自己肯定感と自己愛の違い  自我の脆さと「役割」への同化

 

今日は、「自己愛」の補足記事として「自己肯定感と自己愛の違い」をテーマを筆頭に、その他の関連テーマとして「自我形成不全のまま成人した大人」や「自我の脆さ」と「役割への同化」が生む負の作用を考察しています。

 

「存在の肯定」が失われているとき、人は自己愛でそれを穴埋めする傾向に向かいます。ですが、幼児的な自己愛自己肯定感へと移行できなかった背景には親の接し方や教育が深くかかわっています。 先天性の機能不全在る場合は除きます

自己肯定感は自己愛と異なります。自己肯定感のある人は、自身の正も負も含めて全体として受け入れ、そのままで在れる。

 

自己愛は自他の比較意識で虚勢を張り肯定的な要素だけを前面に出し、否定的な部分は隠したがります。これが言い訳や嘘にもつながるわけですが、それが通用しない時には自己否定の状態になるわけですね。

元々現代の競争社会は、「自己商品化」的な自己アピールをしつつ、生き残るための勝ち負け合戦を過剰に意識させる社会です。そうなるとどうしても自己愛的な自我運動が刺激されやすく、自我の未熟な人ほどさらに自己愛を強化して自我を防衛する傾向を高めやすいでしょう。

社会自体が肯定感を高める作用よりも、むしろそれを奪う作用の方が強いため、特に「自己愛的な状態のまま成人した人」は、ますます自己愛でその不足を穴埋めするしかないような状態に向かいやすくなります。

 

傾向としては、現代の個人主義社会は自己肯定感よりも、むしろ自己愛が優位で支えられています。既に社会的下地があるわけですね。こうやって未熟な個人主義社会が出来上がります。

「その社会に生きる相対的に上位の支配的な自我意識」から投影される弱肉強食の心理的な圧力と、物理的・システム的な圧力を受けて、自信・安定を得られないまま生きている人が、自己愛を強化することで自我を支えようとするということですね。

ネガティブな形式であれ、これもまた、環境適応のための自己防衛のひとつともいえるでしょう。

人は様々な個性と可能性を潜在的に有してはいます。「人は絶対こうあらねばならない」「絶対こうでなければ人生は上手くいかない」なんていう価値基準や人生の選択肢など、本来変わる、変えられる質のものなんですね。

そして出来ることなら「みなが生かされる社会」の方が、「一部の人間だけが生かされる社会」や「一部の上の人間が多くの下の人々を抑圧している社会」よりもよいでしょう。

ですがそうなるには、人が内外に調和し、個としてだけはなく全体に還元出来ている状態でなければ、結局誰かに負担が行くだけでしょう。「負担の押しつけあい」では、ただの夢物語・机上の空論のままでしょう。

ここでアメリカの「価値相対主義」に関する記事の引用・紹介です。善悪二元論の観念強かったアメリカも少しずつ変わっていってるのですね。

『ドラえもん』のアメリカ進出に30年かかった理由とは? より引用抜粋

ニューズウィーク日本版 2014年05月22日(木)11時15分

(前略)

 では、今回どうしてその『ドラえもん』は許容されるようになったのでしょうか?まず価値観の多様化、あるいは価値相対主義というものが、アメリカのカルチャーを大きく変えたということがあります。

要因としては、9・11からイラク戦争へという時代の中で、アメリカ人自身が善悪二元論の限界にようやく気づいたこと、更に善悪二元論では飽き足らない団塊二世が社会の中核を担い始めたということ、

グローバリズムや移民によってヨーロッパやアジアのカルチャーの影響が濃くなったことなどが挙げられるでしょう。

教育の問題でも、従来はアメリカの小中学生に対しては「原則は放任して、顕著な才能があれば引き上げる」という「のんびり」した姿勢であったのが変化してきています。

大学受験が過熱する中で、学校の宿題の量は増えるし、親からのプレッシャーも高くなる、つまりアジア的になってきたということが言えます。

これに加えて、「いじめ問題」がアジアなどに遅れてアメリカの子供たちの間でも深刻になってきました。従来は「高校で体育会のエリートが威張る」という種類の比較的に限定的であった「いじめ」が、

SNS利用の低年齢化などもあって、中学生から小学生にも広がっているのです。そうした中で、いつの間にかアメリカの子供社会において『ドラえもん』の世界観は、何の違和感もないことになりました。

また団塊二世より更に若い層を含む、今のアメリカの親たちも、往年の「善悪二元論」によるクラシックな子供向けコンテンツでは飽きたらず、様々な「価値相対主義」や「多元的な価値観」を持った表現を子供に与えたがるようになっています。      – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ ニューズウィーク日本版

