思い込み」として否定もされています。(以下に参考PDF紹介)〇 参考PDF ⇒ 二次分析による日本人同質論の検証
とはいえ、主観的には「日本文化論的な日本人像」に対して多くの人があまり違和感を感じていないどころか、むしろ「あるある!」的な共通感覚があることも事実でありますが、
そういう意味では血液型性格診断にも似た「あるある感」なのかもしれませんね。
2019/10 追加更新です。AIと30万人分のデータによって血液型と性格の関連性が実証証されたとのことです。血液型と性格の話に関しては、それなりの根拠があったようですね。
「血液型と性格」の新事実 AIと30万人のデータが出した驚きの結論
現実には「日本人の同質性は低い」が統計的事実であっても、「日本人のイメージ」に関してはかなり同質、つまり「日本人は日本人像に関してはハイコンテキスト」というオチかもしれません(笑)
ではここから「血液型性格診断的」な要素も多少含んだ形で、文化人類学の概念を用いた主観的考察を開始します。
自然界で生きていた原始的状態では、人はポリクロニックな時間を生きていた、そしてヒトの歴史において、最も基層となる時間はポリクロニックタイムでしょう。
日本はETホールの文化カテゴリーではポリクロニック文化でも、時代によっても傾向性は異なり、この概念で考えるなら、現代の日本はモノクロニックともいえるでしょう。
そして日本が敗戦後に急速にこれほどの先進国化に成功したのは、モノクロニックな素地があったからだともいえます。本当に基層文化がポリクロニックだけならばここまで急速にモノクロニックに最適化は出来なかったでしょう。
「お上支配の伝統国」だから、トップのミッションに一元的に従い滅私奉公的に同一化することに慣れている「モノクロニック適正の高い集団」とも言えるでしょう。
そして戦後は大国アメリカ文化の民主主義のモノクロニック時間軸をベースにした日本政府管理システム社会に急速に移行した、というわけですね。
スケジュール・優先順位に従い、あるいは組織上部の生み出すミッションを組織下部が分業・役割業務として一定時間の中で選択的・分断的に行う(企業組織、政府、専門的職業、エンターテイメントなど)では、モノクロニックタイムが支配的な基準であり、この時間・空間の中ではより「重要なもの」が選択的に時間をかけて行われる。
以下の「仕事が出来ない人」というアンケート調査結果を見ても、「モノクロニックタイムへの適応性の無さ」が多くの割合を占めていますね。
次が「責任帰属」そして「コミュニケーション」、後は「傲慢さ・ネガティブさ」などの「心の姿勢」です。「仕事」に関する他者への不満のポイントは、大概この4つに分類できると思います。
「男女500人に聞いた「仕事ができない人」の共通点」より引用抜粋
●「仕事ができない人」の特徴ランキング
1位「仕事のタイムリミットを決めず、ダラダラと作業をしている」33.6% 2位「デスクが散らかっている」33.2% 3位「ミスを人のせいにする」33.0% 4位「責任感がない」32.4% 5位「ミスをなかなか報告しない」29.6% 6位「自分ができると勘違いしている」28.2% 7位「知ったかぶりをする」26.8% 8位「遅刻しがち」26.2% 9位「周りとコミュニケーションをとらない」21.4% 10位「すぐに『できない』と弱音をはく」21.0% ※男女500名が回答
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
時間感覚・責任感覚・コミュニケーション・心の姿勢、この4つのバランスが適切で調和している人は、基本的に組織適応型です。
また「未来思考」「過去思考」「現在思考」という概念から、あなたの思考に 「時間」 がどう影響しているかを知ることができます。⇒ 「マインドタイム」 のテスト
現代日本社会
そしてもうひとつ、ロバート・ヒルキ氏の「ソクラテス型・孔子型」の社会の基層文化も重要でしょう。ソクラテス型は横の社会で双方向の対等な意見交換が積極的に行われ、孔子型は縦の社会(年功序列)ですね。
そして「ローコンテクスト社会」では、情報共有度が低いために、多くの情報を伝える必要性があり、また言葉によるコミュニケーションが大事な社会です。
