「自己愛」から「悟り」へ  自己愛性人格障害と思考の輪廻

 

「虚無を生むもの」のテーマはまだ続きます。徐々に「存在の虚無」へと近づいてきましたが、今日は「自己愛」が中心テーマでの補足記事で、自己愛性人格障害のまとめと、「自己愛から悟りへ」、「思考の輪廻」をテーマに記事を書いています。

 

「自己愛性人格障害とはなにか」 

「あらゆる星が北極星を中心として動いているように、世界は私を中心と動いている。私は秩序そのものであり、法律そのものである」

 —- シェークスピア 「ジュリアス・シーザー」(映画版に脚色されたリフ)より

「俺様バンザーイ! 他人なんか糞喰らえ! 俺様バンザーイ!」  —-   アラバール「建築家とアッシリア皇帝」より

 

特 徴

自分を愛するという行為は、健全な心の発達のためには必要なものですが、それが病的に肥大化して自分に対する誇大感を持つようになると、それは自己愛人格障害と呼ばれるものになります。健全な人のように、ありのままの自分を愛することができないのです。

•御都合主義的な白昼夢に耽る。
•自分のことにしか関心がない。
•高慢で横柄な態度。
•特別な人間であると思っている。
•自分は特別な人間にしか理解されないと思っている。
•冷淡で、他人を利用しようとする。
•批判に対して過剰に反応する。
•虚栄心から、嘘をつきやすい。
•有名人の追っかけ。
•宗教の熱烈な信者。 

 

以下は「アメリカ精神医学会 DSM-IV」での『自己愛性人格障害』の診断基準です。

 

診断基準(アメリカ精神医学会 DSM-IV)

『自己愛性人格障害』Narcissistic Personality Disorder

誇大性(空想または行動における)、称賛されたいという欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下の5つ(またはそれ以上)によって示される。

(1)自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績やオ能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。

(2)限りない成功、権力、才気、美しき、あるいは理想的な愛の空想にわれている。

(3)自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信ている。

(4)過剰な賞賛を求める。

(5)特権意識つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。

(6)対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。

(7)共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。

(8)しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。

(9)尊大で傲慢な行勤 または態度。

 

私は、人格にせよ自我にせよ「それ自体で存在する静的で固定的な実体」ではなく、複数の因子によって条件づけられたある種のループ性、慢性化しパターン、傾向性を、社会の基準でカテゴライズしたもの、というとらえ方です。

 

『世界で一つだけの花』と「BORN THIS WAY」

『世界で一つだけの花』というヒット曲がありますが、この歌の歌詞には昔から何か違和感があり(スマップは好きですが。)、スピ系の「ワンネス思想」に似ているなと感じていました。その違和感の正体は「幼児的万能感幼児的な自己愛ですね。

少し角度が異なるのですが、これとよく似たのものを感じるのがレディーガガの「BORN THIS WAY」の歌詞ですね。パワフルで自然自我を強める曲なので、自然自我が弱く自信のない人にはある種の効果もあり、その意味で良い曲だとも感じます。

シンプルに「自分らしく生きる」というメッセージが込められている歌でもあるし、またレディー・ガガさんのことが嫌いとかいうわけではないですが、

彼女のいう「正しい道」という絶対的な自己確信の背景には「幼児的万能感」[幼児的自己愛]を中心にした自我の運動を感じます。

「幼児的万能感」[幼児的自己愛]にしても、「特定の状態・状況下にある人」にとっては一時的に有効で支えともなる場合もあり、本来「自己愛というのはヒトに必要なものだからこそ誰にでもあるのです。

承認欲求自己愛は、ヒトに必要な基本的な心理的欲求に過ぎないので、「これ自体を否定すること」はむしろ異常です。

自己愛がない」という状態もまた病的なんですね。要は「自己愛」の強弱とその質と、バランスなのです。なので、そういうことを踏まえつつ、今回の記事を読んでいただければ、と思います。

 

