「平成で失われたもの」それは何だろう、山崎豊子さん的な人間のリアル感、人間という多面的複雑系が、綺麗な平面的な二元論で単純化して語られるようになったように感じること。
かつて海外からは、「平たい顔族」と感じられたこの国の民の精神は決して平たくなかったが、「平たく成る」の「平成」の作用なのか、形而上においては「平たい一族」となった。
101回目のプロポーズは、昭和では通用した世界観だが、平成の世界においてその行為は、双方の指にリングがはめられることはなく、男性側の両手に鋼鉄のリングがはめられるだけだろう。
財前も浅見先生も、単純な白黒/善悪に切り分けられる存在ではなく、山崎豊子さんはもっと深く多元的な視点から二人の人間を捉えていた。
だが平成では、「志が高く心が綺麗な浅見先生」、「強欲で醜い財前」というような、人間という多面体、そして現象の多元性を見る眼差しを徐々に失い、
人々は二元論的眼差しで対象をステレオタイプな白黒の存在・現象としてに性急にカテゴライズし、同化・排斥を行う傾向が高まった。
と同時に、一見すると昔よりも潔癖な感じで非暴力的で真面目でキチンとしている感じの人は増え、凶悪犯罪も減り町も綺麗になったが、しかし、平成から「おおらかさ」は失われていった。
昭和には昭和の闇があったが、平成にはヒトの闇が薄くなった分、ニンゲンの薄気味悪さは増した。
何故か?そこもかしこも小綺麗になったし物事は早く正確で合理的で便利になっていったし、目に見える暴力は減ったのに。そして犯罪も減ったにもかかわらず不気味さと薄気味悪さは増していく。
締め出された闇はどこに向かったのか?そもそも闇とは何か?
平成には泥と土の匂いがしなくなった、昭和には友川カズキさんのような大人がどこかの町の片隅に公園に必ず佇んでいた、そしてたまに、「そこの若いの」と声をかけてくる、そんな風景があちこちにあった。
昭和にはまだ多くのアジールがあった。町にも川にも漂白されていないヒトの詩がぽつりぽつりと点在し、それは誰かと偶然性の中で度々交差した。
「一人ぼっち」や「団らん」も「夜」も「昼」も「夕方」も、何か全ての背景までもが、知らないうちに別の空間に移行したかのようだ。
「あれはあの時代は舞台セットだったのか、本物の現実だったのか?全部夢だったのか?」と思うほどに変わった。 そうして私は時折、かつて住んだ場所の近くを訪れる。
遠い記憶をたよりに歩き、あの場所あの建物あの店がまだ今も残っていることを知る。だがそこに立っても違う空間にいるかのようだ、生きた詩が消え失われたカタチだけの風景に触れても何も感じない。
同じ場にいても既に同じ場ではないことを知る。それは人に触れることと同じように。きっとあの人もまた既に同じではなくなっているのだろう。 でも今もあの頃のまま世界を見ている、とそう思い込んで。
友川カズキ『一人ぼっちは絵描きになる』
おおらかさが少なくてもバウンダリーがシッカリしていれば、自己と他者の課題を分離できるし、異質な他者の存在を認めることはできる。
しかしおおらかさもなくバウンダリーも弱い場合、異質な他者は存在しているだけでも不快になりやすいので、必然的に過剰な排斥が生じる。
ネットも変わった。かつてネットは変人・奇人、様々なアウトローたちのアジールのひとつだった。
いつから過剰な善悪二元論の空間になったのか?生真面目な連中の声のデカい感情的な説教臭い言葉が飛び交い、リアルと変わらなくなっていった。
いつからネットは、「道徳的に人道的にどうか?の倫理・規範にうるさいネットPTA」が監視するような、「誰もくつろげない都会の公園」みたいになったのか?
かつてネットは、「140文字で社会運動」の半端な意識高い系が興奮した甲高いテンションで物申すような、学級委員の仕切る場ではなく、グレーなものが溢れた多様なカオス空間だった。
この世から締め出されたアジールがネットに現出した、はずだったが、瞬く間に「マジョリティ社会と常識」が上陸し進出してきて、
そして企業家は未開のネット地帯の斬新でユニークな創造性・文化を金の生る木として、
そして異質なマイノリ原人たちに対しては「マジョリティ社会と常識」による同化政策が行われ、その結果アジールの中でくつろぐネット原人たちは野蛮で下等だと嘲笑・迫害され締め出され、
そして「この世の正義」のインテリ学級会たちに再教育され、僅か十年足らずで原人たちは文化を根こそぎ奪われた、かのように思えたが、
そうはならず、原人はオタク一揆、ネット事変を繰り返しながら人類最後の形而上の秘境エリアを死守した。
しかし同化政策は続き、隅々まで綺麗に舗装されアカウント監視カメラが設置され、自由に言動すると通報され袋叩きににされる、ガチガチの第二のアサイラムが建造された。
右や左や、「自称そのどちらでもない人(本人はそういうが、政治的なテーマに対しての価値判断に明らかに左右どちらかの偏りが見られる)」、これ等の人達による、己が価値判断の押し付け合い合戦の息苦しい空間ではなかった。
人間には遊びが必要だ、「こんな世の中なのに不真面目だ!不謹慎だ!」という人は、「こんな世の中だからこそさらに突き抜けた遊びが必要なのだ」ということがわからない。
突き抜けた遊び、現代においてそれは幼い子供のみ許されているが、大人にも必要なのだ。それを可能にする場が大人が入れるアジールなのである。