「ハイコンテクスト社会」では、文化が一元的(日本は昔は少数民族文化も同時に存在し全体的には多民族文化だったのですが、同化政策以降はほぼ統合されました。)
そして情報共有度が高いので「阿吽」的な少ない表現、たとえば日本人の大好きな「察してくれ」的な抽象表現は日本人同士なら伝わります。逆にハッキリ言いすぎたり多弁過ぎると嫌がられたりする傾向があります。
(これは職種や役割や立場の関係の差異によっても異なりますが、一般的な傾向性、というおおまかな意味です。)
ですがアメリカではハッキリ伝え、そして具体的に多く語らないと伝わらないんですね。アメリカは「モノクロニックでローコンテクストでソクラテス型」の社会です。
現代日本は基本的に「モノクロニックでハイコンテクストで孔子型」の社会ですが、世代間の文化情報の共有度の格差によって、関係性の組み合わせによっては昔よりもローコンテクスト化してきているともいえますし、逆に過剰にハイコンテクスト化している部分もあり、濃淡が激しい感じですね。
以下、モノクロニックをM、ポリクロニックをPとしています。
〇 M型人間:specialist(職人気質)秀才系 〇 P型人間:generalist(物事の全体を見渡す)天才系
個人的に思うことですが、世界で「秀才&良い子」が多い国が日本だと思います。事務処理能力と「型」の精度に関して優等生な国民です。以下のOECDの調査を見てもトップであり(これだけで全てがわかるわけではありませんが)、「平均的に優秀」ということはいえるでしょう。
図の引用元 ⇒ 図録 世界一頭がいい日本人(OECDの成人スキル調査)
またOECD諸国内では犯罪率は最低水準であることを見ても「平均的に道徳的である」といえるでしょう。そしてエンジニア(職人気質)の国、ものつくりの国と言われるのは、「M型人間で優秀な人」が多い、という風にも表現できます。
日本人の最基層の心性は「豊かな自然を背景に持つ豊かなP性」が優位で、現在も自然豊かな国なので、その心性(自然自我の基層の質)には豊かなP性が未だ息づいてはいますが、
「お上支配と孔子型社会(お仕え型の縦型社会)」による組織への「軍隊的秩序」の形成と、農耕中心社会のM系優位な「伝統の型と境界の文化」による「集団と個の一元的調和化」によって、
「社会的自我」はM系組織の一元的時間でのミッションへ総合的な適応性を高めたということですね。
また、稲作は協調的な労働を必要とし集団主義思考を強め、単一の家族でも出来る麦作は個人主義思考を強める、という差異があります。⇒ 稲作か麦作かで社会心理に相違=米最新論文
そして狩猟採集はP系で漁業はP系ですが、国土が狭く火山が多く地震も多い日本には自然災害・天災が多く、運命共同体的な集団的防衛として協調して災難に取り組む「地理的特性」もあります。このあたりも同じM型の近代社会でも、集団主義傾向か個人主義傾向かの質の差異が生じるわけですね、
日本が非常に集団秩序があり、個の実力アピール「俺スゲェー、俺様が一番」よりも集団への協調アピール「皆様のおかげです」の姿勢をとるのは、教育だけでなく基層文化・地理的特性も絡んでいるということです。
過去の日本のムラ社会というのはM型の「ウチとソト」に区切られた閉鎖的な境界を持つ社会です。毎年、「鬼はソト、福はウチ」と豆までぶつけてきた「ソト排斥のガラパゴス文化」だったんですね。
そしてソトに排斥された者達に「天狗、鬼、物の怪、祟り神」などの味のある憎めないラベリング行為を昔から行っていて、構築主義者もビックリなほどに多様な物語を生み出して文化にしてしまうなど、
ソトに追い出して豆までぶつけていながら、でも実際は「嫌ってるのか好きなのかよくわからない、いや結構好きかもしれない」、そんなユニークな「矛盾性を受け入れた抽象的創造性をもつ民族」です。
そして昭和期はM期なので「時代(時)・職場(場)・職人気質(人)」はM・M・Mで3M の時代です。そして組織上部は戦後の猛烈パワハラ系のドS集団だったので、下はドMのトリプルスリー、というわけです。笑
これが後に「社畜マインド」と称される「昭和的集合意識」を形づくり、後に組織上部に大量に移行しました。少数者の昭和後期&平成期はP期に入り、ナラティブ&グローバル化した情報多様化はPPPのトリプルスリーです。
PPP時代にTPPまで入ってきて、もうわけわからんカオス期へ突入です。昭和のおじさんは、カオス期という情報ハイテク戦国時代に、またしても昭和の逸品「ザ・竹槍」で突進せよ~的な精神論を強制し、見事「老害」という称号を与えられましたが、
