近年の公共言説を見ていると、「差別」「暴力」「権力勾配」「抑圧」「非対称性」といった言葉が、広く用いられている。
もちろん、それ自体は必要な視点で、実際、弱者への暴力や構造的不平等を可視化してきた功績は小さくない。ただ一方で、それらの概念が、常に一貫して適用されているかといえばそうではなく、少なからぬ偏りが見えます。
たとえば、辺野古ボート転覆事故をめぐる活動家の暴力性、あるいは草津冤罪事件など(他にも多数の事例があるが省略)を見ていると、「暴力」「抑圧」「権力」という言葉が、ある場面では強く機能し、別の場面では驚くほど沈黙されるという非対称性が浮かび上がる。
英国の大規模調査機関 NatCen が2022年に発表した Female IPV Perpetrators(女性による親密圏暴力)の研究報告書では、女性加害DVの形態の一つとして “Legal and administrative abuse”(法的・行政的虐待) が明確に分類されている。
報告書では、女性加害者が以下のような行動を取るケースが記録されている。
● 虚偽の通報や訴えを行い、相手を逮捕・排除させる
● 保護命令(restraining order)を悪用して相手の生活を制限する
● 子どもの親権・面会を不当に奪うために制度を利用する
● 行政・司法機関に“被害者として”先に駆け込むことで優位に立つ
これらは“制度的権力の濫用(institutional abuse)”ということ。
子と会えず自殺、川崎市を提訴 妻への指南「親権侵害」と遺族 にしても実態は果たしてどうなのか?今の日本のように、一方的に「加害者/被害者」二元論で男性側が悪と即決される状況下において、真実は一体どうだったのかは不確定なままともいえるでしょう。
しかし、マスメディアもアンフェア過ぎるアジェンダ設定で不都合な事実や声を不可視化する一方で、特定の属性や、不都合ではない対象に関しては過剰と思えるほどに報道し続ける。
つまり問題なのは、「正しい理念」そのものではなく、その理念が特定の思想や政治性、価値基準によって選択的に恣意的に政治的に運用されることによって生まれる偏りと、その偏りに過ぎないものが“絶対正義”として流通してしまう構造にあります。
ここには、フーコーが指摘した「権力/知」の構造──すなわち、何が“暴力”と呼ばれ、何が“暴力ではない”とされるかを決める権限そのものが権力として機能するという問題──がそのまま現れているといえるでしょう。
しかも厄介なのは、この種のアンフェアさが、単なる個人の感情や偏見としてではなく、「専門知」や「倫理」、「社会正義」の言葉をまとって現れる点。そこでは、ある種の暴力性が「正しい側の暴力」として不可視化されやすい。
そして、その構造をメディアや公共圏が正面から検証することは驚くほど少ない。むしろ一部の専門家やアカデミアが、その非対称性を無意識に補強し、維持してきた側面すらあるわけですね。
ではまず一曲紹介。Radiohead「There There」です。なんとなく雰囲気が今回のテーマに合っている感じの曲ですね♪
以下で論じる信田さよ子氏の発言も、単なる個人の発言としてではなく、そうした「正義の言葉によって正当化される暴力」の構造の中で読む必要があるでしょう。
信田さよ子氏のSNS上での発言は、一見すると、被害を受けた子どもへの共感と、「暴力を許してはならない」という原則に基づいた、まっとうな批判のように見えるけれど、その言葉を丁寧に追っていくと、別の輪郭が浮かび上がってきます。
問題なのは、発言が単に厳しいとか、感情的だということではない。そこには、「専門家の権威」と「正義の言葉」が結びついたときに生まれる、言説的暴力の構造があるということ。
ここでは、その問題を、認識論、レトリック、比例原則、裁きへの欲望、そして自己矛盾という観点からみてみました。
「知っている」という前提 —— 認識論的な問題
子どもに対して恐怖を抱かせたこと、家族の誰もが助けにならなかったこと。しかも子どもが自分のせいにして親を庇って収束を図ったこと。
全てに対して自分に責任があるという姿勢を示してこそ男性として父として監督としての価値を上げることになっただろうに。
残念だ。…— 信田さよ子 (@sayokonobuta) May 26, 2026
信田氏の発言の問題は、この評価が、直接確認された事実ではなく、主としてメディア報道を前提に組み立てられている点にある。しかも語り口は、「可能性」の語りではなく、「推測にすぎないもの」を「これこれこそが正しい見方だ!」に変換していること。
