失敗と創造性  行動・意志・好奇心

 

科学・自然法則での事実判断というのは、「誰にとってもほぼ絶対」が存在する領域なんですね。分野や研究対象の質にもよりますが、たとえば素粒子の世界だと、実験データの正しさは、3σ(99.7%)で「兆候」、「発見」と言えるのは5σ(99.9999%)が常識、といわれます。

とんでもない精度、限りなく絶対に近い次元の実証が求められるわけですね。

 

 

上の意見には大方共感しますが、しかし若い人だけでなく科学者や専門家も結構カルトに引っかかっていたし、やっぱりカルト信仰は多元的な力学で考えないと見えてこないでしょう。しかし一つの要素としては「わかりやすい答えを求める」というのはあるでしょう。

 

ところで私にとって神とは何か?それは「以下↓の動画のような人に宿る何か」です。私にはまさに「これぞ神!」っていう感じなのです(笑)

 

 

 

オランダの動物行動学者ニコ・ティンバーゲンは、コンラート・ローレンツ(刷り込みの研究者)やフォン・フリッシュ(ミツバチの研究)と同様に、近代動物行動学を確立した祖の一人であり、 そして有名な「ティンバーゲンの4つのなぜ」があります。

簡単に書くと、「至近要因、究極要因、発達要因、系統進化要因」の四つです。

 

「行動生物学のカッティングエッジ」 より引用抜粋

ティンバーゲンは、今では有名になった、動物の行動をめぐる四つの「なぜ」を提言した。これは、動物の行動を研究するときの問いの立て方により、四つの異なるアプローチがあることを示したものである。一つ目は、至近要因で、行動を引き起こしているメカニズムは何かという問いだ。

この答えは、神経系や内分泌系の働き、行動に関与する遺伝子などの解明である。二つ目は、究極要因で、至近要因であるメカニズムも含めて、そもそもなぜ行動がそのようにできているのか、究極の理由を探る。これは、その行動がどんな機能を果たしており、どんな淘汰上の有利さがあったから進化してきたかの解明である。

三つ目は、発達要因で、成体の完成された行動が、どのような発達上の経路を経て成立するようになるのかの解明である。ここには、成長と発達や、学習による効果などが関係している。四つ目は、系統進化要因で、ある種に見られる行動が、その祖先種のどのような行動から派生してきたのか、系統的な進化の道筋の解明である。

ティンバーゲンは、この四つの「なぜ」を明確に区別することの大切さを指摘した。つまり、それまでは、この四つのアプローチが混同されていたため、しばしば、議論が噛み合ないことがあったのだ。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「行動生物学のカッティングエッジ

 

生き物の「何故?」は様々でしょう、たとえば人、動物は何故眠るようになったのでしょう?「眠り」の至近要因としてのメカニズムはこのブログでも書いていますが、究極要因はなんでしょうか? ⇒ 動物はいつから眠るようになったのか? – 脳のないヒドラから睡眠の起源を探る

 

「記憶」って何なんでしょうね、「記憶という概念」そのものを根源から考えると、それが脳だけに還元できるようなものなのかどうか、私は記憶に関してはちょっと特殊な感覚を持っているので(ここでは書きませんが)特にそう思うのです。⇒ 脳がないのに記憶をもつ粘菌がいると判明

 

ただ「生物だけ」を観ていては、全ての何故には答えられません。「地球、宇宙の壮大な運動」によって、突然降りかかってくる巨大な自然現象、予期せぬ環境の変化が、一気に生態系を変えてしまう、という「動的な場」のゆらぎが存在します。

たとえばこれももそうですね、最近の研究結果ですが「地磁気逆転」は生態系に非常に大きな影響を与えたようです。⇒  「4万2000年前の地磁気逆転が地球環境を大きく変化させた」との研究結果

 

失敗と創造性

「失敗は悪いことではない」「どんどん失敗しなさい」、とこのようなことが創造性の文脈ではよく語られますが、実は「私たちの身体」も「毎日失敗している」のです。

 

