本質的にイジメがなくなることはないでしょう。今出来ることは「イジメに合わないように生きること」 「イジメに屈しないように生きること」 「イジメの深刻な場所から離れること」だけです。後は「信頼出来る人がいれば相談する」くらいですね。
こういうテーマで記事を書いておきながら書き出しからこれですか?という感じもしますが、 本当に今はこれだけしか方法はありません。何故なら今の社会自体がイジメの構造でガッチリと成り立っているものであり、
私達が生きているこの場所は、どんな綺麗事を大人達が語っていようとも、「イジメ肯定型の社会」の真っただ中にみんなが生きている状態だからです。
大津のイジメ事件ではあんなにみんながイジメを絶対許さないって空気になっていましたが、逆に不思議なんですね、それだけイジメを絶対許さないっていう人が日本全国に沢山いるにもかかわらず、何でイジメは大人も子供も関係なくアチコチで日常化しているのですかね?
その意味を深く考えてみた事はあるのでしょうか?外部リンクになりますが、ある記事をここで紹介します。いじめを理解する参考になります。
ネットで騒いでる人達は、イジメの現場でも真正面からいじめている人達に対面して、それを止めようとするくらいの気持ちはあるのですかね? それが出来ないとするなら、イジメを傍観していた生徒や教師と一体どこが違うのですか?
そしてなおタチが悪いのは、普段は同調圧力で暗黙の了解的に誰かを追い込むのが当たり前になっているような、強いものに巻かれてるだけの大人がそこに紛れていても、ネットならわかりっこないってことなんですよ。
その人は何故「その人の日常」、「その人の現場」でそれを本気でやらないのでしょうか? と疑問に感じるわけです。
そして正論を盾に誰かをみんなで徹底攻撃していても、その正論吐いてる人がイジメの原理を全く持たず人として公正で温かい人間かどうかなんて、その人をジックリ見てみないとわかりっこないでしょう。
まぁSNSで目立ってる人等の批判の仕方って、フェアで思慮深い温かい人間がする「批判のやり方」とは到底思えない感じのものがよくあるんですね。
一方は全て明るみに出されて「完全な悪人」にされ、もう一方は悪人なのか善人なのかも本当のところは誰にもわからないような、そんあな人々による徹底批判が絶対正義のようになって同調圧力化しているだけ。
正体のよくわからないネットの同調圧力が世の中を変えるのではありません。本来は、現場にいる人ひとりひとりがそれに向き合うかどうかが一番重要な事であって、現場を本当に変えるのは現場にいる人達の「行動」です。
だいたいそんなにみんなイジメが嫌なはずなら、何故「イジメ肯定型社会」はそのまま変わらずに存在しているんですか?
特定地域の教育委員会や学校だけをネットで一斉に外部攻撃して責めまくって、表面的なとこだけを同調圧力で変えたところで、社会も人間も変わらずそのままでしょう。
「イジメ肯定型社会」を現代人が作った理由は、現代社会的の構造自体に「イジメの構造」が含まれているからです。
だからこの現代社会で生きていくのであれば、それは「イジメの中で生きること」だと考えておいた方が、これから大人になっていく人は後で大きなショックを受けずに済むかも知れません。
大人社会の理不尽さはパワハラ、セクハラ、マタハラだけではないですよ。
しかしパワハラ、セクハラ、マタハラは明らかに酷いものであれば誰にとっても明確ですが、微妙なものになると、同じことをしても受け取る側や相手次第で変わる相対性があり、状況にっても意味合いが変化したりします。
ゆえにこれをあまり潔癖に細かくしてしまうと、ちょっとしたことでも相手を裁くことが出来るために、それを逆手にとった「悪用」や「冤罪」にも繋がりやすくなります。
他にも、「リストラ」は一般的には「会社の経営上の都合」という形ですが、そのやり方の中に対象を執拗に精神的に追い込む強引なやり方があったり、また不当解雇も含まれていたりします。
「不当解雇」に関しては、労働事件の弁護士さんのサイト記事を紹介しておきますね。⇒ 不当解雇かもしれないと思ったら
そして「マタハラ」に関しても、会社組織のシステムや労働環境などの相互関係的な要素を含むので、現実的な利害関係を含むものであり、バランス次第では「逆マタハラ」というような逆転現象も起きてきます。
「マタハラ」している側だけでなく全体を見て問題を解決しないと上手く解決は出来ない複合的な問題でしょう。これに関しては以下の記事を参考として紹介します。
⇒ 「資生堂ショック」いまだ収まらず~「産まない女子」と「産んだ女子」が職場で大ゲンカ 「逆マタハラ」という恐怖
⇒ 「“男女平等”は圧倒的に女性に不利」ダイバーシティ企業が陥りやすい12の罠
命は弱さを許さないのか?
