よく過去のことばかり考えても無意味だ、仕方ない、という言葉を耳にします。ネガティブな思考や内向的というのは本当にマイナスでしかないのでしょうか?
例えば、過去の因縁にばかりに囚われ、不毛な憎しみを持ち続けても、それは人間の関係性を豊かに育むどころか破壊します。そのような否定的なものの見方や生き方は、「良きものを発展させる」というポジティブな方向性を失っているという点では、不毛でネガティブな姿勢でしょう。
ですがもし「過去の問題」というものが、他者だけに向けられるのではなく、「自らのなしてきた過去」にも向けられるのなら、それは違った意味も同時に持ってくるのです。
人類は多くの戦争・革命・内乱などで自国及び他国の人々を弄り殺してきました。それは国によって程度や量の差はあれ本質的には同様です。
そこで見られる人間の姿には何の違いもなく、敵対する対象を酷いやり方で殺し、あるいは無関係な民間人をも巻き込み酷く傷つけてきたのです。それが「人間の姿」の一面なのです。
人は「自分がされた事」は声高に叫びますが「自分が直接的間接的にしてきた害悪」や、人間の内在的な悪は同じくらいシッカリとは見つめせん。
後悔や反省に意味がある時というのは、自他共になしている姿の全体性を見つめることで、「人間」というものへの理解をお互いに深める時です。
「後悔」は後ろ向きなネガティブな姿勢か?
ですが、例えばサイコパス的な人達がするように、過去のことを全く振り返らず反省も後悔もせずに生き続けるとしたら、それはそれで非人間的な在り方でしょう。
サイコパス的な人は人がどうなろうが知ったこっちゃないのです。自身の目的の結果さえ達成されればそれで良いのです。 反省も後悔もしないわけだから、ある意味、時間ロスや心理的なエネルギーロスはなく効率は非常に良い。
他者の批判や悲痛などを目にも入れず耳にも入れず、堂々と周囲を蹴散らしながら突き進んでいくために、目的への達成を最速で果たす。つまり(有能であれば)サイコパス的な人は「目的達成に対しては効率的で最速」なのです。
「結果」が全てであり「過程」は無視される時、そこには後悔も反省も無い。「結果」=「今」であれば「過程」=「過去」ですが、「結果」が良いのだから「過程=過去」は悪かろうが知ったこっちゃない、という発想です。
「目的達成に対しては過程より結果が優先で、より効率的で最速な方を選ぶ」ということは、シンプルな技術的な領域などでは必要なことでもありますが、「過程」の中に「蔑ろに出来もの」が含まれている複合的な領域でそれが適用されると問題が生じます。
「なんでも数値化する」という場合もそれと同じような事が起きてきます。数値化出来る領域というのはかぎられていますが、それが全てになってしまうから問題が生じるのですが、
弱肉強食型社会の構造では、「サイコパス的」な思考が「上部」ほど出来やすい心理学的な仕組みが元々あるんですね。だから政治・権力組織や大企業の姿は(部分的には)サイコパス的な思考に支えられているといっても過言ではありません。
だからこそ自浄能力がなく反省能力も後悔もない姿のままであり続けられるのです。
「結果=今」を最速で発展させるために、「過程=過去」の無視してはならないものさえカットあるいは蔑ろにしてきたわけです。そして主に弱者・非力な一般庶民が「カット」あるいは「蔑ろの対象」にされる。
こうやって弱肉強食型社会の構造の下部にあたる人々がいつも食い物にされるというわけですね。
「結果=今」を生みだす代わりに、大きなヒズミを同時に生みだし続けている社会です。だから結局は大きなヒズミが常に「今」に存在し続けているのだから、本当の意味では「良い結果」は出ていないのです。
ある目標を達成するために、「悪い結果」と「良い結果」を同時発生させている。試行錯誤の過程としてそれ自体は仕方のない事だとしても、「良い結果」だけしか存在しないかのように「都合が悪いもの」を透明化したり隠すことで排斥している、
ですが「過程=過去」を大事にするならば、「結果=今」だけを見るのではなく、そこには後悔や反省が生じてくるはずです。
そして「過程=過去」を無視しないのであれば、最速で「結果=今」という目標が達成されなくとも、時間はかかっても、大きなヒズミも生まれにくいでしょう。
記事のラストに、もっと日常的なテーマで「後悔」について語るTEDの動画をひとつ紹介します。
キャスリン・シュルツ「後悔を後悔しない」
私たちは、後悔しないように生きろと教えられてきた。でも、それはなぜ?自身のタトゥーを例にとり、キャスリン・シュルツが後悔を受け入れることについて力強く感動的な主張を展開する。
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