人の身体を構成する30兆の細胞の1%強に相当する3300億個の細胞が毎日入れ替わることを繰り返し、DNAを複製するときに、DNAポリメラーゼが約10万塩基の合成に1回の割合でミスを起こすといわれています。(DNAポリメラーゼには「間違いを修復する機能」まであり、その結果ミスの頻度は1000万塩基に1回に修正されます。)

この物凄い量の仕事を、「身体」は驚くべき精度で「休日なし」で毎日無意識に行っていること自体が神業であり、私にとっての神である「緑の窓口のお姉さん」もビックリな能力です。「身体」は物凄く仕事が出来る奴なんです(笑)

「身体ってスゲェ、でも身体が毎日失敗していることと創造性に何の関係が?」と思うかもしれません。しかも「DNAのコピーのミス」がガン細胞を生み出す、ということは良く知られていることです。(健康な人でもガン細胞は1日に数百~数千個生じるといわれています)

「やっぱダメじゃん、ミスはマイナスでしかないじゃん」、とここまでではそう思うでしょう。しかしこのミスによって「生命は進化し続けている」のです。進化は身体そのものが変化していくことであり、エラーゼロの完全なコピーの連続では進化は生じません。

ミスがあるから違うものが生まれる。私たち人類も「失敗」の連続の結果に生まれた失敗作のひとつなのです。生まれながらに失敗なので、失敗を恥じることはありません。たとえば「蛍はなぜ発光能力を獲得したか?」それだって遺伝子コピーミスの結果なんですね。蛍も失敗して何か光っているだけなのです(笑)

 

遺伝子コピーミスで発光 ホタルのゲノム解読し判明

 

そしてクジラ先輩のように、ミスを克服した存在も現れるわけです。トライ&エラーの繰り返してクリエイトされる、生命とは芸術そのものでしょう。⇒ 細胞をたくさん持つクジラが「がん」にならない理由を解明! 人間の治療にも役立つ発見

この世界は壮大な失敗作です。まぁ人間の世界では一応、成功と失敗が相対化されていますが、相対的に今は良く見えても状況が変わればそれだって大失敗となり、「他の大失敗的な存在」が未来においてはより成功的な進化的な存在になる、という反転だってありえるのです。

 

ico05-005 完全であること自体が、不完全なのだ。  (ホロビッツ)

こうやってホロビッツの言葉を読むと、何か凄い真理にも聞こえてきますね(笑)

 

「成功」「進化」とは、失敗から脱したのではなく、それ自体が失敗の過程の真っただ中にあり、「多数の失敗の中でも相対的に他の失敗よりいい感じがする失敗、現時点ではより適応的な失敗」=「成功と呼ばれる」あるいは「より高度に進化した存在とかいわれる」、というだけのことです。

「みんな違ってみんな失敗」ですね。他者との比較なんて「失敗作の背比べ」でしかないんです。

コピーのエラーは短期的な視野ではただの失敗、マイナスに見えますが、長期的な視野で観れば「進化」あるいは「変化」「変容」への可能性のためのゆらぎ、であり、このゆらぎを止めるというのは(失敗ゼロ状態)可能性を失う、ということです。

「遺伝子」の単位における「生物学的個性の多様性」はSNPによって生み出されます。全ての人が「誰とも異なる個性」なのです。生命は絶えずゆらぎながら多様性としての個を創造し続けています。

 

『生き物の特徴を決める最小の変化』とは、一塩基多型(single nucleotide polymorphism;SNP)のことですが、SNPの話を理解するために、まずは遺伝情報がどのような流れで生体中において利用されているのか解説します。たった1塩基の違いで分かれる未来

 

◇ 関連外部サイト記事

BDNF遺伝子多型がPTSDのネガティブな記憶バイアスに関わることを発見 – PTSDの病因解明や治療法開発に役立つ可能性 –
DNAの傷を修復
〇 ヒトは太陽系をはるかに超えるサイズのDNAを内包する生命複合体である
ヒトの体の細胞数は30兆 そのうち毎日入れ替わる数は?