阿部監督の件。
テレビの報道見ていると、
『18歳は児童ではなく、法律上は児童虐待には当たらないので、そもそも児童相談所の管轄外だった』
という点にどこも触れていなくて、驚いている。まるで普通の児童虐待と同じかのように扱われていて、視聴者を誤解させる内容だなと。
— 村田@元被虐児童 (@DYdZZP59VT2LSgG) May 26, 2026
本来、心理職の倫理では、直接面接やアセスメントなしに、相手の内面や家族力動を断定的に語ることには慎重さが求められるにもかかわらず、「会ったことも話したこともない子どもの心理状態や家族の関係性、さらには当事者の動機」にまで踏み込んでここまで断定的に決めつけて「他者を裁く」わけですね。
せめて一連の事実の全体を正確に把握した信頼できる一次情報や、ある程度の厚みのある当事者たちの言動や言説等の蓄積があれば、ある程度の予測なら出来るとしても、
今回のような、まだどのような状況で何が起きたのかの流れもよくわからない不明瞭な状態で、そこまで決めつけて断言するなら、それは意図的な単純化になる。逆に、その危うさに無自覚であるなら、専門家としての認識能力そのものが問われる。
いずれにせよ、専門家の断言は一般人の断言とは重みが違う。権威が大きいほど、不正確な断定による被害もまた大きくなるのだから。
児童福祉法のここがダメ
・被虐待児童が非行少年と同じ扱い
・一時保護中の規定がほぼ無い
・子供の意思と権利を尊重する記述が無い
・子供に意見表明する機会を与えていない
・児相の判断が唯一絶対の基準
・児相を罰する規定が無い
・児相への外部監査すら無い— 村田@元被虐児童 (@DYdZZP59VT2LSgG) October 11, 2021
さらに、「ファンは人間としての姿勢を見ているわけではない」という一節では、当該人物を支持する不特定多数の他者の価値基準や人間観をひとくくりに決めつけているけれど、論理的には、循環論法と藁人形論法が混ざり合った構造に近い。
そしてこういう語りというのは「内集団ウケ」はよい。なぜなら外集団を否定し退け、内意集団びいきするのだから、内集団にとっては「われわれを守る心強い味方」として映りやすい。
しかし民主主義社会において、こういうやり方で理念が達成されることはない。むしろこういったことを延々と繰り返すことは、ますます「反」を強化するだけ。
聡明な専門の人たちは、「内集団ウケ」はよくなくても、地味でも目立たなくても、面倒くさいことから逃げずに、個々の複雑性を丁寧に見ていく。そういう聡明な専門の人たちがほんとうの意味での「知性」と「良心」をもった人々でしょう。
「構造」も同様で、それは決して単一の力学ではなく多元的な力学を含む。人間も同様。だからフェミニズムや左派の理屈だけでは人間も社会も世界も捉えられない。
そして聡明な人々の批判というのは、外集団であれ大衆であれ、幅広く「他者」に届くものなんですね。しかし内集団のカルト化が進むと「外」には一切届かなくなる。そして外集団の反発も強くなるので、最終的に「叩き潰す以外にない」というカルトの最終段階のようになっていきます。
「パターン認識」が事実確認を置き換えるとき
「断定」を支えているのは、長年の経験から形成されたパターン認識でしょう。
たとえば、「加害者は責任を認めない」「子どもは自責化しやすい」といった傾向そのものには、一定の現実性はあるけれど、問題は、その“傾向”が、個別事例の事実確認を飛び越えて適用されることにあります。
つまり、「個々のケースを丁寧に見た」のではなく、「既知のパターンに当てはめた」という認知操作ですが、その瞬間に当事者、他者の固有の文脈(個別性)は捨象され、「複雑な一人の人間」ではなく、「思想を補強するための材料」「類型として記号化された他者」へと変わってしまう。
特定の職業的、思想的、政治的フレームが、他者、社会、世界の理解の“標準OS”になってしまうと、そのフレームでしか他者、社会、世界が捉えられなくなってしまう。
見落とされる「比例原則」の問題
暴力に貴賤なし。
あんなに体が大きい男性と18歳の娘の間に「ケンカ」は成立しない。
対等な個人間でしか「ケンカ」という言葉を使用してはならない。— 信田さよ子 (@sayokonobuta) May 26, 2026
さらに深刻なのは、「制裁の重さは、本当に行為と釣り合っているのか」という視点がほとんど存在していないこと。