「自己愛」のテーマと関連が深く要点をわかりやすくまとめたサイトの記事があったので以下に紹介します。

「性・宗教・メディア・倫理」 より引用抜粋

 『世界で一つだけの花』と「自己愛」をめぐって/人格障害part3補論

そもそも「自己」も「愛」も、このような否定的な意味合いを持っていないのにどうして「自己愛」として二つの言葉が組み合わさると否定的な意味に使  われてしまうのか?疑問が沸きます。

これは前回の※1で述べましたが、「愛」と言う言葉がリビドー(性的欲動・衝動)の訳語として当てられてしまったことが第一の原因なのですが、「自己愛」と言う言葉には精神分析でも悪い意味ではなく、寧ろ必要なものとの意味もあるのです。

それは、自己愛性パーソナリティ障害の「自己愛」のような幼児的なものと区別するために、「健全な自己愛」と呼ばれます。

現代アメリカの精神科医O・F・カーンバーグによる二つの区別を見てみま

[幼児的な自己愛]非現実的/正常な自己評価の欠如/他人に助けを求められない/他者を脱価値化/冷たい/無遠慮で過大な要求/非現実な愛の希求

[健全な自己愛]より現実的/安定した自己評価/愛情・信頼感/他者との関係が安定/暖かい/現実的な要求/現実的な愛の希求としています。

(中略) 
但し、留意すべきは、「健全な自己愛」にも「自己愛」が必要だと言う点だと考えます。ここで言う「自己愛」は「幼児的な自己愛」という意味ではありません。文字通りに、「自分を愛すること」です。
(中略) 
フロムの述べている「自分自身への愛」(自己愛)という広い範囲の中にカーンバーグの言う「健全な自己愛」も含まれると考えられますが、

正確にはフロムの言う「自己愛」は“自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定する”という“肯定”の意味合いが強いものです。

そして、この“肯定”こそが、「幼児的な自己愛」という全能感と「健全な自己愛」とを分けると考えら得れる育成環境での幼児の安心感を支えるものだと考えられます。

ただし、“肯定”といっても単純に認めることを意味するのではないと考えられます。

なぜなら、単純に幼児の行動を何でも認めることとすると、幼児が適切な手本を持たず、無制御に全能感を発揮してしまい、「幼児的な自己愛」にとどまってしまうと考えられるからです。

“肯定”は、「健全な自己愛」のための基礎であり、それは、幼児の全能感を適当な目標へと向かわせるための支援や制御の基礎とも言える広いものだと考えられます

(“肯定”感があるから、自分が自分の思うように行動できると同時に、保者などからの注意なども受け入れる精神的な余裕がある。)。

この“肯定”の意味するものを考える上で『世界で一つだけの花』を例にしてみると分かり易いかもしれません。
(中略)
この曲の歌詞全体を見てみますと“この中でどれが一番だなんて、争う事もしないで”“どうしてこうも比べたがる 一人一人違うのにその中で一番になりたがる”と言うように、

個人個人を比較する以前の段階(比較不能の段階)で認めようとするメッセージを伝えようとしていると解釈できます。

にもかかわらず、“特別な”“ONLY ONE”という比較を前提とした言葉を最後の最も重要な部分で使ってしまっています。“特別”というのは、文字通り、他とは“特”に“別”であることです。比較表現の最たるものです。

“ONLY ONE”とは“ONE”であること、一つしかないことを意味し、一つしかないことに価値を求める発想です。
(中略)
そして、一つしかないといっても、ただ一つしかないことには価値は生まれず、それが求められる・需要があるのに一つしかないことに価値を見出すことを意味します。
(中略)
“ONLY ONE”という間違った言葉の代わりに入れるとしたら、“ONLY BEING”でしょう。

ただ“BEING”(在ること)によって“BEING”(在ること)を認める・受け入れる、それが“肯定”です(在ること・生きるということ、というこれ以上遡りえない事実の“肯定”)。

