内面で世を俯瞰し「目立つもの」に反応する心理  

 

「我慢強く礼儀正しい日本人」の裏側の顔は、「臭い物にはふたをする」「見て見ぬふり」「出る釘は打たれる」「長い物には巻かれろ」「ウソも方便」「言わぬが花」 ・・・

そして何のアクションもせず空気ばかり読み、「面倒に巻き込まれない」う安泰しつつ、自分自身は何も人から突っ込まれないように沈黙しやり過ごし、

自身の意見とは違うことを主張する目立つ人だけには過剰に反応して横やりを入れる、という陰湿な攻撃性だけは持っている、よくいるこういうを今日は分析してみましょう。

  このような人は、「気に障る主張・アクションをとる人」に妙に強気なって、「揚げ足を取る」「言葉狩り」「失言探し」的なやり方で、足を引っ張る、あるいは「出る杭叩き」を行う。

ですが普段は自身は何の目立つ主張もしないわけです。何故なら何かを提起して主張する行為というのは、それが誰にとっても当たり障りのないことでない限りは、たとえどんな人でも完璧な賛成など得られないものなので、場合によっては大きな反動・反撃を受けますからね。

たとえば原発という問題を例にしても、もめていますよね。 結局「反対賛成」の総合的な力学のどちらが優勢か?ということで押し切られているわけです。

ここでちょっと古い内容ですが、今回のテーマに合う内容なので以下の記事を参考に紹介しますね。

2012年9月26日  保田 隆明 ザイ・オンライン 経済関係の冷却化で困るのは中国?日本? より引用

日本でも官邸前では反原発デモが行われているが、それらデモを行っているのは一部の人たちである。では、そのデモを行っている人たち以外は反原発ではないのか、というとそうではない。

デモには参加しないが反原発という一般市民は多数存在しよう。したがって、反日デモ、あるいは反日は一部の人だけ、とこちらにとって都合よく良心的に解釈するのはやや危険な気もする。

一方、デモは何かに反対するときに行うものであって、賛成デモというのは聞いたことがない。反対するときはつい感情的になりがちだが、賛成するときは比較的理論的である。

原発にしても、反原発に反対(つまり原発推進派)という人たちは世中にある一定人数がいるはずだが、それらが大きな声となることはないし、感情的になることもあまりない。そういう「反対デモ」の持つ性質もわれわれは理解しておく必要があるだろう。

引用元URL ⇒ http://diamond.jp/articles/-/25453

これは「主張を明確にして行動アクションをとっているのは一部」ということで、「その人たちだけがそういうことを考えている」と、メディアは世論を誘導しがちですが、そうではないんじゃない?というアンチテーゼですね。

 

世を俯瞰しつつ 攻撃する人々

見過ごすことはできない深刻なリアルに直面して、人は何かを強く感じて主張することがある。

そして明確なアクションを取るということは、当然「現実的な反応を受ける」ことも含むのであり、そこには批判を受けることも含めた上での主体的な表現があります。

しかし、自身は受動的に生き、何も主体的には関わらないようにしながら、「大勢の正しい側にいる」という安全な立ち位置に依存し、そうやって「俯瞰的に世界正視しているつもりの人々」というものは、

つまるところ「自らは事なかれ自己保身の人間」でありながら、「目立つ叩いて正義になったつもりです。

自らは目立つことをせず世の普通のつもりであり、物事を精査する基準のモノサシというわけです。そしてこの世の監視員にでもなったつもりでクレームだけをいう存在です。

「自らには何の主体性もない人」が、「他者への受動的な批判的反応」だけをしてプライドを満たしているまぁその人たちはそういう心理なわけですね。

⇒  放送禁止のCMに見る日本の「表現の自由」の危機と日本社会を閉塞させている病原菌たち

以下の「トゥギャッチ」での分析も面白いですね。

「ネット民の過半数が陥る”俯瞰中毒”の症状とは?」より引用抜粋

さてエリコちゃん、俯瞰という行為は人の自意識と密接に関係しているの。自意識というのは「自分は何者なのか、他人にどう思われているのか」にいて気にする気持ちよ。 

自分を俯瞰するということは、他人にどう思われているのかを気にすることよ。「こう思われたら嫌だな」「こう映ったら恥ずかしいな」と考えているうちに何もできなくなってしまう。 

さらに困ったことに、”俯瞰癖”をこじらせると自分が自意識でできないことをできる他人に対して嫉妬を覚え、攻撃するようになってしまうの。それが俯瞰中毒ですね。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ ネット民の過半数が陥る”俯瞰中毒”の症状とは?

 ですがこれはネットだけのものではないでしょうね。統計などを調査してもリアルでの経験から見ても、社会によくみられる現象のひとつです。

また「繊細チンピラ」というネットスラング(造語)は、明確な定義があるわけではないですが、比喩的な意味で「そういう感じの人」は、ネットだけでなくリアルやネット両方に多いですね。

私はこういうネットスラングは好みません。(例えばネトウヨというネットスラングも好きではないです)それらは他者を否定的にレッテル張りして殴るのに都合が良い棒だからです。

「質」を丁寧に多角的に見ていけば、人は余程ある特徴が人格化し行動化し肥大化していないかぎりは、単一のイメージで単純にくくれるようなものではなく、

属性や特徴を有していても、全体性として見れば多元的な複雑系であるのが人間であるので、ネットスラングというのは「ある要素」の誇張したイメージであることが殆どでしょう。

「繊細チンピラ」はネットでの使われ方を見ていると、「受動的攻撃行動」の一種を膨らませた負のイメージで捉えている感じの人も多い、と私は捉えています。

ただネットでは匿名で露悪的な表現できるのでそれが目立つ、内面の一部が遠慮なく表出されるからわかりやすい形になる、というだけだと思いますね。

実際、世間ではごく普通の姿を演じている会社員や主婦やそれなりの肩書きがある人が、ネットでは全く別人格のような攻撃的表現をしているなどザラですから。

ネット上の繊細チンピラの定義は、「自分に欠けている何かを持っていることに無自覚な他人の発言を勝手に自慢と受け取って激昂する人」とのことですが、

これだとあまり造語を使う必要はなく、これは「嫉妬心」「ルサンチン」を言い換えただけで、嫉妬心・ルサンチマンからの「受動的攻撃行動」としてみれば、それはよくあることで、

その手の反応が強い人はリアルでもいますよ。(リアルでは「激昂」の部分は表面的には抑えていますが、陰口とかで妬み嫉みを言いまくる人ってリアルでも相当います。)

仮にもし世界にこういう特徴が人格化したようなレベルの人達しかいなければ世界の動きは止まってしまうだけでなく何も新しいものは生まれず、そして窒息していくでしょうね。

それでは、マーガレット・ヘファーナンによるTEDの動画を紹介して記事の終わりとします。

マーガレット・ヘファーナン: 「意図的な無視」の危険性

ゲイラ・ベネフィールドは仕事中にある異変に気づき、やがて自分の住むの恐ろしい秘密を暴いてしまいました。彼女の町はアメリカのどの場所よりも死亡率が高く、80倍にも上っていたのです。 

しかしそれ以上に彼女が衝撃を受けたのは、住民にそれを伝えようとした時でした。人々がその事実を知りたがらないのです。マーガレット・ヘファーナンは、歴史の教訓とも活動の呼び掛けとも呼べるこの話を通して、「意図的に無視すること」の危険性に警鐘を鳴らすとともに、自ら声をあげた普通の人々を讃えます。

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