マックス・ウェーバーが述べたように、国家とは暴力を独占する装置であり、逮捕は身体拘束という暴力であり、捜査は私生活への介入であり、起訴は社会的地位の剥奪を含む。
もちろん、それらは法的に正当化された暴力ではあるが、「暴力ではない」という意味ではない。だからこそ重要になるのが、比例原則です。つまり、「行為の重さと制裁の重さは釣り合っているか」という問いです。
ところが現代では、報道、SNS、専門家コメント、世論が連動することで、法的制裁を超える社会的制裁が形成される。
しかも社会的制裁には、終了期限がなく、手続き保障もなく、無罪になっても消えず、家族や子どもにまで波及する場合もあります。その意味で、社会的制裁は、ときに司法以上に残酷なものになりうるのです。
だから専門家による断罪的発言は、その制裁システムに「正当性の燃料」を投下することであり、間接的であっても、それは暴力の一部として機能してしまう。
なぜ人は「裁きたがる」のか
では、なぜ人はそこまで断罪へ向かうのか。背景には、いくつかの心理的構造があります。
第一に、道徳的自己高揚の問題がある。他者を「悪」として断罪することで、「自分は正しい側にいる」という感覚が強化される。他人の価値を下げることで、自分の道徳的優位を確認する構造がある。
しかも厄介なのは、この感覚が、本人には「正義感」として経験されることにあります。
第二に、思想を具体化したい欲望がある。長年ある理念を掲げてきた人ほど、具体的事件を「思想の証明」として扱いやすくなる。すると、事例の複雑さよりも、原則への適合性が優先されるようになる。
結果として、反証になる情報は、無意識のうちに排除されやすくなる。そして不都合なエビデンスや不都合な当事者の声を見ないようになっていく。
第三に、被害者との同一化がある。DVや虐待支援に長く関わる人には、深い共感性が必要になる。しかし、その共感が一定ラインを超えると、「被害者の怒りを、自分自身の怒りとして代行する」状態が生じることがある。
すると、「加害者と見なした相手への攻撃」が、支援の一部として正当化されやすくなる。共感が、客観性を押し流してしまうわけですね。
さらに、「人間は道徳的に悪いと判断した他者を罰するとき、脳の報酬系が活性化するという事実です。(これは心理学・社会心理学・進化心理学の複数の領域で確認されている現象です。)
しかも本人が、それを「被害者への共感」や「社会正義」、「使命感」として認識している場合、自覚しにくい。これが権威ある立場の人間に生じると、その影響力は非常に大きくなる。
自己矛盾 —— 「暴力を批判する側」が暴力の文法を使う
自分が批判しているはずの“暴力の文法”を、自分自身もまた使っているということから生まれるダブルスタンダードに気づきにくくするのが、「われわれは正義の側にいる」という道徳的自己確信です。
「専門家としての権威」「事実確認なき断定」「当事者の客体化」「比例原則の欠如」という組み合わせが存在している構造は、「正義」の言葉を使いながら、人を傷つける典型的な言説の形になりうる。
専門家であるほど、本来求められるのは、認識論的な謙虚さであり、断定への慎重さであり、制裁への自制であるはずだ。それを欠いたまま振るわれる「われわれの正しさ」は、人を守る理念ではなく、人を裁く道具へと変わっていく。
そして本当に恐ろしいのは、その暴力が「善意」や「正義」の姿をしているために、周囲から見えにくくなること。
「暴力に貴賤なし。あんなに体が大きい男性と18歳の娘の間に『ケンカ』は成立しない。対等な個人間でしか『ケンカ』という言葉を使用してはならない。」
この三つの文は、一見すると自然につながっているように見える。だが、実際にはそれぞれ異なる働きを持っている。
最初の「暴力に貴賤なし」は、普遍原則の提示とするなら、次の「ケンカは成立しない」は、その原則を個別事例へ適用した判断。そして最後の「使用してはならない」は、言葉の使い方そのものに対する禁止命令になっている。
問題なのは、最初の「普遍原則」が、後続する断定や禁止を正当化するための盾として機能している点。
「暴力に貴賤なし」という言葉に反論しようとすると、あたかも「暴力に上下があると言うのか」「暴力を容認するのか」という構図に引きずり込まれる。つまり、原則への同意を入口にして、その後の個別裁定まで受け入れさせる構造になっている。
これは論理的には、「普遍原則」を用いて「個別判断」を不可視化している状態に近い。
「暴力に貴賤なし」は本当に成立するのか
ここが最も根本的な論点になる。まず確認すべきなのは、現実の法体系そのものが、すでに暴力に差異を設けているという事実だ。