 

「私」なんて足元にも及ばないくらい、「身体」は失敗しながら創造する生まれながらにクリエイティブな奴なんです。「失敗」という漢字は「失う、敗れる」という一見すると残念な漢字で構成されていますが、同時に「失う、敗れる」というこの残念な状況ゆえに、可能性が訪れるのです。

身体は安定・恒常性を維持しているだけではなく、エラーによって破壊しながら創造している。

 

 

行動と意志と好奇心

 

ico05-005 人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。(坂本龍馬)

ico05-005 人間の運命の大きな改善は、彼らの考え方の根本的な構成に大きな変化が生じない限、絶対に不可能である。(J・S・ミル)

 

上の名言は確かに相対的な真理でしょう。そしてそれだけでなく、「場、環境を変える」、「付き合う人を変える」、というだけで結果や状況が大きく変わることもあります。(もちろん良い悪い両方の意味で)

脳科学の池谷教授が言うように、「動かないとやる気は出ない」というのは実体験での観察からも脳科学的にも事実のようです。過去記事でも書いていますが、動くことが先で、後はその過程で現実に生じる課題に対して試行錯誤していけばいいのです。先に考え過ぎない、ということ。

「無心」で考え過ぎずにまず動けば、やる気は出てくる、どのみち現実の課題に突き当たる、それも無心で動きながら取り組む、そうやっているうちに身体が無意識が「学習」していくんです。

「やっているうちにやる気が出てくる」、これを「作業興奮」と呼び、発見したのはドイツの心理学者エミール・クレペリンです。つまり「意志の力」で行動を起こす、ではなく、「意志の力」は「行動」に伴って生じる、ということです。そして「行動量」は創造性とも関連するんですね。

 

 

しかしやる気の熱量は変化しやすいものです。熱量の高い「情熱」はどのようにして生まれるか?それを高橋祥子さんは、情熱は「未来差分+初速」から生成される、と語ります。⇒  情熱が脈動する鮮麗な世界に生きるための、未来差分と初速の考え方

 

また感情は揺らぐものです。オードリー・タン氏の感情への対処が書かれている記事の引用ですが、これまさに「無形のマインドフルネス」なんですよね。

そうですね。私も人間なので、感情の整理に時間を要することがあります。そんな時、私は“お茶”を淹れるんです。 例えばネットで不快な言葉を見つけた時は、2種類の茶葉を組み合わせて、新しい味を生み出します。 まだ経験したことのない新しい味を経験することで、怒りが上書きされるんです。それから気持ちが少し収まるのを待ち、感情を整理しながら、聴いたことのない音楽をかけたりする。

⇒ 【オードリー・タン】「共通の価値」を生み出す、“7つの流儀” 

 

そして「運命」は内外の相互作用だから、内側(考え方)が幾ら素晴らしくても、外的に条件を全く満たさない環境では、思考を実現化できないですが、「場、環境を変える」「付き合う人を変える」で変化します。

 

今はネットがあり、いろいろ工夫すれば、無料で、あるいは少ない投資でも始められることも増えています。いえ工夫次第で始められるのはネットでなくても変わらないし、どっちにせよ試行錯誤、アイディアは必要でしょう。

 

以下に紹介の動画、中古の激安ギターでパソコン一台、それでもここまで仕上げちゃいます。マイキくんは本当にええこと言うなぁ~、動画見てると楽しいし、言葉が体にスッと入ってくる。

学校の音楽の先生とか、かえって音楽がつまらなくなるので、もうそこで「音で楽しむ」=音楽、からズレちゃってるんですよね、仮に生徒がそういう感じなってしまうのなら、その人達は専門かもしれませんが、「身体が音楽になってない人達」なんです。

人間は原始時代から、辺境の地でも踊って歌って楽器作って弾いてきたんですよ。体が何か勝手にやっちゃうのが音楽でしょう。

 

