自己肯定感と自己愛の違い  自我の脆さと「役割」への同化

 

今日は、「自己愛」の補足記事として「自己肯定感と自己愛の違い」をテーマを筆頭に、その他の関連テーマとして「自我形成不全のまま成人した大人」や「自我の脆さ」と「役割への同化」が生む負の作用を考察しています。

 

「存在の肯定」が失われているとき、人は自己愛でそれを穴埋めする傾向に向かいます。ですが、幼児的な自己愛自己肯定感へと移行できなかった背景には親の接し方や教育が深くかかわっています。 先天性の機能不全在る場合は除きます

自己肯定感は自己愛と異なります。自己肯定感のある人は、自身の正も負も含めて全体として受け入れ、そのままで在れる。

 

自己愛は自他の比較意識で虚勢を張り肯定的な要素だけを前面に出し、否定的な部分は隠したがります。これが言い訳や嘘にもつながるわけですが、それが通用しない時には自己否定の状態になるわけですね。

元々現代の競争社会は、「自己商品化」的な自己アピールをしつつ、生き残るための勝ち負け合戦を過剰に意識させる社会です。そうなるとどうしても自己愛的な自我運動が刺激されやすく、自我の未熟な人ほどさらに自己愛を強化して自我を防衛する傾向を高めやすいでしょう。

社会自体が肯定感を高める作用よりも、むしろそれを奪う作用の方が強いため、特に「自己愛的な状態のまま成人した人」は、ますます自己愛でその不足を穴埋めするしかないような状態に向かいやすくなります。

 

傾向としては、現代の個人主義社会は自己肯定感よりも、むしろ自己愛が優位で支えられています。既に社会的下地があるわけですね。こうやって未熟な個人主義社会が出来上がります。

「その社会に生きる相対的に上位の支配的な自我意識」から投影される弱肉強食の心理的な圧力と、物理的・システム的な圧力を受けて、自信・安定を得られないまま生きている人が、自己愛を強化することで自我を支えようとするということですね。

ネガティブな形式であれ、これもまた、環境適応のための自己防衛のひとつともいえるでしょう。

人は様々な個性と可能性を潜在的に有してはいます。「人は絶対こうあらねばならない」「絶対こうでなければ人生は上手くいかない」なんていう価値基準や人生の選択肢など、本来変わる、変えられる質のものなんですね。

そして出来ることなら「みなが生かされる社会」の方が、「一部の人間だけが生かされる社会」や「一部の上の人間が多くの下の人々を抑圧している社会」よりもよいでしょう。

ですがそうなるには、人が内外に調和し、個としてだけはなく全体に還元出来ている状態でなければ、結局誰かに負担が行くだけでしょう。「負担の押しつけあい」では、ただの夢物語・机上の空論のままでしょう。

ここでアメリカの「価値相対主義」に関する記事の引用・紹介です。善悪二元論の観念強かったアメリカも少しずつ変わっていってるのですね。

『ドラえもん』のアメリカ進出に30年かかった理由とは? より引用抜粋

ニューズウィーク日本版 2014年05月22日(木)11時15分

(前略)

 では、今回どうしてその『ドラえもん』は許容されるようになったのでしょうか?まず価値観の多様化、あるいは価値相対主義というものが、アメリカのカルチャーを大きく変えたということがあります。

要因としては、9・11からイラク戦争へという時代の中で、アメリカ人自身が善悪二元論の限界にようやく気づいたこと、更に善悪二元論では飽き足らない団塊二世が社会の中核を担い始めたということ、

グローバリズムや移民によってヨーロッパやアジアのカルチャーの影響が濃くなったことなどが挙げられるでしょう。

教育の問題でも、従来はアメリカの小中学生に対しては「原則は放任して、顕著な才能があれば引き上げる」という「のんびり」した姿勢であったのが変化してきています。

大学受験が過熱する中で、学校の宿題の量は増えるし、親からのプレッシャーも高くなる、つまりアジア的になってきたということが言えます。

これに加えて、「いじめ問題」がアジアなどに遅れてアメリカの子供たちの間でも深刻になってきました。従来は「高校で体育会のエリートが威張る」という種類の比較的に限定的であった「いじめ」が、

SNS利用の低年齢化などもあって、中学生から小学生にも広がっているのです。そうした中で、いつの間にかアメリカの子供社会において『ドラえもん』の世界観は、何の違和感もないことになりました。

また団塊二世より更に若い層を含む、今のアメリカの親たちも、往年の「善悪二元論」によるクラシックな子供向けコンテンツでは飽きたらず、様々な「価値相対主義」や「多元的な価値観」を持った表現を子供に与えたがるようになっています。      – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ ニューズウィーク日本版

まぁ、アメリカも以下に紹介のリンク先の記事のような過剰な学歴社会、知能至上主義的な、それ一辺倒な在り方への疑問を抱く人が増えてきたのでしょうね。 ⇒ 日本顔負け。アメリカの「超学歴社会」 アメリカは学歴による「階級社会」の国

 

自我発達の障害(自我の形成不全)のまま成人した大人

 