正当防衛は違法性が阻却される。過剰防衛には減刑があり、傷害と殺人では刑罰の重さも異なる。国家による実力行使も、条件付きではあるが合法的暴力として認められている。
もし「暴力に貴賤なし」が文字通り絶対的に正しいなら、正当防衛も警察権力も、すべて同列に否定されなければならない。しかし実際には、そうした立場は取られていない。
つまり、この命題は厳密には、発言者自身によっても一貫して適用されていない。さらに言えば、暴力は文脈や関係性、意図によって、その意味が大きく変わる。
子どもへの虐待とスポーツ競技の接触行為は同じなのか。国家による弾圧と、それへの抵抗運動は同じなのか。侵略と抵抗を、単純に「どちらも暴力」として並列できるのか。
実際、信田氏が依拠するフェミニズム理論やDV理論そのものが、「暴力には非対称性がある」と論じてきた。つまり理論的基盤は、「暴力は一律ではない」という前提に立っている。
その意味では、「暴力に貴賤なし」と言いながら、実際には「暴力には文脈的差異がある」という考え方を使っていることになる。そこには小さくない自己矛盾がある。
さらに重要なのは、この原則が極めて選択的に運用されている点。
たとえば、辺野古の活動家の引き起こした事件は「暴力」としてどこまで語られるのか。草津冤罪事件で社会的破壊を受けた男性への扱いは、「制度的暴力」としてどれほど論じられたのか。あるいは、母親による虐待が父親の場合より軽く扱われる制度運用は、「非対称性」として十分に可視化されてきたのか。
そこで見えてくるのは、「暴力」という概念が常に普遍的に適用されているわけではない、という現実である。
語る暴力と、語られない暴力がある。この「定義の選択性」こそが、「暴力に貴賤なし」という命題の修辞的性格を露呈させる。これは「差別」等の文脈でも同様によくみられる。
つまり、この言葉は純粋な普遍原則というより、自らの裁定を正当化するための道具として機能している側面がある。だからけっきょくこれも「解釈の独占」や「告発権力」の文脈と結びついている。
「ケンカは成立しない」—— その前提は何か
ここでは、「体が大きい男性」と「18歳の娘」という対比が強調されている。しかし、その構図は、関係性の複雑さを極度に単純化している。
経済的依存関係はどうなのか。心理的優位性はどちらにあるのか。「子どもに弱い父親」という現実は存在しないのか。18歳という法的成年はどう扱われるのか。当事者同士がどのようなやり取りをしていたのか。
それらはすべて捨象され、「体格差」という単一の変数だけで関係全体が定義されていて、これは典型的な還元主義。
暴力にゼロトレランスは満腔の同意なのだが、他方、子ども同士の喧嘩なんて簡単に制止できるだろうと言わんばかりの意見には、兄弟姉妹間の本気の喧嘩を知らんのだなあ、と思うよね。大変よ、子ども同士の喧嘩。
— 河野有理 (@konoy541) May 26, 2026
「ゼロトレランス」は、暴力を抑止するための理念であると同時に、比例原則を無効化し、制裁の暴走を正当化する“制度化された断罪”として機能する危険を常に孕んでいる。
さらに問題なのは、「ケンカ」という言葉の定義権を、誰が持つのかという点。
「対等な個人間でしか『ケンカ』という言葉を使用してはならない」という表現は、「この言葉をどう使うかを決めるのは私だ」になっているけれど、
仮に当事者自身が「ケンカだった」と感じ、そう表現したとしても、外部の専門家が「その言葉を使うべきではない」と否定するのであれば、そこでは、当事者による経験の言語化が剥奪されている。
しかも、その瞬間に起きているのは単なる言葉の訂正ではなく、専門家の解釈枠組みが、当事者自身の経験に上書きされ、「被害者とはこう語るべきだ」という規範が押し付けられていることでもある。
「被害者の声を守る」と言いながら、被害者自身の語彙を禁止する。この逆説は非常に大きい。
また、この発言では、「非対称性」がほぼ物理的体格差に限定されている。
しかし実際には、親が子どもに対して抱く感情的脆弱性もある。社会的には、「娘に暴力を振るった父親」というレッテルは極めて強く、不可逆的な意味を持つ。制度的にも、父親の暴力と母親の暴力では扱われ方に差が存在する。
昭和と令和では「非対称性」はかなり変化している。つまり、非対称性は一種類ではないし、変化もしているにもかかわらず、「体格」という一つの非対称性だけが切り出され、他の非対称性は見えないものとして処理されている。
