「悟り」と「自己統合・自己実現」の違い   近代合理主義社会の難点とパラドックス

 

「自己統合・自己実現」というのが「道徳教育」と矛盾するのは、「意識と無意識の関係」を脳科学・深層心理学で説明したことでも明らかなように、

自己実現するためには、その人の持つ固有の能力・適正が発現し育まれなくてはいけませんが、それは顕在意識だけの問題ではなく意識を含んだ問題なのです。

そして「自己統合」も顕在意識だけの問題ではなく無意識を含んだ問題で、それに対し現在の「道徳教育」は一方的な条件付け・方向付けでしかないんですね。

ところで「調和した自己統合」と「硬直した自己統合」は異なるのですが、今回はそれには触れません。

 

顕在意識というのは、無意識をまとめ統制するためにあるのでため、顕在意識に対して繰り返し言い聞かせるような「道徳教育」は、表層だけを変えるだけであり、かえって無意識との矛盾が激しくなり、自己矛盾を深めて自我の分裂化状態(タテマエとホンネの大きな離)になるだけなのですね。

現在の「道徳教育」には一番根本な部分である「無意識への理が欠如しているんです。「ヒトの全体性」を理解しないでヒトを育てることが本当に出来るでしょうか?

自己統合には無意識の理解が欠かせません。同じく「自己実現」にも無意識の理解が欠かせません。ところが現代社会は無意識を単に抑圧し、責め、顕在意識にコンコンと正論を言い聞かすのが教育だと思っているので、

現代社会では多くの人が「自己統合」も「自己実現」も逆に出来なくなっているのです。幸運な一部のヒトだけがタマタマそれが出来るに止まっているのですが、

そういうヒトはむしろ世間一般とはちょっと異なる変わった感覚のヒトが多いです。そして世間とは異なる変わったヒトが、実に素晴らしい能力を発揮したり人格を形成したりする矛盾が社会にはよくあるわけです。

 

受動意識仮説・クオリアと「止観の瞑想」「悟り」

釈迦がサマタ瞑想の後にヴィッパサナー瞑想で悟ったというのは、脳科学的・深層心理学的に見ても、ある程度は理にかなっているともいえるんですね。

サマタ瞑想だけでは悟れない、だが、もし初めからヴィッパサナー瞑想だけだったなら、受動意識の構造上、まだ無意識の働きが強すぎて、クオリア(映し出されたもの)のリアル感に瞑想者は惑わされ、それでは到底、意識の全体性を見ることは出来ないでしょう。

苦行の本質というのは無意識を抑えつけることでしかありません。そしてなぜ苦行をするのかといえば、「無意識の内容が表層に影されてくるという受動意識の構造」「昔からヒトは感性でっている」からであり、

だから「無意識こそ諸悪の根源」と言わんばかりに、自己との戦いのようにしてそうする、ともいえるわけです。

ですがどれだけ無意識を抑えつけ自己との戦いに明け暮れても、「無意識の内容が、表層に投影されてくる」というその構造自体が変わるわけではないのです。

だから無意識をいくら抑え付け弱めても、構造上、ヒトは悟れないのです。ですが、無意識の内容の粗く激しい要素が弱められ意識の浄化の過程)、そして相対的に無意識から表層への投影が穏やかになる(意識の清さ)

その結果として、意識の全容を微細に見つめることが徐々に可能になってくるわけですね。

サマタ瞑想と苦行により、意識の浄化が無意識の深い層まで達成された釈迦は、そこで苦行を捨て、その澄み切った意識でヴィッパサナー瞑想を行ったことにより、意識の全容と構造をありのままに見たのではないか?と考えるわけです。

つまり脳科学的な構造・深層心理学的な学術的な概念的理解ではなく、意識の全体性を感性で直接知覚したのが釈迦の悟りと仮定してみたわけですが、

そこに至るメカニズムを仮定として説明は出来ても、釈迦の悟りを本当に自身が理解することは、相当に難しいことでしょう。

 

「悟り」と「自己統合・自己実現」の違い

「悟り」と「自己統合・自己実現」の違いは、「悟り」は意識・無意識の全体性を知ることそれそのものであるのに対して、自己統合・自己実現は、理解された無意識の機能や力を統合し意識化し、現実に還元する方向性であることです。

つまりキリスト教圏が仏教圏よりも文明を発達させたのは、「悟り」を目指す方向性ではなく「自己統合・自己実現」を目指す方向性だったから、ともいえるんですね。方向性としては自己統合・自己実現であるが分離的、硬直的な質である)

何故、仏教はインドで衰退し、また東南アジアなどの仏教国は、キリスト教を中心とする西洋の先進国の文明の発達と比べて差が開いたのでしょうか?また道教(タオ)の概念も、中国では発展しませんでしたし、文明の発達には繋がっていません。

本来の仏教は本質が非宗教的であるのに対して、(現代仏教とその組織は、世俗的で文化的な宗教的なものですが)キリスト教を始めとする宗教は最初から宗教らしい宗教であり、