成功するには鈍感な方がいいとか非情な方がいいとか、たまに耳にします。確かにそれは一理ありますが、単に今の社会の構造が弱肉強食の競争社会だからそうなりやすい、というだけですね。

後、最近メディアでサイコパスとか言われている人等(K被告など)は、ただの自己愛性じれが殆どで、「自我の形成不のまま成人した大人」の一種と考えられ、

発達心理学の概念で考えれば、児童期~成人期まで発達課題を失敗したことによる、【獲得されなかった時の否定的態度】と悪意とが結びついた逆恨みパターンであり、「無自覚な劣等コンプレックス」の塊、ともいえるでしょう。

自我が全く成熟してい状態のため、「劣等コンプレックス」を自覚することさえ出来ていません。なので、本人には自覚がないわけです。こういうタイプは昔からそこそこいます。手段が現代的になったから特殊に見える、というだけ。

 

エリクソン 発達心理学  ライフ・サイクル理論

【発達ステージ】ー【発達課題】ー【成功・失敗】

【発達段階】にはプラスの面だけでなくマイナスの面があり、各「発達課題」においてダイナミックな内外のバランス関係から「自我の危機」が生じるとエリクソンは考えた。

成功・失敗ー「獲得された時の肯定的態度」と「獲得されなかった時の否定的態度】そして、プラスがマイナスを上回って危機を乗り越えたときに人格的活力が生まれると観察しました。それが表での「獲得」であり、そして危機を乗り越えるのが上手くいかなかった場合が表での「失敗」です。 

● 年齢● 発達ステージ● 発達課題● 獲得● 失敗
(誕生~1歳頃)乳児期信頼 VS.不信 希望引きこもり
(2 ~4歳頃) 歩行期自律 VS.恥 ・ 疑惑 意志力強迫
(5 ~7歳頃) 学童前期積極性 VS.罪悪感目的意識制止
(8 ~12歳頃)学童中期
勤勉性 VS.劣等感自己効力感不活発
(13 ~22歳頃) 思春期
青年期前期
集団同一性 VS.疎外集団への帰属感役割拒否
(23 ~34歳頃)青年期後期
成人期
親密性 VS.孤立 幸福・愛排他性
(35 ~60歳頃)中年期
壮年期
生殖性 VS.停滞 世話拒否性
(61歳 ~ ) 老年期統合 VS.絶望叡智の体現侮蔑

 

ですが「本物のサイコパス」はあんなものではなく、もっと自我が強く非情。なんせ「捕食者」と呼ばれるわけですから。通常の人を食い殺す力があるわけですよ。

あらゆる面で誰からも相手にされないのけ者的存在であったK被告のようなタイプは「無自覚な劣等コンプレックス」が解放されないまま「自我ののまま成長し、客観性も共感性も成熟させることが出来なかった「未熟児のような大人」です。

いうなれば、「捕食される弱者側」にすら虐げられ相手にされないほど無価値化された希薄な存在です。サイコパスとは異なり相当に無力な存在です。

 

自我の脆さと「役割」への同化

「その人が相対的にどう生かされるか」は、その社会・時代での価値基準と需要と供給・システムに条件づけられるものに過ぎないのです。それを人生の成功法則だの人生の失敗だの言って「人の生」の全てだと思い込まされているだけです。

「そういう社会の傾向・仕組みがある」だから「それに適した人」が求められる、あるいは上位・優位になるというだけであり、

これは職種によっても求められるタイプは異なり、例えば戦地で敵を一人殺すだけでノイローゼになるような人が兵士には不適切であるとされるように、サムライの時代でもそれはそうだったでしょう。

むしろ過酷な戦地で何人死のうが何人殺そうが、平静・冷静に対応でき、確実に任務を遂行できるような人の方が兵士・サムライとして求められる資質でしょう。

もちろんそういう人ばかりでもダメで、いろんな役割の性格・能力のタイプが同時に社会には必要なわけですが。

 

人は教育次第で様々な人格になれてしまうものなのですが、とはいっても「役割性格」というものは社会の要請だけでなく、ヒトの先天的な気質とも相互作用しているので個体差はあります。

無理に強制・区分けされない環境下では、様々な個の気質・タイプ・能力が「社会やコミュニティー」の必要性に応じて、適正に合うものとして無意識的に条件付けられ振り分けられる方向に自然に流れていくわけです。

ですが、アメリカ・スタンフォード大学心理学部で、心理学者フィリップ・ジンバルドー氏の指導の下に行われた心理実験「スタンフォード監獄実験」では、

刑務所を舞台にして、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明された、とのことです。

この有名な心理実験は、現在は科学的信憑性が十分とはいえないと疑問や批判が投げかけられています。(追加更新で以下に外部サイト記事を紹介)

 

「心理実験に疑いの目」 より引用抜粋

今まで有名になった心理実験に疑いの目がかけられている。しかし我々の生き方の一端を示しているのも間違いない。

イラクにアメリカが攻撃をしかけた後、間もなくバグダッドの広場で人々が銅像を引き倒すシーンをテレビで見たと思うが、このような光景を最近は心理学で見るようになった。

最近、専門家と報道関係者が有名な心理学実験3つを引き倒そうとしている。先ずスタンフォード大学が行った刑務所実験が矢面に立ち、ここでは刑務所看守に扮した学生が、囚人に扮した学生をどう扱うかを実験をした。

