「社交的 内向的」・「美徳 健全」の文化的相違

 

人格障害という言葉への疑問 part2です。

人格障害(パーソナリティ障害)の基準というのは、もともと精神医学というものを発展させてきた西洋人による人間精神の障害基準であり、心理学的な概念にしてもそうです。

東洋的な人間観というものは、西洋的な人間観と必ずしも同じではなく、「美徳 健全」には文化的相違が存在し、また同じ東洋でも日本と中国では文化も人間観もそれぞれ異なりますね。

世界には文化的なアイデンティティーの相違があり、例えばユングは、集合的無意識という概念の中で、「文化の型」つまり、国や特定の部族が共有している無意識の存在があることを指摘していますが、

何百年あるいは千年単位で続いている文化と共に存在するコミュニティーの中に生きている私達が、文化それぞれに相対的な人間観や美徳、健全さなるものを有している事は自然であり、安易にそれを均一化出来るものではないと思います。

「均一でない」ということは生物学的に見ても悪いことではなく、むしろ多種多様性というものが同時存在していた方がその生態系は豊かなわけです。

今世界で起きているグローバル化というものは、経済や政治だけに起きているのではなく、「物の見方」、「人間観や美徳・健全さ」なるものさえ、グローバル化という均一化に向かっていると感じられるのです。

つまり、西洋的な人間観に統一化・均一化されていく傾向にあるとも言えますね。そして、職場や小さなコミュニティにおける同調圧力が存在するだけでなく、社会あるいは世界的な規模での同調圧力の力学が我々には無意識的に働いているということです。

ではここで、TEDの動画を紹介します。

シーカ・アル・マヤッサ「地域の世界化 世界の地域化」

カタールで芸術家、語り手、映画制作者を支援しているシーカ・アル・マヤッサが、一国のアイデンティティが芸術と文化を通じていかにして形成されるのか、更に世界中の国々が独自性を供えたそれぞれのアイデンティティを界に向けていかにして共有することができるのかについてお話しします。「私たちは皆 同じでありたいとは思っていません。ただ、互いに理解し合いたいだけなのです。」

 

「社交的と内向的」

先にも書いたように、人格障害(パーソナリティ障害)の基準というのは、もともと精神医学というものを発展させてきた西洋人による人間精神の障害基準であり、心理学的な概念にしてもそうです。

例えば、「社交的 内向的」という言葉が存在しますが、一般的に西洋人というのは、社交的であることに良いイメージがあり、内向的であることに否定的なイメージがあるように思いますね。

またアグレッシブでポジティブな外的表現を「正のイメージ」とし、センシティブでシャイな外的表現をネガティブな「負のイメージ」とする傾向があるように思います。

ですが日本人はセンシティブでシャイな外的表現をむしろ普通としています。

相手が誰であれ臆することなくガンガン意見を主張し、思った事はストレートに口にする自己アピールの強い人は、そういうアグレッシブさが生かされる業界内であればまだ良いとしても、

お互いさま精神の日本的コミュニティー内では、むしろ浮いてしまうことも多々あります。

ですが、そのようなお互いさま精神の日本的コミュニティーが、日本人の長所にもなり、また息苦しさの原因、短所にもなっています。こういうものが日本文化的な気質のひとつなのでしょう。

どちらがよいとか悪いとかではない、ただどちらにせよあまりにも極端すぎると問題が出てきたり、どちらか一方の在り方しか認めない、という眼差しが強すぎる場合、

「否定された側」は、別にただの「気質の問題」であってそれ自体は悪くも劣っていることでもないのに、周囲から責められているように扱われたり感じたりして、とても生きづらくなってしまいます。

また「断るべきもの」に対してすら「和」を重んじすぎて断れないままどんどん現象が悪化していくような場合、ハッキリと自己主張することも必要です。

控え目過ぎて優柔不断になって強いものにただ流されて、みながそれに従ってどんどん脱線していったり苦しくなっていくようでは本末転倒です。

生物学的な気質としては内向も外向もどちらもあって良くそれぞれにお互いの良い部分を認め、足りない部分は補完し合う方がずっと建設的で調和した場になるでしょう。

ここでもうひとつTEDの動画を紹介します。

スーザン・ケイン 「内向的な人が秘めている力」

社交的で活動的であることが何より評価される文化において、内向的であることは肩身が狭く、恥ずかしいとさえ感じられます。しかしスーザン・ケインはこの情熱的な講演で、内向的な人は世界にものすごい才能と能力をもたらしているのであり、内向性はもっと評価され奨励されてしかるべきだと言っています。

 

 パーソナリティ障害 クラスターC群

人格障害のアメリカの基準には、クラスターA・B・Cという分類分けがされてます。

クラスターA・Bに関しては、アメリカにせよ日本にせよ、人格障害者として共有出来るある種普遍的な要素が多いのですが、クラスターCの人格障害者の分類は、文化的な人間観の相違が感じられます。

他人からの批判や非難にかなり敏感でショックを受けやすい日本人は基本的にアメリカ人と比べるならば「恥ずかしがり屋」であり、

アメリカ人と比べるならば「集団内での個人的な意志決断を表明したり、集団の場の中で目立つ行動を積極的にできない」というような文化的な気質がありますね。

人格というのは両親・環境・文化の影響力から後天的に条件づけられるものと、遺伝などの先天的に引き継いだ元々の気質の総合表現ですが、

「個の表現」が、あまりに酷い場合、それは自分自身及び周囲に悪影響を与え、様々な身体的精神的な苦痛をもたらしてしまう、そういうものを人格障害と定義しているわけですが、

特定の社会・文化や特定のコミュニティの傾向性・価値観などによってそれが人間全体の基準として過剰に一方的に区分けされるとするならば、それは不自然な均一化、あるいは同調圧力の一種になります。

ですので、こういうものを定義する時は、もっと普遍的で幅があった方が良いと思いますね。

クラスターCの人格障害者の特徴は、日本文化の人間観・美徳にも絡んでいる部分がありますからね。

 

 人格障害 クラスターCの特徴

臆病・内向的。 恐怖感・不安感が非常に強い。周囲の評価や視線が常にになる。 それがストレスになる傾向が強いタイプ。

とありますが、

周りの空気を異常に気にする日本人は「まわりからどう見られているかが常に気になる国民性であり、同調圧力に弱く、またそこからはみ出すことにも臆病ですし、評価や視線への不安感が非常に強いですよね。

最後に、クラスターCの特徴をまとめておきますね。クラスターCには「回避性パーソナリティ障害」、「依存性パーソナリティ障害」、「強迫性ーソナリティ障害」という3つのタイプがあります。

  回避性パーソナリティ(人格)障害

社交的でありたい、人々・社会に受け入れてもらいたい、認められたいという気持ちを強く持っているが、堂々と出来ず、卑屈感があり、ネガティブで自己評価が低いため、他者の批判的・否定的な言動を気にして不安や恐怖心から対人関係が浅いものになってしまうタイプ。

 依存性パーソナリティ(人格)障害

自分が信用・信頼できる特定の人・対象に強い依存性を持ち従属し、それらの人・対象に自分自身を委ね切ってしまい、自分の意志で主体的に動くことをせず、自分で考えることをせずに人生を任せきってしまうタイプ。

 強迫性パーソナリティ(人格)障害

潔癖症的な「秩序に対する几帳面さ」があり、その頑なな完璧主義さが日常生活及び仕事での対人関係などに否定的な影響をもたらすタイプ。

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