その“肯定”が与えられること、保育者によって与えられた“肯定”によって、自分自身で自分を“肯定”できること、それがフロムの言う「自分自身を愛する」ことであり、

それがないと他人を愛することができないと言うのです。(自分の在ること・生きることに“肯定”感がないと、その自分のうちの空虚感・  安心感を埋め合わせるために必死になってしまい、他者を“肯定”する余裕がなく
る)– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒『世界で一つだけの花』と「自己愛」をめぐって/人格障害part3補論

 

 「自己愛」から「悟り」へ

スピ系で「ワンネス」という世界観がありますが、幼児的安心感自己全能感を得たがる人には、「ワンネス」によく似た幼児的幻想への退行的逃避現象が見られます。

過去の記事で書きましたが、「悟り」の方向性というのは無意識の内奥へと向かう方向性であるため、社会的自己実現とは逆の方向なんですね。なので「意識的」ではあっても「退行の過程」とルートは重なります。

ルートが重なるからこそ、「病的な退行と似た現象」がその途中の過程で起こることがあるんですね。

悟り」の方向性は、その入り口で「幼児的万能感」を通り抜け「自我の虚無」を通り抜ける必要があります。「幼児的万能感」の状態では存在はただ在るだけで完全無欠だと思い込む状態ですが、

存在は全体性と共にあるものであり、その全体性というものは、相互依存して成り立つものです。それは「個が全体・完全」ということではありません。

 

思考の輪廻

 

ではここで、私が自我の虚無に囚われていた十代後半~二十代前半の頃に書いた文「思考の輪廻」を紹介します。

 

「美しくありたい私」が「醜いものとされた私」になった時「私」は悲しむ。「優越したい私」がないと「卑屈な私」もない。「私の悲しみ」は「私」によって生産され、「私」とともに継続する。

「私」以外に「私の苦悩、悲しみ」の「継続者」はいない。しかし「私」はそうは思わない、思えない。

『 ありのままとともにいることが出来なかった結果的産物たる「私」 』は、その発生と同時に「原因と結果」の分離した二元的存在者として、自我=思考の輪廻を生み出す。よって「私」に「苦悩」、「悲しみ」の継続される原因が「私」であることを知ることができない。

「私」は「あんなことをやらなければ」、「あのときああすればよかったのに」、「私」を責め、「全部自分が悪い」、「私は馬鹿だった」と論するが、「あのとき私がああしたこと」=「過去」が「私」の「現在の苦悩」に置き換えらている。

「今何が起きているか?」ではなく「過去=記憶」に囚われ、それを追いかけるたに「苦悩即私」の全容が「私」には見えないまま見過ごされる。

「あんなことがなければ、こんなことがなければ」きっと「私」はいま苦しんでいいと、「あんなこと、こんなこと」が、あるいは「あんな奴、こんな奴」が「私」「苦悩そのもの」に置き換えられている。

「過去」と「現在」は連続してはいない。それは「私」が連続させているだけであり、刻々と変化してゆく瞬間瞬間の「現在」が存在しているだけである。

過去は記憶であり情報であり、未来は「過去=記憶・情報の投影」である。「原因」は「過去=記憶・情報」であるが「状態」は「今・現在」にある。

そして「原因化された過去」それ自身は「今」に存在しないが、「私」よって、「現在の苦悩」とされているにすぎない。

『 「過去そのもの」である「私」 』は、「ありのまま」に記憶を投影ことでそれを「今」にかぶせ、「今」を「責め、裁き、悔い、反省し、し、罵声し、哀れみ、悲しむ。」

 

「記憶・情報」と「思考」その適切な使用は日常に不可欠です。このテーマの核心は「記憶」と「思考」が不必要ということを言ってるのではなく、

「記憶・情報」と「思考」その役割の適応範囲を超えて、無意識、自動的に動き続け投影されることで「完全なまでに見落とされる存在のリアリティー」がある、ということに絞られています。

「自我の虚無」のその先に行く(気づく)には、思考は使えないのです。私たちの様々な思考の輪廻は、私や他人の思考や主張によって本質のレベルで終わることはなく、「思考より深い何かが、思考の姿に気づくこと」でしか終わることはない。

「私に私の正体を知らしめるもの」は「私=自我=思考」ではないのです。

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