まぁ、アメリカも以下に紹介のリンク先の記事のような過剰な学歴社会、知能至上主義的な、それ一辺倒な在り方への疑問を抱く人が増えてきたのでしょうね。 ⇒ 日本顔負け。アメリカの「超学歴社会」 アメリカは学歴による「階級社会」の国

 

自我発達の障害(自我の形成不全)のまま成人した大人

 

成功するには鈍感な方がいいとか非情な方がいいとか、たまに耳にします。確かにそれは一理ありますが、単に今の社会の構造が弱肉強食の競争社会だからそうなりやすい、というだけですね。

後、最近メディアでサイコパスとか言われている人等(K被告など)は、ただの自己愛性じれが殆どで、「自我の形成不のまま成人した大人」の一種と考えられ、

発達心理学の概念で考えれば、児童期~成人期まで発達課題を失敗したことによる、【獲得されなかった時の否定的態度】と悪意とが結びついた逆恨みパターンであり、「無自覚な劣等コンプレックス」の塊、ともいえるでしょう。

自我が全く成熟してい状態のため、「劣等コンプレックス」を自覚することさえ出来ていません。なので、本人には自覚がないわけです。こういうタイプは昔からそこそこいます。手段が現代的になったから特殊に見える、というだけ。

 

エリクソン 発達心理学  ライフ・サイクル理論

【発達ステージ】ー【発達課題】ー【成功・失敗】

【発達段階】にはプラスの面だけでなくマイナスの面があり、各「発達課題」においてダイナミックな内外のバランス関係から「自我の危機」が生じるとエリクソンは考えた。

成功・失敗ー「獲得された時の肯定的態度」と「獲得されなかった時の否定的態度】そして、プラスがマイナスを上回って危機を乗り越えたときに人格的活力が生まれると観察しました。それが表での「獲得」であり、そして危機を乗り越えるのが上手くいかなかった場合が表での「失敗」です。 

● 年齢● 発達ステージ● 発達課題● 獲得● 失敗
(誕生~1歳頃)乳児期信頼 VS.不信 希望引きこもり
(2 ~4歳頃) 歩行期自律 VS.恥 ・ 疑惑 意志力強迫
(5 ~7歳頃) 学童前期積極性 VS.罪悪感目的意識制止
(8 ~12歳頃)学童中期
勤勉性 VS.劣等感自己効力感不活発
(13 ~22歳頃) 思春期
青年期前期
集団同一性 VS.疎外集団への帰属感役割拒否
(23 ~34歳頃)青年期後期
成人期
親密性 VS.孤立 幸福・愛排他性
(35 ~60歳頃)中年期
壮年期
生殖性 VS.停滞 世話拒否性
(61歳 ~ ) 老年期統合 VS.絶望叡智の体現侮蔑

 

ですが「本物のサイコパス」はあんなものではなく、もっと自我が強く非情。なんせ「捕食者」と呼ばれるわけですから。通常の人を食い殺す力があるわけですよ。

あらゆる面で誰からも相手にされないのけ者的存在であったK被告のようなタイプは「無自覚な劣等コンプレックス」が解放されないまま「自我ののまま成長し、客観性も共感性も成熟させることが出来なかった「未熟児のような大人」です。

いうなれば、「捕食される弱者側」にすら虐げられ相手にされないほど無価値化された希薄な存在です。サイコパスとは異なり相当に無力な存在です。

 

自我の脆さと「役割」への同化

「その人が相対的にどう生かされるか」は、その社会・時代での価値基準と需要と供給・システムに条件づけられるものに過ぎないのです。それを人生の成功法則だの人生の失敗だの言って「人の生」の全てだと思い込まされているだけです。

「そういう社会の傾向・仕組みがある」だから「それに適した人」が求められる、あるいは上位・優位になるというだけであり、

これは職種によっても求められるタイプは異なり、例えば戦地で敵を一人殺すだけでノイローゼになるような人が兵士には不適切であるとされるように、サムライの時代でもそれはそうだったでしょう。

むしろ過酷な戦地で何人死のうが何人殺そうが、平静・冷静に対応でき、確実に任務を遂行できるような人の方が兵士・サムライとして求められる資質でしょう。

もちろんそういう人ばかりでもダメで、いろんな役割の性格・能力のタイプが同時に社会には必要なわけですが。

 

人は教育次第で様々な人格になれてしまうものなのですが、とはいっても「役割性格」というものは社会の要請だけでなく、ヒトの先天的な気質とも相互作用しているので個体差はあります。