3Mでムチ打たれて鍛えた鋼鉄の打たれ強さは、サトリ氏とユトリ氏では歯が立たたず、上からネチネチと調教され続け去勢されてきた、というわけです。
昭和期(特に1980年代あたり)に精神世界・オカルトブームやカルト系組織が沢山出てきたのは、一つはこういう日本の時間と空間が非常に単一の時間・一元的な価値に収束した閉塞性=「ウチとソト」の二元分離、そしてその抑圧化が生んだ負の創造的反動でもあったでしょう。
現在も少子高齢化&カオス期の閉塞感・不安感・虚無感への負の創造的反動によるスピブームが起きています。どちらにせよ若者が中心となっていますが、それは創造活力が昇華還元されないまま「機能不全化した社会」のアノミーの一種でしょう。
このような基層文化と文化的時間の質的な変化の中で、「自我」はどのように変化していったのでしょうか? 以下参考PDFからの引用・抜粋の紹介です。
「自我のゆくえ」 より引用抜粋
見田によれば,時代は「十人一色の時代から十人十色の時代へ,そして一人十色の時代へ」と移っている(見田,1995:2)。そこにおいて,ひとは常に「誠実」ということから,コンテキストあるいは関係によって
「誠実」・「不誠実」ということになる。そして,問題は「誠実か,誠実でないかではなく,いかなる条件やコンテキストにおいて不誠実という経験が問題となるのか」ということであり,人々が「絶対的な道徳的価値を侵害したり,非合理的に行動したりすることではなく,
自我のどの側面,自我に関連するどの関係が,個人によってコンフリクトと認識されるのか」が問題なのである(Erikson,1995:140)。そこにおいては「アイデンティティの喪失」はあっても,「自我の喪失」はない(Schwalbe, 1993:335)。
あるのは「自我の変容」であり,関係的.多面的・多元的,感情的,断片的,流動的な自我が新しく出現してきたことである。
(中略)
ターナーらによれば,インパルシブな自我には2つある (Turner andSchutte, 1981)。インパルスを解放したときに自己の満足や解放感を感じ,他者とのかかわりをあまり考慮に入れない「インパルス解放」型と
他者とのかかわりを重視し,親しい人間との問に安らぎを感じ,そこに「本当の自分」を感じる「インティメイト」型である。
そして,こんにちにおいて「インティメイト」型の割合が大幅に増加してきている。山崎によると,生産社会においては他者は「世間」という顔のない他人であったが,消費社会では顔の見える親しい他者である。
人々はそのような親しい他者の評価の中に自己の実現を目指すようになる。「柔らかい自我」の個人主義の基盤は「顔の見える大衆社会」であるという(山崎,1984)。
他方,現代においては,他者の数が増えることによって,他者の期待の問にズレや対立などが生じている。人々は相異なる期待に直面して悩み,苦しむ「役割コンフリクト」を経験し,精神的な異常や身体的な変調を来たすことも少なくない。
しかしまた,多くの人々はその状況をさまざまな「コンフリクト解決法」によって乗り越えようとしている。
たとえば,複数の相異なる期待の中からひとつを選び出し,他のものは放棄する「役割選択」によって,また,複数の相異なる期待の間の調整や妥協を試み,適度の範囲において行動する「役割中和」ないし48 (4 ・ 22) 410「役割調整」によってコンフリクト状況を克服する。
あるいは,「役割コンパートメント化」によって,多様な役割期待に対して場面や状況による自己の使い分けを行ない,複数の自我の間の統一性を求めず,多面的・多元的な自我を形成するようになる(船津,1996)。
(中略)
組織の巨大化・官僚制化によって,また社会全体の管理社会化により,個人の自由な判断の余地が少なくなってきている。一方的押し付けや上からの締め付けによって型にはめられ,画一化されてしまう。自分が望まない期待に応えなければならず,その結果,「真の自我」が見失なわれてしまうおそれが生じている。そこにおいて,人々は自分自身と役割それ自体とのコンフリクトである「パーソン・ロール・コンフリクト」状況に陥ってしまう(船津,1996)。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/48/4/48_4_407/_pdf
