ジョンレノンとBBキング   「語られる真実」と「感じられる真実」  

 

久しぶりの更新になります。またまたちょっと間が空きました(^-^;    一応、記事テーマの進行をリズムよくタイミングよく進めたくて、ざっくりと大まかに段取りは考えてはいるのですが、予定よりもかなり遅れています。まぁ仕方ありません、今は時間的にこれが限界ですから。

 

ではまず本題に入る前に、季節の動画の紹介で、今からの時期が見頃の「ほたる」の詳細情報です。

 

【初夏の風物詩】ほたるの見頃はいつ? 2015.05.15

 

 

今日もサクッと書ける内容での記事更新です。最近亡くなったBBキングへの追悼の意味も込めて、音楽動画の紹介と、「ジョンレノン」の心理学的な分析記事と、「語られる真実」と「感じられる真実」がメインのテーマです。これは「感性アプローチ」の補足となる記事でもありますね。(記事のラストで、詩もひとつ紹介しています。)

 

 

私はBBキングの歌とギターにはとても温かみのある大きな心を感じ、好きだったアーティストの一人です。

 

ブルースの巨匠であり傑出した存在でありますが、私にとってはそんなことよりも、彼の歌と眼差しにとても癒され感動を受けてきましたので、哀悼の意を込めて、私の好きなBuddy Guy とBBキングの共演動画を紹介したいと思います。

 

Buddy Guy – Stay Around A Little Longer ft. B.B. King

 

 

 

ジョンレノンをあまり知らない人にとって彼の印象は平和主義者なんでしょうけど、別の角度から見れば彼は機能不全家族で育ったアダルトチルドレンでもあり、

 

ジョンレノンの能力・才能・魅力というものは、バランス異常から生まれる狂気的な意識の偏りに支えられています。

 

十代の頃、ビートルズを全アルバム聴き、ジョンレノンの特異な能力に惹かれ、ジョンレノンの全アルバムを聴き、詩集を読み、そして、二十代は全く聴かなくなりました。

 

ですが私はジョンのその後を見たかったし聴きたかったんですね。おそらくジョンが生きていたら、「ジョンの魂」やら「イマジン」などからは想像もつかない全く違う曲・アルバムを作成し続けたでしょう。

 

それは彼もまた変化・成長していたからです。「ビートルズの曲を全曲書き直したい」という意味のことを彼が後に語っていたのも、彼の本質が思想家ではなくアーティストであり、音楽への飽くなき創造性に突き動かされたクリエーターだったからでしょう。

 

最終作の「ダブルファンタジー」は、彼がシンプルで調和した姿に立ち返ったような自然さがあり、あの作品こそ彼の人として芸術家としての本当のスタートだったように感じていました。

 

そこに至るまでの過程では、彼の極端な感情、自己欺瞞的な葛藤やアンバランスさが顕著に現われているなぁ、とも感じていました。

 

「イマジン」でグラミー賞を獲得しましたが、その頃もその後も、私生活は浮き沈みが激しく、情緒不安定な極端な要素が昇華しきれてはいませんでしたが、十代の自分にとってはそんな不安定で過激なジョンに共感するところも多く魅力的にも感じたんですね。

 

ジョンは、アメリカの精神科医のアーサー・ヤノフによるプライマル・セラピー(原初療法)を受けていました。原初療法というのは、「抑圧化された幼い頃のトラウマを意識化し感じることで再体験し、それを表現(絶叫する)して治療する」というものです。

 

ジョンのファーストソロアルバム「ジョンの魂」が、原初療法によって引き出されたジョンの潜在意識が反映されているアルバムだという話は、私が18、19歳頃に聞いた話なので、もうすごく古い情報ですが、18、19歳頃に私が感じたジョンの変性意識の質は、境界型(ボーダー)の意識そのものです。

 

例えば「ジョンの魂」の「マザー」には、「見捨てられ不安」が強力に宿っていて、その声には鬼気迫るようなリアリティがあります。30歳の大人とは思えない子供の叫びが感じられます。

 

そしてジョンは発達障害のひとつであるディスレクシア(失読症・難読症・識字障害・読字障害)で、最近だとスティーブ・ジョブズもディスレクシアなんですね。

 

境界型の有名人では、複数の心理療法や精神分析の専門家にかかっていたダイアナ妃が有名ですが、尾崎豊さんもそうですね、ジョンとは全く質が違いますが、ある種の変性意識を感じます。

 

尾崎豊さんの曲も十代の頃によく聴いていましたが、その後は全く聴かなくなりました。でも音楽性の違い云々は置いといて、ジョンと尾崎豊さんの大きな違いは、

 

ジョンがひとりの素の人間に立ち返ったような「ダブルファンタジー」のような段階に辿りつく前に、尾崎豊さんはその途上のまま亡くなった、というところと、

 

ジョンはドラッグや瞑想の影響も大きいでしょうが、ポールより遥かに変性意識に入りやすい感性タイプで、特有の気の質を感じるんですね。

 

ジョンのカリスマ性とインパクトは 意識の偏りと深さによる激しさで、ポールの方が音楽性そのものの感性は高いと感じます。なのでポールの方が基本的に万人向けなんですね。

 

ジョンや尾崎豊さんの歌は聴く人によって好き嫌いが激しく分かれるのもそのためです。このタイプはもろに相性の良し悪しが出てしまいますから。

 

スティーブ・ジョブズの場合はギフテッド系でしょう。元々OE(過度激動)で、物凄いクリエーター気質ですので。 ギフテッドに関する過去記事は以下に紹介しておきますので参考にどうぞ。⇒ 人格形成の立体性 HSP・OE・ ギフテッドと気づきの多重性