無理に強制・区分けされない環境下では、様々な個の気質・タイプ・能力が「社会やコミュニティー」の必要性に応じて、適正に合うものとして無意識的に条件付けられ振り分けられる方向に自然に流れていくわけです。

ですが、アメリカ・スタンフォード大学心理学部で、心理学者フィリップ・ジンバルドー氏の指導の下に行われた心理実験「スタンフォード監獄実験」では、

刑務所を舞台にして、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明された、とのことです。

この有名な心理実験は、現在は科学的信憑性が十分とはいえないと疑問や批判が投げかけられています。(追加更新で以下に外部サイト記事を紹介)

 

「心理実験に疑いの目」 より引用抜粋

今まで有名になった心理実験に疑いの目がかけられている。しかし我々の生き方の一端を示しているのも間違いない。

イラクにアメリカが攻撃をしかけた後、間もなくバグダッドの広場で人々が銅像を引き倒すシーンをテレビで見たと思うが、このような光景を最近は心理学で見るようになった。

最近、専門家と報道関係者が有名な心理学実験3つを引き倒そうとしている。先ずスタンフォード大学が行った刑務所実験が矢面に立ち、ここでは刑務所看守に扮した学生が、囚人に扮した学生をどう扱うかを実験をした。

しかし看守の学生が囚人に対してあまりに過酷になり、途中で実験を中止せざるを得なかったいう衝撃的実験だった。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 心理実験に疑いの目

これを別名「ルシファー効果」ともいい、極普通の人でも、条件がそろったとき、その素質に関わりなくおかれている状況や、環境、集団心理によって簡単に善人から悪人へと変貌する可能性がある、とのことですが、

この実験自体の信憑性には疑義があるということです。そしてこれとよく似たものに、有名な「ミルグラム実験」があり、別名アイヒマン実験ともいわれ、「閉鎖的状況において権威者の指示に従う人間心理」に関する実験で、「ミルグラム実験」は再現性が確認されているようです。

スクールカースト・ママカースト 「格付け」によるマウント意識

ルシファー効果や「権威者への服従」とは少し異なりますが、スクールカーストでのイジメなどもそうですね、

集団内で無意識的な立場の境界設定を行い、その順位・序列に合わせた振る舞いをするうちに条件付けられイメージが固定化され、やがてその基準が役割化・人格化していく、というような流れがありますね。

そして、下位とか上位とか、勝手に作った仮想階級意識で、下をイジメ始めるという現実的な流れが発生します。子供たちに起きるこの現象は、親・大人たちのしていることの「転写」なんですね。

「権力的で闘争的な自我意識に支配された組織」でのパワハラ・イジメもそうだし、「ママカースト」も「格付けによるマウント意識」が背景にあります。

 

それは、仮想の「格付け」を生み出したその集団内の一部の者たちの「不調和で分離性の強い肥大化した自我意識」が、外側・周囲に強く投影され、

それがキッカケとなって周囲に感染し引き起こされ、下はそれに巻き込まれているのです。「それに従うしかない場合」と「それと似た要素があるからそうなる場合」がありますが、そういうものに同調しない人がその中で一番心が成熟し調和しているといえます。

ですが、単に「周囲に同調することが調和・秩序だ」と考えるような人は、「そういうものに同調しない人」を「調和・秩序を乱している」かのように悪意的にラベリングし「批判のターゲットにする」ということもよくあることです。

仮想の「格付け」を生み出したその集団内の一部の者たちは、常に「人との比較」ばかりして「どちらが優位か」を過剰に意識していて、「その場を支配したい」という闘争心・自己愛が強く、「心の空虚な状態」であり、

本質的に「集団の上位」どころか、「他者との比較だけでしか自分自身の心が満たせないような、貧しい心」なんですが、現代社会自体が、そういう「自己愛的な闘争性と不調和」を強化する作用を意識に与え、人の心に「底意地の悪さや劣等感や空虚さ」を生じさいる原動力になっているのもまた事実なんですね。

現代社会 排斥・疎外とその結果

「肩書き・地位・身分・階級・役割・立場」などによる区分けと格付が、人を悪意に満ちた言動に導く心理、その否定的な作用を最大化している姿を、例えば北朝鮮の無慈悲な圧制や、インドのカースト制などの無残・残酷な行為に見ることが出来ます。

先に書いたように、ヒトは置かれている環境や地位によって「自ら取る行動」が変っていく、変わりやすい、という事です。(それが作為的に作られた環境であってもです。)

これを心・精神の病・バランス異常を持つ人達に当てはめた場合、 ネガティブな視点を持つ社会的反応・態度・環境が、心・精神の病・バランス異常を持つ人々の考え方をさらにネガティブにするという「負の作用」になるのですね。