 

ところで、「カルマ・因縁」という概念を現代的に考えて使うと、 「関係性の組み合わせと作用と反応」がカルマを形成し、因縁としてループすると捉え、それを「私」の条件付け、とここでは表現します。これが「動的な業」を形成し、環境が「私」を支配する構造から出れなくなるのです。

いわゆる「スクールカースト」とかもそうですね、学校等の関係性、様々なコミュニティで生じるあの奇妙な場の力は、この力学で「私」を支配するのです。「私」は下位でも上位でもないのです。しかし「私」は下位に条件づけられ、下位の反応をすることで自らを下位にする、それが動的な業となって卑屈な「私」を再生産し続ける。

なので「私」を意志で変えるのではなく、関係性の組み合わせを変えれば「私」の条件づけが変化し、因縁のループを外れるので、「私」は変わる、ということ。そしてさらに「外的条件と内的なものが調和する時」に、良果が生じる、生じやすくなる、ということですね。

論より理屈より「行動」でしょう。

最近ネットで「非モテ」論争みたいなものが起きていますが、「確率的に低い」のは確か、というだけで、しかし世の中は思ってる以上に広く、人の好みなんてかなり多元的なので、最初から「平均的に生じやすい現象」であまり決めつけずに行動すれば、ピタッと来る人、上手くいく人は現れることは大いにあります。

 

 

平均で考えればマイナスでも、「同じ行動」がある人にはとても可愛く、とても素晴らしくも見えるのものなんです。そういう組み合わせが見つかるまで若いうちに、出来れば年を取る前にトライすることですね。この組み合わせというのは異性、人間に限りません。仕事や場所、人によっては「生き方」かもしれません。

「行動している人」、「まだいろいろと不十分な感じで何か必死な感じの人」を笑う人も確かに結構いますが、そういう姿勢が悪い印象にならない、良い印象になる場合だってあるんです。

「運」が良くなる方向に行動して「確率を変える」ことだってできるのです。でもあまり斜めに構えすぎると、自分で壁を作ってしまい、可能性が観えなくなってしまうんですね。

それを身体が学ぶとき、「意志の力」で変わっていけるのです。「私」よりも前にあるものが学ぶことで、意志は初めて「私」を動かすことができる、これが無意識の学び、意識化です。その範囲が大きいほど自由度は大きくなる、ということです。

 

高橋祥子さんの著書「生命科学的思考」の中で、「自由意志が存在するかどうか」よりも、「自由意志が存在すると自身が思うかどうか」が、実際の本人の自発的な行動に無意識に影響を与えていることが、脳の活動を測定することでわかった、と書いていますが、ここは私も同感なのですが、

そして「生命原則」に歯向かう力が存在すると思うことが、「遺伝子」に歯向かう力、「ミーム」に歯向かう力になる、ということで、これは前回書いた「野生」にも繋がる話なのですが、

このドーキンス的な思考の型というのは、西洋的なロゴス的知性のひとつの結晶でありつつ、同時に「歯向かう」という二項対立性が、「無意識においては西洋のミームに支えられている、そこから進化したもの」、というパラドックス構造にもなっているです。

つまり、「歯向かうことも含めて」、「歯向かっているミームの内から進化した思考」という構造です。そこからクリエイトされたものの一種なのです。

「野生の力」は対立的な性質ではなく、それ自体はミームから生じたものではないのです。その根源的な力に触れることで「偶然性」を含めた観えざる意志そのものを活性化する、実存の内奥にスポットを当てているため、「ミーム以前」の創造性の源泉なのです。

「好奇心」「楽しむこと」の力は創造性の力を落とさない、それが無意識のリズムを躍動させ続けることで「私」が突き動かされる、その意味で孔子の名言「知る者は好むものに及ばず、好むものは楽しむものに及ばない」は私のようなタイプには一番響く言葉ですね。

 

ico05-005 これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず(孔子)

 

 

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