この言葉は、誰の沈黙の上に成り立っているのか
この発言の特徴は、「語っていること」だけではなく、「誰を沈黙させているか」にある。
まず、父親本人の声が消されている。
「体が大きい男性」という表現によって、当事者は名前や人格を持つ個人ではなく、「典型的な大きな男性」という類型へ変換される。類型化された瞬間、その人固有の事情や反論可能性は後景に退く。
次に、娘自身の声もまた固定化されている。
彼女は「保護される被害者」としてのみ登場し、何を感じ、どう考えているのかは参照されない。仮に本人が「ケンカだった」と語ったとしても、それは「加害者を庇っている」と解釈される可能性が高い。
つまり、どちらに転んでも、「本人の言葉が本人のものとして扱われにくい構造」になっている。
さらに、「ケンカ」という言葉を使った側の文脈も切り落とされている。誰が、どの場面で、どんな意図でその語を用いたのかは検討されないまま、「使ってはならない」という禁止だけが提示される。
そこでは、反論相手が抽象化され、その沈黙の上に断定が積み上げられている。
また、「母親による虐待は比較的軽く扱われやすいのではないか」といった制度的非対称性を指摘する声も、同じ構造で封じられる。「父親の暴力を軽視するのか」という道徳的圧力によって、制度運用の偏りそのものが論じにくくなるからだ。
ここでも、「普遍原則」が制度批判を封じる盾として機能している。
この言説は現実に何をもたらすのか
この種の言説は、単なる評論として終わらない。現実の当事者に具体的な作用を及ぼす。まず、家族関係の修復可能性を狭める。
「ケンカは成立しない」「暴力に貴賤なし」という枠組みが固定されると、当事者同士が関係修復を望んだとしても、それ自体が「支配関係の継続」と解釈されやすくなる。
もちろん、支援の現場では必要な視点でもある。だが、それが公共言説として強く流通すると、「修復を望む被害者」は「被害者意識が足りない人」とみなされ、「複雑な感情を抱える家族」は「典型的な共依存」として処理されやすくなる。
結果として、専門家の解釈が、当事者の選択肢を先回りして狭めてしまう。
また、18歳の娘本人にも二次的圧力がかかる。もし本人が、「ケンカだった」「仲直りしたい」と感じていた場合、その感情は「間違った感情」として社会的に否定される可能性があります。
被害者を守ると言いながら、被害者の感情の多様性を認めない。そこには、「正しい被害者像」から外れる人を傷つける構造がある。
さらに、父親という存在そのものを、「潜在的な脅威」として印象づける作用を持つ。それは、育児に関わろうとする父親への不信や、男性が子どもと接することへの過剰警戒につながり、結果的に父子関係全体を萎縮させる可能性がある。
イデオロギー的選択性という問題
ここで最も重要なのは、「差別」「暴力」「権力」「非対称性」といった言葉が、常に一貫して使われているわけではない、という点。
男性から女性や子どもへの暴力には敏感に適用される。しかし、母親から子どもへの暴力、国家による特定方向への個人への暴力、冤罪による男性への制度的破壊、特定の言説空間における男性への社会的排除などについては、同じ熱量で語られないことが少なくない。
つまり、「非対称性」を語る人々自身の“語りの非対称性”は、あまり検証されない。
ルーマンの言う「観察の二階化」を用いれば、ここで起きているのは“暴力を観察する人々自身が、どのような区別によって暴力を構成しているのか”というメタレベルの観察が欠落している状態だと言える。
これが、多くの人に「アンフェアだ」という感覚を生む理由だろう。
概念を普遍的に適用するのではなく、都合の良い場面でだけ用いながら、その概念の道徳的権威だけは保持する。そこには、知的誠実さの問題が生じる。
そして、こうした選択性が専門家やメディアによって行われるとき、それは単なる個人意見では済まない。公共圏そのものの言説バランスを歪め、民主的討議の基盤を静かに腐食させていく。
この発言が持つ暴力性は、単純な悪意から生まれているわけではない。
普遍原則を掲げることで個別裁定を正当化し、言葉の定義権を独占することで「不都合な当事者の声」を無効化し、さらに概念を選択的に適用することで、自らへの批判を回避する。
この三重構造が重なったとき、「正義の言葉」は極めて強力な暴力へ変わるわけです。
そして問題の核心は、「暴力を許すか否か」ではなく、「正しさ」が、人間の複雑さを押し潰す道具になったとき、その“正しさ”自体を検証できるのか、ということなんですね。