「虐げられる役割のイメージ」と無意識的に同化してしまい、本当に抜け出せなくなるのです。これは前回書いた「ラベリング効果の否定作用」とも重なります。

そして人がまだ自然の中に共にあった原始社会では、「自然に生じた不規則さ、差異」は全てそのまま表現されていたでしょう。

そこに人為的な社会システムがカッチリと形成され、万人一律の基準が課されるようになると、先天的な個性後天的な社会環境のカップリングが全く噛み合わないようなエラーが生じやすくなります。

最近起きた「AKB48テロ」の事件も、気質・気性・基本性格と社会環境・出来事の複合的な噛み合わせが否定的に心理作用し、自我の成長と安定化に失敗した時に起こる現象の一例ともいえるでしょう。

以下に紹介のリンク先の記事の考察・視点はとても鋭いと感じますね。⇒ AKB48テロで考える「無敵の人」の行き先

なので自分が何に向いているかは、早いうちにある程度把握していた方が良いと思います。そしてそれを肯定的に伸ばしていく多様性のある理解多角的な視野・環境教育が社会にもっと必要でしょう。

気質・気性・基本性格に全く合わない領域で頑張ってしまったり、環境の否定作用・不調和によって「自我の形成不全」が生じていると、そのままでは上手く自己実現できないからです。

また「自己実現出来ても、調和的な自己統合状態でない場合」、内的なヒズミが生じやすく、何かのキッカケで一気にバランスを見失うこともあるでしょう。

コメント

  1. ノムラマサカツ より:

    この自己愛が或いは肥大化し、帰国後の社会より受け入れられ辛い事から?無自覚な劣等コンプレックスと結び付き、自己愛を拗らせてる?姿は自分にも見受けられます。

    そして、ルシファー効果的な作用が強く観られる?感じる事が出来る社会と世間に対し強く違和感を感じ、(特に、格付けによるルシファー効果に)強烈に反抗を繰り返すようになって行き、更に抗う為の理論武装の御託を並べ立て?、、チュウニビョウの末期症状により家庭すら壊してしまいました。

    僕が最も抗ったのは、格付けによるルシファー効果、、、『「そういうものに同調しない人」を、「調和、秩序を乱す人」として、悪意のラベリングを張ってくる。』様な人と、その格付けの為の?ポジション争いへの過当競争への参加に対しての同調圧力、だったと、気が付かされます。
    つまり、そう言った、管理姿勢に対し、激しく、常に、同調拒否を行い、敢えてKYな発言と態度に出る様に成った。
         ≪タフの全能≫
    》http://hutoukou2ch.web.fc2.com/ijime10.html
     加えて、このタフの全能に寄る、虐められっこが、格付けによるルシファー効果の格付けが上がる事に寄り、いじめっ子になる様なタフの全能の構図 と、その為の競争を敢えて企業側が煽る様な構図を、敢えて、無視する?競争に参加しない様な、事に寧ろ美意識を感じてさえ居た気がします。

     その中で、配偶者と、その周辺が、格付けルシファー効果に寄るタフの全能を、最悪の手の込んだ手法に出た事に寄り、かなり大きく、自分の、或いは?自己愛に?大きくヒヅミが生じ、悪循環を繰り返した事に
    気が付けます。

  2. ノムラマサカツ より:

    つまりは、自分の自己肯定感、が、アヤフヤであった、と、言わざる終えないのですが、格付けによるルシファー効果に、或いは、その格付けポジションの過当競争に、参加する事を拒否する思考が出来たのは、それでも、それなりに、自分の経験に根ざした 弱 く は な い モノであったからだと思います。

     しかし、 そ れ に、問題を感じた の、で、在ろう 元配偶者(と、その親族を始め友人)が、 そ れ を、 怖 そ う として行った事に寄り、、、つまりそれも、或いはタフの全能の構図と、言えるが、其れに寄り、自己肯定感は、揺らぎ、偏狭な、自己愛の為の?
    引き籠もり的な?闘争を開始することになった事が、解ります。

  3. ノムラマサカツ より:

    怖そうとして → ×

    壊そうとして → ○

  4. ノムラマサカツ より:

    それに、抗った事。同調しなかった事は、寧ろ誇ってよいのかもしれない。

    『 ル シ フ ァ ー 効 果 』と言うのは、いわば何度か挙げてる『凡庸な悪』の構図であり、映画『エス』や、『エクスプリメント』に、見て取れる様な構図であり、同調圧力の強い空間に於いて発生してしまう構図な訳だけども、、、其れを利用する様な管理手法を、日本社会は、取っている事に気が付く。