しかし看守の学生が囚人に対してあまりに過酷になり、途中で実験を中止せざるを得なかったいう衝撃的実験だった。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 心理実験に疑いの目

これを別名「ルシファー効果」ともいい、極普通の人でも、条件がそろったとき、その素質に関わりなくおかれている状況や、環境、集団心理によって簡単に善人から悪人へと変貌する可能性がある、とのことですが、

この実験自体の信憑性には疑義があるということです。そしてこれとよく似たものに、有名な「ミルグラム実験」があり、別名アイヒマン実験ともいわれ、「閉鎖的状況において権威者の指示に従う人間心理」に関する実験で、「ミルグラム実験」は再現性が確認されているようです。

スクールカースト・ママカースト 「格付け」によるマウント意識

ルシファー効果や「権威者への服従」とは少し異なりますが、スクールカーストでのイジメなどもそうですね、

集団内で無意識的な立場の境界設定を行い、その順位・序列に合わせた振る舞いをするうちに条件付けられイメージが固定化され、やがてその基準が役割化・人格化していく、というような流れがありますね。

そして、下位とか上位とか、勝手に作った仮想階級意識で、下をイジメ始めるという現実的な流れが発生します。子供たちに起きるこの現象は、親・大人たちのしていることの「転写」なんですね。

「権力的で闘争的な自我意識に支配された組織」でのパワハラ・イジメもそうだし、「ママカースト」も「格付けによるマウント意識」が背景にあります。

 

それは、仮想の「格付け」を生み出したその集団内の一部の者たちの「不調和で分離性の強い肥大化した自我意識」が、外側・周囲に強く投影され、

それがキッカケとなって周囲に感染し引き起こされ、下はそれに巻き込まれているのです。「それに従うしかない場合」と「それと似た要素があるからそうなる場合」がありますが、そういうものに同調しない人がその中で一番心が成熟し調和しているといえます。

ですが、単に「周囲に同調することが調和・秩序だ」と考えるような人は、「そういうものに同調しない人」を「調和・秩序を乱している」かのように悪意的にラベリングし「批判のターゲットにする」ということもよくあることです。

仮想の「格付け」を生み出したその集団内の一部の者たちは、常に「人との比較」ばかりして「どちらが優位か」を過剰に意識していて、「その場を支配したい」という闘争心・自己愛が強く、「心の空虚な状態」であり、

本質的に「集団の上位」どころか、「他者との比較だけでしか自分自身の心が満たせないような、貧しい心」なんですが、現代社会自体が、そういう「自己愛的な闘争性と不調和」を強化する作用を意識に与え、人の心に「底意地の悪さや劣等感や空虚さ」を生じさいる原動力になっているのもまた事実なんですね。

現代社会 排斥・疎外とその結果

「肩書き・地位・身分・階級・役割・立場」などによる区分けと格付が、人を悪意に満ちた言動に導く心理、その否定的な作用を最大化している姿を、例えば北朝鮮の無慈悲な圧制や、インドのカースト制などの無残・残酷な行為に見ることが出来ます。

先に書いたように、ヒトは置かれている環境や地位によって「自ら取る行動」が変っていく、変わりやすい、という事です。(それが作為的に作られた環境であってもです。)

これを心・精神の病・バランス異常を持つ人達に当てはめた場合、 ネガティブな視点を持つ社会的反応・態度・環境が、心・精神の病・バランス異常を持つ人々の考え方をさらにネガティブにするという「負の作用」になるのですね。

「虐げられる役割のイメージ」と無意識的に同化してしまい、本当に抜け出せなくなるのです。これは前回書いた「ラベリング効果の否定作用」とも重なります。

そして人がまだ自然の中に共にあった原始社会では、「自然に生じた不規則さ、差異」は全てそのまま表現されていたでしょう。

そこに人為的な社会システムがカッチリと形成され、万人一律の基準が課されるようになると、先天的な個性後天的な社会環境のカップリングが全く噛み合わないようなエラーが生じやすくなります。

最近起きた「AKB48テロ」の事件も、気質・気性・基本性格と社会環境・出来事の複合的な噛み合わせが否定的に心理作用し、自我の成長と安定化に失敗した時に起こる現象の一例ともいえるでしょう。

以下に紹介のリンク先の記事の考察・視点はとても鋭いと感じますね。⇒ AKB48テロで考える「無敵の人」の行き先

なので自分が何に向いているかは、早いうちにある程度把握していた方が良いと思います。そしてそれを肯定的に伸ばしていく多様性のある理解多角的な視野・環境教育が社会にもっと必要でしょう。

気質・気性・基本性格に全く合わない領域で頑張ってしまったり、環境の否定作用・不調和によって「自我の形成不全」が生じていると、そのままでは上手く自己実現できないからです。

また「自己実現出来ても、調和的な自己統合状態でない場合」、内的なヒズミが生じやすく、何かのキッカケで一気にバランスを見失うこともあるでしょう。

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