集合的な無意識を肯定し、その無意識の力を強めつつ、さらにそれを人間の世界に還元するという、仏教や道教とは真逆の方向性を持っているんですね。

そして無意識の力をより人間的なものに還元する要素、その分離性が強いのがキリスト教です。

通常、宗教は民族的・種的・生物学的な集合的無意識から生まれのに対して、釈迦の悟りや老師のタオというものは、集合的無意超える概念であるため、非宗教的と言える。

その意味でタオ・ヨガも宗教的な要素以外に非宗教的なものを含んいる。だがそれはあくまでも釈迦の悟り、タオ・ヨガの本質がそうなのであって、

組織としての仏教や、バラモン教・ヒンドゥー教と一体化したヨガ「文化的・政治的・組織的・民族的」な集合的無意識を含んでいるために、宗教的なものです。

「内的な自然界」が抑圧化された過程

アニミズムの時代には、まだヒトは「地上の他の生命・大自然の無意共有された民族的・種的な集合的無意識」と自我が一体化していたため、無意識は「内的な自然界」として生き生きと機能していました。

そこに、より精神的な神と宗教が登場します。精神的な神と宗教の目的は、ヒトという生命存在の集合的無意識の全体性 =「内的な自然界」の中から、「他の生命・大自然の無意識と、より原始的な本能的な無意識」の要素を分離させて、

民族的・人間的な集合的無意識を中心に置く観念を具体化することでした。そしてここには西洋と東洋で大きな民族的な違いが存在するんですね。

「近代化・グローバル化・西洋化する前の東洋的な人間観は、人間を自然と対立するものと考えず、人間は自然に含まれるものと感じる傾向が色濃く残存し、

無意識という内的な自然に対してもそれは同様だったのです。今でも日本や東洋でアニミズム的な世界観が色濃く存在するのはそのためです。

西洋では人と自然を対立的に捉える傾向が強く、それは意識と無意識の関係性においても同じです。無意識は「内的な自然」であり、無意識は顕在意識の理性の働きにって征服・克服・統制されるべき対象という思考の型。

キリスト教もまた、私たちヒトが誰でも有する無意識の全体性を分離化した集合的無意識から発生したもののひとつなので、「他の生命・大自然の無意識と、より原始的な本能的な無意識」を、「悪魔・闇・獣・異端・魔術・野蛮・未開」として対象化し排除し抑圧化するんですね。

これは西洋の、そして近代の合理主義の主要な道徳観にも引き継がれています。キリスト教のこの試みは人間中心社会(主に白人優位的な社会)を作る上では確かに有効に機能しました。

ですが、「もともとは全体性として存在するヒト」の無意識を光と闇に分け、神と悪魔に分けて戦わせるという自作自演的な葛藤状態は、私たち人間がもともとは何だったのか?を忘れさせてしまい、内外に分離したヒトが互いに争う世界を顕現させた原因にもなっている。

このように東西の違いはあれど、民族的・種的な集合的無意識を中心とする宗教発生時の最初の目的は、発達した社会的組織と個の調和や秩序のために必要とされた、公的な「無意識の調整システム」の創造であり、

民族的・種的な集合的無意識から神の元型が生じ、神の元型から義・宗教的世界観・象徴イメージが生じ、そしてそれが宗教的道徳となって、具体的な選択として現象化するわけです。

と同時に、民族的・種的な集合的無意識から生まれた神の生命力を高め、民族的・種的な中心力を形成することで一体感と繋がりをより強く作り出し、自我同一性(アイデンティティ)を安定化させる保護作用にもなっていたわけですね。

そして安易に「他の生命・大自然の無意識と、より原始的な本能的な無意識」に一体化しないように守る機能を果たしてきたのです。(あくまで社会化された人間の目線からみれば、という前提ですが。)

無意識の領域は確かに、「悪魔・闇・獣・異端・魔術・野蛮」という形容にふさわしい要素も存在し、そこにダイレクトに繋がり一体化することは、人格を破壊狂気や猟奇性などとして現れる危険性があります。

アニミズムやシャーマニズムの時代でもそのことは感性的に理解されており、たとえば「自我崩壊からの保護」として悪魔払いの儀式など、素朴な形で確認できます。

そして一神教多神教の違いは、どちらも集合的無意識ではあるのですが、一神教はより民族的・種的な分離性の強い集合的無意識であり、それは他の集合的無意識への排他性と区分けを生じさせますが、

多神教は様々な集合的無意識を包含するという意味で、より総合的な集合的無意識です。

 

近代合理主義社会の難点とパラドックス

近代合理主義社会の難点は、宗教がかつての公的な立ち位置を失ったことによって、公的な形での自我同一性(アイデンティティ)の保護作用と、無意識の繋がりのシステムを社会が持てなくなったことがひとつと、

これはキリスト教的な分離的な世界観にも言えるのですが、道徳や近代社会が過剰に抑圧化している「他の生命・大自然の無意識と、より原始的な本能的な無意識」は、ヒトの「内的な自然界」でもあり、

「大自然とリンクしてい生命に不可欠なもの」でもあるのです。よって一方的に抑圧化された内的な自然界から、様々な形で負の反動が噴出してくる。

そこでおかしなパラドックスが生じます。

「内的な自然 = 無意識」を「悪・闇・異端・野蛮」と攻め排斥し敵対視している「意識 = 善・光・道徳・理性」の働きこそが、ヒトの内的な自然界を破壊し、逆に本当に恐ろしい「悪魔・闇・獣・異端・野蛮」を現象化させるというパラドックスです。

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