    そして、虐められっこが虐めっ子に変わる精神性の構図とも合わさる構図とも言える『 タ フ の 全 能 』の構図と合わさり連鎖する。

    『彼らは、自分を痛めつけた嗜虚者が「タフ」の美学を教えてくれたというふうに体験加工する代わりに、「タフ」になれない「情けない」者には「むかつい」てしまい、攻撃せざるをえない。たとえ「情けない」という印象を与えなくとも、「タフ」の美学=倫理を「かかわりあい」のなかで「みんなとともに」生きない者は「まじわらない」「悪い」「むかつく」者とみなされ、いじめの対象となる。
    集団生活のなかで「タフ」がしみついた者は、不幸の平等主義に対する違反には敏感になる。苦労して「タフ」になってきた者は、苦労をともにしあうことなく世間に対してうまく自他境界を引くことに成功して幸福そうに見える者を目の当たりにしただけで、被害感と憎悪でいっぱいになる。そしてチャンスがあれば、痛めつけてやろうと思う。学校の集団生活は、「苦労をして意地が悪くなった」者たちに、そのようなチャンスをふんだんに与える。』

    表題で、誇ってよいかも知れない、と、書いたが、、、この『タフの全能』の構図を、日常的に自分の周辺(配偶者やその親族や友人?)等から受ける事に寄り、自分の中の自己肯定感が揺らぎ、しかし抗い引き籠もり?的な手段しか出来なかったのは、自分の弱さ、、、自己肯定感の弱さ故だろう。

    しかし、なぜ、元配偶者とその周辺は、その様な手法に出たのか?

    其処に見えるのも、或いは『タフの全能』の、構図で在ると気が付ける。
     =洗脳 でも、ある。

  5. ノムラマサカツ より:

    元配偶者が、求めたモノは何だったのだろうか?

    其れは、当たり前、普通、と、行った至極真っ当なモノだったとも気が付く。(けして過剰な贅沢を求める人ではなかった。)

         ≪ 大衆消費社会 ≫
    》http://ha1.seikyou.ne.jp/home/yus/ecolab/popcon.html
    生産性上昇→労働強化→賃金上昇による見返り→生活水準の上昇→需要増加→更なる生産性上昇

    しかし、この現状の大衆消費社会に於いて、そのスパイラルに於いて、途中参加する事に成った自分には、そのスパイラルの中の『労働強化』の為の管理手法として、明文化されない不文律がまかり通る様な構図(賞と罰を明確化 せ ず 、権利と義務を明確化 せ ず 、つまりはサービス残業及び、労働ノウハウなどに対しても時間外の学習等を強いる様な在り方を始め、サービス残業等、信賞必罰に基づく法治に反する管理手法の構図)に、対して、 初 め か ら 違和感があり、、、

    其れが、元配偶者側が仕組んだと、 考 え ら れ る 『 タ フ の 全 能 』に基づく、最悪の嫌がらせ?自分の考え得る最高の善意を踏みにじる様なやり方に寄っての自分を支えていた 自 己 肯 定 感 への攻撃により、対立が明確化し、当たり前?的な タ フ の 全 能 的な在り方と、それを支える『格付けによるルシファー効果』に対し、抗う様に成っていく訳だが、、、

    其れをさせたのは、自分の考え方が、大衆消費社会の構図に参加せず、『生活水準の上昇→需要増加』に、対して、或いは、自己選択による限定を事細かに行っていけば、或いは、其れで良いのでは?と、行った考え方?捉え方で、在った事に、在ったのだと、気が付く。

    しかし、自己肯定感を傷つけられた?また其れを回復させる事が出来なかった自分は、自己愛が肥大化し『無自覚の劣等コンプレックス』の塊として、逆に、其れまで以上に『格付けによるルシファー効果』と、『タフの全能の構図』に、激しく抗う様に成っていく。

    また、パラドックス、ジレンマを抱えるようになっていく。

    成っていったのだと気が付けます。

    また、そう言った『同調圧力』の、全てを敵視する事で、様々な、弊害をモタラす様に成って行った事にも気が付けます。

  6. ノムラマサカツ より:

    自分が抱え込むことになったジレンマ、パラドックスとは、、、

     タ フ の 全 能 を耐えることで得た『格付けによるルシファー効果』に順応できる元配偶者側の、 社 会 性 と、呼ばれるモノと、、、自分に在ったが、攻撃により大きく損なわれた 自 己 肯 定 感 の、変質した自己愛の拗れとの対立で在り、、、
    『彼らは、自分を痛めつけた嗜虚者が「タフ」の美学を教えてくれたというふうに体験加工する代わりに、「タフ」になれない「情けない」者には「むかつい」てしまい、攻撃せざるをえない。』