 

ジョンが決して「心・精神が調和した達観した人」ではなく、かなり重度のバランス異常であることは既に十代の頃に強く感じていて、そして彼のドラッグ依存症や、「彼の失われたマザー」のオノヨーコへの投影による過剰な依存心理も、根本はそこにあることも感じてはいましたが、

 

彼はその反動力で作曲していたような要素も多い人で、そこが面白いところでもあるんですね。ではここで、Elizabeth Gilliesのcoverによるジョンレノン「ジェラスガイ」の動画を紹介します。

 

「ジェラスガイ」はビートルズ時代に作成されたもので、その後かなり違うアレンジに編集され、歌詞も全く違う歌詞に書き換えられて「イマジン」に収録された曲です。

 

Jealous Guy Cover- Elizabeth Gillies

 

 

芸術家・芸能人は似ているところが多くて、「コンプレックスや負の意識を逆に創造的に使う」あるいは「昇華する」ことで、「社会的に認められる才能や能力の形式に変換する」という心理的還元をしていることがあるんですね。負の要素が心の燃料あるいは支えにもなっているのです。

 

そして「長所と短所」がセットというのは、天才肌の人には多く、ある面から見て短所だからと言って短絡的に否定し取り除いてしまうと、優れたもの・長所までなくなる、ということが実際にあります。

 

私が「人格障害」やら「性格診断」のような心理学的分析や精神医学的な定義を、一面的には有用で必要であるとしつつも、それは断片的なものであり、人の全てを表すもの・見ているものではないと感じるのも、母や身近な知人として、天才的な芸術家たちの長短の意識の極端さを体験的に子供の頃から知っているからです。

 

そして「認知バイアス」の生む悲劇や有害性というものは、別にオカルトや宗教的な特殊な思想的なものだけではなく、

 

それ以外の様々な人間心理や、社会・コミュニティの日常的な心理的・物理的外圧の複合的な力学で生まれることもよくあるので、誰にでもわかる目立つ対象・現象だけに固定化は出来ない動的・複合的なものでもあるんですね。

 

ジョンレノンの話しに戻しますが、彼はアダルトチルドレンであり、そして最初の結婚では、彼自身が「毒親」にもなります。

 

私は彼の思想やら哲学やら政治的なメッセージには興味はありません。ですが負も正も光も影も、矛盾・葛藤・欺瞞を含めた赤裸々な過程を世間に自ら晒しながら、人間臭い生々しい姿を隠さず歌で表現し続け、

 

そして死の直前に、自然体の一人の人間に立ち戻りつつ、そこでは昔のようなバランス異常の極端さはなく、その統合状態でも生き生きした感性は失わず、見事に調和した作品を生み出した姿に、アーティストとしてのジョンレノンの生き様を感じるんですね。

 

 

「語られる真実」と「感じられる真実」

 

私はビートたけしさんの作品は鋭くて斬新だとは思うんですが、でも高倉健さんの作品や男はつらいよの寅さんは「心に残る」んですね。高倉健さんの遺作の『あなたへ』は凄くシンプルな作品ですが、とても深くて、でも一切大げさなものがなくて 本当に傑作だと思います。

 

神や特定の観念・主義を盲信して現実の問題や人の心の問題を短絡的に解決しようとする人や、心理学者や脳科学者には生み出せない、繊細で深い「心の奥行」を感じる作品ですね。

 

あのような伝え方が出来る眼差しの深さ、それが本当に心を理解する、という「生きた形なき心理学」の見本のひとつだとも思います。

 

そういうことは知識・理論に当てはめて公式的に頭で理解するような浅く狭いものではなく、一律の専門言語に全て意味変換して説明表現しうるようなものではないからです。

 

本や専門家・権威の言葉を追うだけの在り方よりも、自身の日常の中で、多角的で感性的な理解を深めることがとても大事だと感じます。

 

学びや気づきは 強制されるものではなく、権威の力や集団の同調圧力で思考の型にはめ込んだり、無理やり気づかせるようなものではありません。

 

人は強制なく自然に変化していくし、変化していける力と感性をその本質には誰もが持っていますが、それが上手く発揮できるか出来ないかは、個人だけの問題ではなく様々な心理的力学が複合的に関係しています。

 

ではラストに、今回のテーマと重なる詩をひとつ紹介して記事の終わりとしますね。

 

ico05-005「語られる真実」と「感じられる真実」

 

「私が正しい!私の方が真実!」を言い合って罵り合ってるだけの姿       自分を認めさせたいことにやっきな自己主張人の必死な姿      

 

これが正しいとかこれが間違っているとか あなたの真実が何だろうが そんなこともうどうでもいいよ ただあなたがそんな姿である  という事実だけが 現実に今感じられる唯一のことだから 

 

そんなもので本当に変われたことは一度もなかったんだよ

 

正論と論理と知識の中に 心の現実・今は存在せず  心は一度も直接触れられること  見られることはなく 聴かれることもなく  

 

ただあなたはあなた自身の思考を見て聴いて それを吐き出すだけ  そこには共感のない一方通行の心無いコトバが響くだけ   

 

その耳障りな音に意味があるとすれば 同調を迫る強迫的な心による 観念的な束縛の繋がりだけ 

  

コトバで何度も突き刺して 抑えつけて認めさせようとする人の心は  結局は無意味な害心と同じ響きしかない

 

いつも  ただありのままに見つめ見守ってくれた人が 最終的に心に一番深く残る     ありのままの姿の その深い理解の眼差しから生じたコトバだけが 心を変えようとせずに変える力を持っているんだね

 

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