昨日は「遺伝」的なことを少し書きましたが、今日もそれに少し絡んだ話です。今日は「他の生き物を殺生すること」「生きるために殺し食べるということ」と、「人間の罪悪感と共感性」がテーマです。
もう随分と過去に、あるラジオ番組でこんな読者からのハガキが読まれていました。それは、ある家の「気の優しい主人」が、家に入ってきた虫を見つけて、「虫さんにも命がある」と思い、虫を殺さずに窓から逃がしてあげたところ、
それを見ていた妻から「そんなんだからあなたは出世出来ないのよ!」と本気で怒鳴りつけられた、という内容のハガキでした。(笑)
何故そんな昔のラジオ番組のハガキの内容を紹介したかというと、これは、「自我と現代社会と成功の関係」を良く表している内容だなぁと、その時に思ったからです。以下のような研究結果も報告されています。
とはいえ、それが絶対か?といえばそうでもないわけです。現在は社会も少しずつ変わりつつあります。しかし昔は特に「暴力性」に関しては現在よりもずっと肯定されていましたね、特に男は。
このブログでは心・精神の病に関連する情報以外にも、自己実現や癒しなど、様々な方向性での記事を書いていますが、先のラジオ番組のハガキの内容にあるような、「分離的な自我の肥大= 一般的な成功・出世の道」とは真逆、あるいは異なる方向性のものなので、
そういう旧来の成功・出世の道を考えている方には役に立たないかもしれません。
「食」に限らず、「大切なものを奪い合う一面がある弱肉強食の社会」で成功したいのであれば、あまりに繊細で優しいだけでは、飛び抜けた才能の持ち主以外は、成功は難しい場合が多いでしょう。
ただ、成功や幸福は、「知能・力」+「非情さ/鈍感さ」によって得られる「分離的な自我の肥大 = 一般的な成功・出世の道」もあれば、そうではない成功や幸福もあります。このブログで後者の成功や幸福の道のほうにウエイトを置いています。
「人間の罪悪感と共感性」について、今回は「殺生」を軸にして考察していますが、このテーマは昔(十代の頃)に真剣に考えてみたことがあります。
キッカケは何かというと、私は子供の頃から生き物を殺すことが何故か嫌で、逆に両親は平気で虫を殺し、魚釣りも好きでガンガン釣るタイプだったのですが、そのときの違和感が、十代の頃に私がこのテーマを考えるようになったキッカケでした。
私の両親は無宗教で家に仏壇も神棚もないし、宗教の話など一切しません。しかも両親は生き物の殺生は平気で、むしろ私に積極的にそれを推奨さえしていたんですね。
「殺生」を罪悪と感じる、感じない、というのは個人差があります。この「殺生」という意味は、人間(ペットも含む)以外の生き物全般に関するものです。
そして両親は元々子供の頃から釣りが好きだったようです。また両親は家に入ってきた虫はスグに叩き潰して殺しますが、私は幼い頃からそれが嫌で、小学校低学年までは頑として殺さなかったのですが、
徐々に「不快な害虫とされているような虫」に限り、親に見習って殺し始めましたが、(中学前後~高校前後くらいまで)それも徐々に嫌になり、それ以後は、現在に至るまで、虫を意識して殺すことはなくなったのです。(誤って踏んだなどは当然ありますが。)
しかし、家系を祖父の代までたどっても、「殺生に罪悪感を感じる」というような遺伝的な要素も特に見当たりません。
つまり私は遺伝的なものでもなく、また後天的にも、アニミズムとか如来蔵思想なんて教えられておらず、文化的なミームの影響を受ける以前から、「生き物を殺すことが何故か嫌だった」わけです。
この「嫌だった」という感覚は、私の場合は「罪悪感」が優位ではなく、あるいは何かの「宗教・観念」の動機づけとか固執とかではなくて、生き物に対する「生命の繋がり」の感覚・感性がとても強かったんですね。
それは小学生以前からそうで、結局その後も本質は変わらなかったのです。なのでここには「観念」や「罪悪感」以外にももっと別の要因があると考えます。
2015/07/24 更新
二十代の頃に5年ほどほぼ完全な菜食主義だった時期があります。その時期はヨガを本格的に始めた時期であったので、この菜食主義の実践は「罪悪感」によるものではなくて、瞑想上の理由によるものです。
現在は菜食主義ではなく、付き合いなどの場合は基本的に出たものは何でも食べ、個人では「体の自然な感覚と必要性」に応じて食べています。「絶対こうするべき」とか決めていません。
「食べ物に感謝し、ありがたく命をいただく精神」で十分だと考えていますが、基本的に肉はあまり多くは食べません。(魚は多少食べています。)また肉を沢山食べている人を悪だとか思いません。そして漁業や屠殺を悪だとか、そういうことも全く思ってはいません。
それは人々の食の欲求とニーズがベースにあって行っている生業であり、それらの人々はただその仕事上の直接的な実行者に過ぎないからです。
人間の罪悪感と共感性
野生の動物たちが自然界で行っている行為というのは、多くは原始時代の人間も行っていたことであります。ですが、「自然の営み」であれば動物と人間は何でも同次元で認められるのか?
そして「野生動物の自然の営み」は「他の生き物の殺生」だけではありません。「殺生・強姦・子殺し・共食い・強盗・場所を選ばない糞尿の垂れ流し・力ずくの縄張り確保」など、これらの行為も野生動物たちは法や道徳・良心に縛られることなく「自然の営み」として行っているわけですね。
イルカでさえも、集団でメスのイルカを強姦して死に至らしめることが観察されています。チンパンジーは共食いしますし、子殺しの習性さえ持っています。動物に認められている行為を実際にそのまま人間がやって、どれだけの人がそれを「うん、自然でいいね!」と思えるでしょうか。
「動物は他の生き物に寄生したり、利用して生きているし、殺すことに抵抗感を抱いたり、苦痛への共感もないではないか、何故人間がそうして悪いのか」と言うのであれば、
そして動物と人間を本当に同次元に置いて行為するならば、鬼畜・ケダモノ・サイコパス・悪魔としか言われないでしょうし、猟奇殺人者や常習的犯罪者だけが認める世界観になるでしょう。
世界の規模で見れば文化的な差異はあるとはいっても、猫殺しや犬殺しに「かわいそう」と感じる人間の気持ちが絶対的に不自然で100%偽善だと言うのであれば、「他の生命存在を労わる気持ちも共感性もないサイコパスや猟奇殺人者」の方が「正直で自然な問題ない行為」となります。
とはいっても、動物愛護も行き過ぎればそれはそれで異様というか暴力的ですらあります。
まぁけっきょく、「過ぎたるは及ばざるがごとし」であり、理想は無限でも、神でも仏様でない「人間という生き物」にとっての現実は有限であり、それを無視して無理すると反転してしまう、ということでしょう。
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