    また、、、その構図の中に於ける、、、ムカつく者と、ムカつかれる者の、対立でもあり、、、
    『「みんなとともに」生きない者は「まじわらない」「悪い」「むかつく」者とみなされ、いじめの対象となる。
    集団生活のなかで「タフ」がしみついた者は、不幸の平等主義に対する違反には敏感になる。苦労して「タフ」になってきた者は、苦労をともにしあうことなく世間に対してうまく自他境界を引くことに成功して幸福そうに見える者を目の当たりにしただけで、被害感と憎悪でいっぱいになる。』

    学習性無力感からくる、抵抗?と、認識を改めてくれるかも知れないと言った希望であり、、、
         ≪ 学習性無力感 ≫
    》http://health.goo.ne.jp/mental/yougo/017.html
     米国の心理学者であるセリグマンが、1967年に提唱した心理学理論。長期間、回避不能な嫌悪刺激にさらされ続けると、その刺激から逃れようとする自発的な行動が起こらなくなること

    与えられた生活プランと、位置から自分で納得し選択し汲み上げたいと言った欲求との対立で在り、、、
    382≫そして、押しつけられた、と、過剰に書いたが、その事自体は恵まれてると感じたし感謝もした。
    389≫そして、それを言わば「ステータスシンボル」として、利用した?悦に入った自分も存在している。(またその事をさもしく浅ましいと感じてもいた。)

    愛情と、憎しみの、対立で在った、と、気が付ける。

  7. ノムラマサカツ より:

    そのパラドックス、ジレンマ、矛盾の対立の中で、、、

    『タフの全能』或いは『格付けによるルシファー効果』、、、
    つまりは、「そういうものに同調しない人」を、「調和、秩序を乱す人」として、悪意のラベリングを張ってくる。』様な人と、その格付けの為の?ポジション争いへの 過 当 競 争 への参加に対しての 同 調 圧 力 、に、対して、社会との関わり、及び地域との関わり、親族との関わり、友人関係、そして家庭内ですら、、、その、対立が、顕在化し、引き返しの付かない事態へと進む中で、、、新型鬱のスパイラルと近い状態が自分に起こり、益々、深刻化する。

    301≫ググタスへ(mixiあたりから?)つづってきた自身の言葉達の全てがが、ルサンチマンをもとめるで、あり、、、
     或いは、『「深く絶望した無気力化した存在」の内奥からの拒絶反応』で、在ったのだとも気が付かされる。
    317≫高効率で回すために、は、まとも が、何なのか?と、言った、、、演繹方では導き出せない思考が蔑ろにされる。
     帰納法による、思考を、或いは、、、ロスと受け取り、 ま と も は、どうでも良いから?まわり続ける。
    308≫僕の公平な法治を求める考え方の裏にあるのは性悪説では無く、多様さの担保の為の、信賞必罰に基づく法治主義です。
     そして、その多様さの否定こそが、、、変化への対応の弊害となる。

    (先にコピペした、群生秩序的な管理、大和的な統治、に、対する長文はその中で作られたモノと言って良い。←なのでmさんの指摘、統合失調病患者は、的を得ているかも知れない。)

         ≪新型鬱の流れ≫
     →一体化、依存の場がない→自分にとっての人生の意味を想像できない→主体的な自己決定の喪失→ストレス→退行→内外の現実バランス異常→自己防衛→現実を受け入れない自己正当化の過剰な方向性→操的状態→多罰→自己の同一化に寄る攻撃性の内面化→自責、自己卑下→抑鬱状態

    この、流れに、近いモノを、確かに、自分の中に、見る事が、出来る。

    また、与えられた?生活プランと、それに伴う在り方は、其れまでの自分で汲み上げた、上げてきた、生活の在り方からは、遙かに高度で、快適と義務を、自分の理解を超えた処で、与えてくる物だった。

         ≪アパシーシンドローム≫
    》http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/basic/apathy001.html
     動物は第一に生存維持のために意欲的な行動を示すので、自発的に動かなければ餓死・困窮したり部族集団から排除されるような途上国的な環境では無気力になりにくいということがある。
         ≪ 学習性無力感 ≫
    》http://health.goo.ne.jp/mental/yougo/017.html
     米国の心理学者であるセリグマンが、1967年に提唱した心理学理論。長期間、回避不能な嫌悪刺激にさらされ続けると、その刺激から逃れようとする自発的な行動が起こらなくなること