2017/7 追加更新 – ここから –
上記の参考PDFに「一人十色」の時代へ、という表現がありますが、これは以下に紹介の外部サイト記事に出てくる「分人」という概念とも共通してます。「なるほど!」と感じるとても面白い考察の記事なので追加で紹介します。⇒ 若者が「自分らしさ」を易々と捨てるシンプルな理由
追加更新 – ここまで –
昭和から平成へ
昭和はモノクロニックタイム優位ですが、個々の現場内には「ボトムアップ型のポリクロニックタイム」も混合しており、地域や家庭は日本の 基層文化であるポリクロニックタイムが優位だったといえます。(アメリカの場
合は基本的にトップダウン型のモノクロニックタイム)
団塊の世代は「モノクロニック期」と表現でき、そしてコミュニケーションでは「単一性の高い民族で独自の文化を持ち、歴史が長く、そして教育レベルの均一化が進んだ日本」は、かなりのハイ・コンテキスト社会・文化といえます。
そして平成に入って情報多様化が急激に進み、支配的な物語である日本的伝統への同化力は弱体化し、平成はナラティブ化したポリクロニック文化で、コミュニケーションではロー・コンテキスト社会化が進み、
さらにパートやバイトやハケンや正社員などの仕事スタイルの多元性と契約形態の多元性によって、職場もかつての団塊の現場ような単一のモノクロニックさが薄れポリクロニック化してきているが、別の面では無機的なまでにモノクロニック化している。つまり両極端なんですね。
カルト組織やブラック企業はある意味強力な一元的モノクロニック組織で、絶対的な上部ミッションへの同化と過剰適応が要求される特殊空間です。
企業の中で特に酷い例が「一見良い会社に見える」セブンイレブン。強烈なトップダウンの搾取型システムは、非人間的労働で自殺者、鬱を量産し、そのあまりの人間味のなさで2015年ブラック企業大賞にも選ばれました。
理解のズレや不適応・生きづらさと社会的時間・空間とのズレの関係
社会での組織人として生きる場合、上部の与える一方的なミッションにただ機械的に集団同調するだけでは、その空間はモノクロニックな時間が主体で、しかも個々の多元的な時間軸と空間軸は重要性・必要性がないために排除される傾向になります。
この極端な一元性へ適応させる要請が、過剰適応・過剰同調となり、「あるべきもの」として非常に分離的に作用します。この強い分離性が、硬直性を高め、
さらに自己分離性を高めていくとそれは心身を壊す強いストレス作用となり、元々モノクロニック優位なタイプはそれでも違和感は少ないでしょうが、
ポロクロニック優位な場合は、自身の主となる時間・空間とは異なる時間・空間に適合させようとしているわけだから、そのズレの大きさと適合への努力量に比例したストレスが蓄積されていくわけですね。
また逆に、公私共にモノクロニックな時間が主体で生きているタイプの人にとって、ポリクロニックな感覚で捉えた多元的な在り方は理解不能なカオスに映り、境界のハッキリしない自他融合性に激しい違和感を感じることもあるでしょう。
そして日本と他国の時間感覚と空間感覚の根底的な認識感覚の差異が、この「違和感」を生み出していたり、理解のズレになることもよくあります。
個人が単一のアイデンティティの時間軸・空間軸に集約されていた時代から 、個でありつつ複合的で多元的なアイデンティティの時代に入っている現代において、
特に先進国の場合、既に多くの人々が何々タイプとか明確に分けられないもっと複雑で多元的な自己を行き来して使い分けて生きています。
なのでこのような区分けにあまりヒトの全体性を固定的にカチッと当てはめることは、逆に 窮屈で決定論的な前時代的区分けへの逆行にもなる可能性もあるでしょうが、
基層文化に焦点を絞るなら、それはシンプルなので、大まかな区分けとして考察することは可能であり、またひとつの視点として役に立つでしょう。そして本来、自我というものは相対的で相互依存的に存在するものであって、それ自体で存在するような何かではないんですね。
次回はまた違う角度で異なるテーマを、この文化的時間概念と他の考察を踏まえて記事を書いてみましょう。
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