天の道は、利して害せず、人の道は、為(な)して争わず
天の道は万物に恩恵を与えるだけで害を加えることはない。人の道は、与えられた責任を果たしながら人と争うことはしない。
生(しょう)じて有せず、長じて宰(さい)せず、これを玄徳と謂う
生むけれども所有せず、育てるけれども支配しない、これを玄徳という。
引用 ⇒ http://www5.airnet.ne.jp/tomy/koten/roshi/roshi_d.htm
こうして改めて読むと、老子は深いですね。
ではまず一曲、前回に続いて再び神凪さん、このバージョン気に入りました♪
【メタルアレンジ】魂のルフラン/高橋洋子(新世紀エヴァンゲリオン 劇場版 シト新生 Soul’s Refrain/EVANGELION)【歌ってみた】
「異能」というものは、現在でいえば「精神病」と定義されるものが多々含まれています。そしてよく精神障害は個性か?というようなことが言われますが、
短い時間軸、小さな空間性で観ればそれは個性ではなくただの病気でしょう。ですが人類・社会の歴史や、今なお近代化されていない世界を含んだ長い時間軸、大きな空間性で観れば、個性ともいえます。ニンゲンから観れば病気、ヒトから観れば個性、ということですね。
〇 人類で進化し、多様性が維持されている「こころの個性」に関わる遺伝子を特定
たとえば、人類学や進化心理学的な視点は、人間を観る場合の時間軸・空間性がもっと長く広いです。「現社会システムへの適応度」とか、「現社会の規範、価値基準から見た逸脱の度合い」でヒトを観るのではなく、
「何が正常か、何が健康か、何が善か、何が能力か、何が役に立つのか」などはもっと多元的なものであり、「非合理的」とみられるものにも深い意味があったりするんですね。
世の中に全然役に立たない、趣味としか思えない研究が、とてつもなく人類に貢献する技術体系を育てることになった事例を紹介。
それは、ミミイカという光るイカの研究。これがやがて、アレルギーや心の病にも深く関係する、腸内細菌などの研究にも波及していった。— shinshinohara (@ShinShinohara) November 24, 2020
「○○は科学的ではない」とか「医学的にみて○○」「常識的にみて○○」とかそういうことではなくて、「人間にとっての健康とはこうに決まってる」「人間にとっての幸せとはこうに決まってる」「人間にとっての普通、まともな状態とはこうに決まってる」というのは、
あくまで相対的で、観る側が先に条件を設定・固定しているからそう言えるだけで、条件を変えれば、あるいは最初から違えば、全然変わるものなんですね。
ただそういう質の研究は、直近の課題の解決や、現社会での適応や利益になるような生産性に繋がらない、繋がるかわからないとして、あまりスポットが当たらないわけです。
今日は、精神科医 加藤 敏 氏の「統合失調症の現在 進化論に注目して – 精神神経学雑誌」を参考に、精神の病いや「異能」を観ていきますが、
その前に、「異能」と「異能的」を区別するために、このブログではもう古い過去のテーマでしかない「カルト」を再びサクッと扱います。
以下「統合失調症の現在 進化論に注目して – 精神神経学雑誌」より引用・抜粋
(中略)
ー 引用ここまで -
カルトタイプの人々は、現代におけるある種の「マージナルマン(周辺人・境界人)」、ともいえますね。そしてこれらのアージナルマンのトップになる存在は、異能的役割を「演じる」わけですが、
異能「的」と、「的」をつけたのは、カルトの中心存在は異能を持たないマージナルマンが多く、(たまに多少の異能を有する場合もありますが)
中でも「異能の知を概念でしか扱えないビジネス型の教祖タイプ」は、概念を超えた領域に対して全くの無知ゆえに、他所からかき集めた「他者のものである異能の知」とその編集で誤魔化します。
それとは異なり「本当の異能」は、「実際に通常とは異なる能力を持つ者」のことです。
「宗教カルト」の運動性を「無意識の側」から観れば、(統合失調症かどうかは置いといて)「無意識の反逆」ともいえます。
ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の視点でいえば、統合失調症も無意識の反逆なのでしょうが、無意識それ自体は「反」社会ではありません。無意識は「非」社会であり、概念以前のヒトの全体性です。むしろ社会の側(ニンゲン)が、「反ヒト」なんですね(笑)
カルトは集団運動として「能動的に主体的にそう在る」という点で、通常の個人の統合失調症とか精神障害の人々とは異なります。精神障害の無意識からの運動性は「中動態」的なるものがメインでしょう。
カルトには社会への能動的な反発や超越性があります。ただ『アンチ・オイディプス』の視点は、「無意識の側から観れば」、あるいは進化心理学的に観れば、ある面はそうとも言えるわけですね。
再び、「統合失調症の現在 進化論に注目して – 精神神経学雑誌」より引用・抜粋です。
ー 引用ここまで -
ところで、全く話はズレますが、バタイユの元妻の女優シルヴィアは、バタイユと別れてジャック・ラカンと結婚するわけですが、何だかドロドロとした因縁が深い「過剰な人達」ですね(笑)
「日常」から締め出された「異質さ」
「変性意識」も過剰です。変性意識は「去勢化された無意識」が、「過剰さ」によって去勢を解除し現出してくるものでもあり、太古の人類の無意識、さらに生命の無意識まで含む場合があります。「変性意識」は多元的であり、「日常」から締め出された「異質さ」の現れ、でもあるのですが、
しかしこれをあまり詳しく書かないのは、「変性意識」というものがあまりにも神話化されていたり、特殊能力のようなものとして単純化された極端な情報が氾濫しているゆえに、変性意識という概念それ自体が変性する、という変な状態になっています。
そういう状況で同じ概念を使うことは、人によっては混乱を生じさせるからです。しかしそういうトンデモ現象も、ある種の「過剰さ」ゆえのことであります。
バタイユの内的体験は、日常(ケ)に締め出されたもうひとつの領域、無意識(ハレ)の内奥に目を向けます。人間は俗にのみ生きているのではなく、同時に非日常性を生きているのですが、非日常性も多元的な領域なのです。
再び、「統合失調症の現在 進化論に注目して – 精神神経学雑誌」より引用・抜粋です。
(中略)
(中略)
ー 引用ここまで -
「異能の知」は概念、読書体験等では得られない質のものであり、身体性から生じます。またそれは変性意識が使える、自然に生じる、ということが前提であり、たとえば「神秘体験」というのは、変性意識によるものです。
「異能の知を概念でしか扱えない教祖」に集まるカルト系の人達の神秘体験を、私は沢山見聞きしてきましたが、それらは「通常の無宗教の人でもよくおこる凡庸な神秘体験」です(極一部の先天的なものがある人は除く)、まぁその意味では普通の人なので安心してください(笑)。
「異能」は実際にかなり異なる脳・身体の使い方をしています。なので身体の内的状態がその状態になって初めて「その人にだけ明かされる」、そういう質のものなんですね。
その時にそれは「知」としての確かなものになります。これは昔の「免許皆伝」に似て、「身体知を伝える」「異能の知を伝える」という作業は、高度に感性的な伝達で行われる特殊な知の贈与です。
「一般的な統計範囲のものではない特殊な神秘的な体験」は、「身体」の次元においても特殊であり、その特殊な身体内の運動でしか生じません。
そのような身体は、先天的なタイプと後天的なタイプがいますが、後天的なタイプにせよ読書だけでは異能の神秘は生じません。先天的なタイプの場合は宗教的実践とも特に関係ありません。