    その中での、(学習性)無力感と、アパシーシンドローム的な無気力と、新型鬱に観られる様な悪循環のスパイラルに、陥っていく。

    382≫しかし問題を言えば、其れにより、自分の中で主体性が減少し、また元配偶者に対しての、同調圧力が強まる事に寄っての、共依存的(コントロールする様な)な性質が強くなっていった。と、言えるのでは無いだろうか?
     その中で、益々の主体性が損なわれる方向へと進む訳だが、その中で、、、自分の依存的性質と、元配偶者の共依存的な性質の強まりが、強化されていった気がする。
     その中で自分が自己判断が出来ない、しない、生き物へと?自分が落ちていく?或いは其れに伴い活力が失われていく。
     また、その中で、自分が、依存的な性質が、強くなっていく。
     主体性を持てなく成っていく?させられていく。
    344≫自分の変化?こそが、先ず先にある、そしてその変化の中で、執拗にインストールを受けていく事により、生命力?の、様なモノは奪われていき、去勢に近い状態へと落とされていく課程の中での抵抗として、の、ある種の、引き籠もり的な自分が居たのだろうと気が付ける。

    その中で、或いは、反抗する?ポジション?抗うポジションに?或いは自分のタチイチ的なモノを見出す事に成っていく。(ラベリング効果への否定作用も其処に重なる)
    》www.youtube.com/watch?v=X9tB2hByO20

    無気力、無力感と、そこへの反抗、そして悪循環は、、、新型鬱のスパイラルに観られる、、、主体的な自己決定の喪失→ストレス→退行→内外の現実バランス異常→自己防衛→現実を受け入れない自己正当化の過剰な方向性→操的状態→多罰→自己の同一化に寄る攻撃性の内面化→自責、自己卑下→抑鬱状態、、、と、合わさる。

         ≪契約についての問題≫
    》http://nakusou.zatunen.com/keiyaku.html
     難解な専門用語で組み立てられた長文をすべて理解するのは非常に面倒くさい作業ですが、契約書の重要性を認識しておきましょう。

    其れは或いは、高度化したサービスと、ソレラの様々な契約の精査の為の自分の思考が追いついて行かなくなってしまった事とも重なるかも知れない。

    まぁ~つまりは、カップリングの悪さ、其処から生じたエラー、、、疎外感と、ストレスが過剰に持ち上がった、と、言う事でしょうか。

    http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%83%BC

  8. ノムラマサカツ より:

    そのパラドックス、ジレンマ、矛盾の対立の中で、、、

    学習性無力感と、アパシーシンドローム的な無気力と、新型鬱に観られる様な悪循環のスパイラルに、陥り、、、
    (主体的な自己決定の喪失→ストレス→退行→内外の現実バランス異常→自己防衛→現実を受け入れない自己正当化の過剰な方向性→操的状態→多罰→自己の同一化に寄る攻撃性の内面化→自責、自己卑下→抑鬱状態)

    疎外感と、ストレスが過剰に持ち上がり、ルサンチマンが、益々強化される。
         ルサンチマン(ウィキより)
    ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」[1]である。
    ルサンチマンを持つ人は非常に受け身で、無力で、フラストレーションを溜めた状態にある。つまり、実際の行動をとるには社会的な制約があり、自身の無力を痛感している人である。そういう状態にあっては誰であっても、ルサンチマンを持つ状態に陥る。
    社会的に強者であれば、嫉妬や反感といった感情に主体的に行動することができるため、フラストレーションを克服することができ、そのため、仮にルサンチマンの状態に陥ったとしても、一時的なものでしかないとされる。
    反対に社会的な弱者はルサンチマンから逃れられない。フラストレーションをむしろ肯定し、何もできないことを正当化するようになる。社会的な価値観を否定したり、反転した解釈を行うようになる。こういった自分の陥っている状態を正当化しようとする願望こそ、奴隷精神の最大の特徴であるとする。

    加えて(或いはルサンチマンが発露されない事から?の諦め欲求不満により)、ニヒリズム(虚無主義)的な、失意、、、アパシーシンドローム、学習性無力感 的な、失意へと結び付き、、、

    しかし、それに抗う様に、全体主義的な虚無社会への、抵抗、、、

    『深く絶望した無気力な存在』への内奥からの拒絶反応が、、、

    或いは、『鬱』と、言った 逃げ場に、自分を導いた。

    ps,言葉を換え、ネタを変え、同じ様な事を、繰り返し、語っているという、認識はキチンと有ります。
    堂々巡りの中から、次に繋がる、自分を掘り起こしたく思う。
         ≪ルサンチマンと虚無社会≫
    http://hotrussianbabe.com/shinrigaku/archives/1786/#comment-1221