私はヒトラー信奉者ではありませんが、「命は弱さを許さない」という彼の言葉がありますね。一部の若者がヒトラー信奉者になってしまうのは、それなりに的を得たようなことを彼が言っているからなんですが、所詮「それなり」なんですね。
では本当に「命は弱さを許さない」のでしょうか? 実はそういうことはないんですね。「弱肉強食」とか「自己責任」という、権力的な思考の人々に都合が良い言葉の嘘に簡単に騙されないようにしましょう。
そういうことにしておいた方が強者側はやりやすいからそう言うわけです。
「命は弱さを許さない」は嘘です。それが人間の本能であるのならば、赤ちゃんや子供や病気の人を本能的に徹底的に痛めつけて許さないはずでしょう。ですが実際にはそういう残酷な人の数は少なく、多くの人は本能的に弱さを助け守ろうとします。
原始時代は今よりも生きる上で過酷で野生的な本能剥き出しの状況であったにも関わらず、人々は助けあって弱い者達をみんなで守って生きてきたのです。もし命が弱さを許さないのであれば、人類は生き残れなかったでしょう。
自然界の姿を浅く表面だけ見ていれば、自然界は一見、一方的な弱肉強食にも見えますが、実際は自然界は循環型で相互依存型の生命システムです。草食動物も小さな虫も変わった生き物も、自然界ではそれぞれが種としてちゃんと繁栄して生きています。
その一部を大きな捕食者が食べていたり、強い個体が弱い個体を威嚇したりしているに過ぎません。威嚇もシンプルな生存競争的なものであって、ストレスでの執拗な嫌がらせなどの複雑な執着的行為ではありません。
おそらく人間もシンプルな生物学的な身体的強弱でのイジメなどであれば、ジャイアン的なわかりやすいもののはずです。
自然界は弱肉強食だなぁ、弱い生き物は滅ぼされるのだなぁってイメージで決めつけているだけで、自然界はそういう一面だけではありません。
それぞれが生きるために必要な量を獲っているだけであり、現代社会のように一方的な破壊的で過剰な弱肉強食システムや搾取のシステムなど自然界にはありません。
だからヒトラーの言葉を訂正するなら「一部の国・一部の社会・一部の組織・一部の集団・一部の人は弱さを許さない傾向性がある」です。
ここで今回のテーマに関連する参考記事として、に日経ビジネスオンラインの記事を引用・紹介します。
「自力で生活できない人を政府が助ける必要はない」が約4割
1つは、日本では「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と考える人が世界中で最も多くなっている点である(出典:「What theWorld Thinks in 2007」The Pew Global Attitudes Project)。
「助けてあげる必要はない」と答えた人の割合は日本が38%で、世界中で断トツである。第2位はアメリカで28%。アメリカは毎年多数の移民が流入する多民族、多文化の国家であり、
自由と自己責任の原則を社会運営の基軸に置いている。この比率が高くなるのは自然なことだ。そのアメリカよりも、日本は10%も高いのである。
日米以外の国におけるこの値は、どこも8%~10%くらいである。イギリスでもフランスでもドイツでも、中国でもインドでもブラジルでも同様で、
洋の東西、南北を問わない。経済水準が高かろうが低かろうが、文化や宗教や政治体制がいかようであろうが、大きな差はない。
つまり“人”が社会を営む中で、自分の力だけでは生活することすらできない人を見捨てるべきではない、助けてあげなければならないと感じる人が9割くらいいるのが“人間社会の相場”なのである。
にもかかわらず日本では、助けてあげる必要はないと判断する人の割合が約4割にも達している。日本は、“人の心”か“社会の仕組み”かのどちらかが明らかに健全/正常ではないと言わざるを得ない。
この場合、政治の制度や仕組みと比べて人の心はずっと普遍的であるはずなので、問題は日本の政治の仕組みや政策にあると考えるのが妥当である。
言い換えるなら、人の心をここまで荒んだものにしてしまうほどに、現行の日本の政策や制度は正しくないということになる。
引用元URL ⇒ 日経ビジネスオンライン
「問題は日本の政治の仕組みや政策にあると考えるのが妥当である。」と上の引用記事に書かれていますが、庶民もまた「空気」を気にして、「現場を本気で変えようとしない」という下部構造を作っているんですね。 上下共にそれが体質化しているのが日本社会です。
まぁしかし「日本はもっとも成功した社会主義国」ともいわれたように、「欧米型資本主義」の方が過酷で弱肉強食な一面だってあるわけです。
他の国にしても、その社会が抱えている暴力や不条理は多元的な形で存在し、視点を変えれば日本よりも強い負の作用が働いているということを見出せます。
なのである視点だけをもってして「この国・社会はこうだ」と断定することはできません。一つの視点で全否定するのではなく、そういう一面があるということであり、特定の条件の範囲において見出せるものなんですね。
特定の条件の範囲において「変わらない、変われない」根本的な原因はあると思います。このテーマに関連する内容で、社会学・精神医学・社会学社会心理学的に考察した記事を以下に紹介します。
◇ 「機能不全社会」での「パーソナリティ障害」を生む「自我意識」の形成とそのタイプ
◇ 「原因」の外的・内的帰属のバイアス 「原因帰属のエラー」
コメント