  9. ノムラマサカツ より:

     何が、間違って居たとかという事では、ぜんぜん無く、、、

     単純に、初めから、履き違えていただけだと気がつく。

     合わない生き方に合わせようとして、
     合わないモノを合わせようとして、

     向こうはガンバって、ヘトヘトに、成ったし、、、

     僕もガンバつて、病んでしまったし、、、

    ≫http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4400632.html?p=2
     僕は、クチャらーじゃ無いと思うけど?
     距離を取れなければ、不快に感じるしかない、、、
      『 価 値 観 』と、『 認 識 』
    は、在るね。

     要は、互いに、十年大変だった。
     合わない処で、孤立し、向き合って貰おうとする事も?
     合わない人を、無視し、合う様にし向けさせる事も?

     無駄な努力の、張り合いでした。

     このページの、最後の方で語られる「無敵の人」と、迄は行かなくとも、僕にもまた、無理した分だけ、モラルハザードな一面を見る事も出来るし、そうするしかない様な処、そうせざるをえない処まで追い詰められてもいた。(それ程、悪質かつ、執拗な手法を戦略的に繰り返されては居た。)

     そうせざるをえなかった元配偶者側のビジョンに対しての合わないパーツで自分が合ったという事で、合わせようとする焦り?強迫観念がそうさせた訳だ、ね。

     なんだか、、、くだらないなぁ~

     正直、良い迷惑だね。

     無駄な、十年間でした。

         ~了。

  10. ノムラマサカツ より:

    ps,自分に掛かってきていたバイアス、其れに対しての反抗からのバイアス、、、コレを、フラットにして(する為には毒づくことも必要でした。駄文をすみません。)其処から、ゼロから(其れが観念的である事は理解しつつ)始めよう。

     自分を、再生していきます。

  11. ノムラマサカツ より:

     僕に在った個人的なバイアス。
     それは世間に負けない、同化されない、されなかったのは、自己肯定感(の、様なもの?或いはそれを支えた自己認識)が、世間からの同調圧力に、も、負ける事なく、存在していたが、、、
     それ故に、世間?からのルシファー効果、タフの全能、同調圧力に寄っての管理姿勢に、交わらない、、、事による、社会、世間との関わり方に、焦りを感じた、元配偶者による、向き合う こ と で は な く 、自分の自己肯定感(の、様なもの)を、支えている自己認識への攻撃を、掛け、それにより同調させ、パーツさせようとした事により、、、
     ひどく絶望した内奥からの拒絶反応が、過剰な、反抗、、、を、繰り返し、やがて、それが、自己愛へとツナガり、そして引き返しの付かない対立へと、ツナガるわけだけど、、、

     しかし、、、それにより同調すれば良かったのか?と、は、矢張り未だに微塵に思えない。思う事が一切ない。

     それでも、フラッシュバックに寄り、操られた?過剰に反抗した、抗った、事、、、其処に矢張り反省するべき事が在る。

     また対立を生んだ、生む事になる有害なコントロールを、仕掛けたパーツ達に、自己思考、を、させるために、省みさせる事を、させる為には、なにが必要だったんだろう?

    と、未だに、この文面は、、、フラッシュバックの、影響は在る。

  12. ノムラマサカツ より:

     マインドフルネス瞑想、、、試みてます。

     少しづつでも、今、ここ、に、自分の意識を持っていこう。

     フラッシュバック からの、影響を、受け流していこう。

  13. ノムラマサカツ より:

    繰り返し、繰り返し、同じ事を、ぐるぐると、繰り返し、繰り返し、、、

    焦り、怒り、嫉妬?焦り、虚しさ、やるせなさ、馬鹿馬鹿しさ、怒り、悲しみ、嫉妬、自意識、論理?バイアス、気付き、空虚、他罰、自己肯定、自己卑下、後悔、他罰、怒り、、、、

    様々な、取り留めのない、繰り返し、繰り返し、、、疲れる。

    でも、少しづつ、、、前へ、

  14. ノムラマサカツ より:

    管理人様へ、、、

    自分を整理するために、コメント欄を占拠してしまいました。

    まことに申し訳ございません。

    ですが、だいぶ整理できてきました。

    と、之までのコメントは、このまま残して、立ち去ることにしますが、消していただいてもかまいません。

    大変に失礼したこと、お詫び申し上げます。

    また、様々な、、、ここにかかれている内容。大変に自分のためになりました。

    本当にありがとうございました。

    失礼いたします。

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