今回は前半で「現代思想と現代」をテーマに、「現代思想入門 千葉雅也」を参考にしながら考察し、後半で「ルサンチマンとクリーン化」をテーマに考察しています。
ではまず一曲Rod Stewartで「I Don’t Want to Talk About It」です♪
「現代思想入門」
千葉雅也さんの「現代思想入門」は現代思想のツボみたいな本で、「現代思想の経絡を知る哲学の鉄人」にツボを突かれた者は、名人にツボを押してもらって全身の気の流れが良くなって気持ちよくなるのと同じように、「思考の流れがよくなり気持ちよくなる」、まぁそんな「気持ちのよい本」でした。
カントは『純粋理性批判』において、哲学とは「世界がどういうものか」を解明するものではなく、「人間が世界をどう経験しているか」、「人間には世界がどう見えているか」を解明するものだ、と近代哲学の向きを定めました。 『現代思想入門 P.130』
カントの定義する哲学というのは、「世界・宇宙の真理とは〇〇なり!」と完結して語るような宗教家や信者たちとは異なるわけですが、カント以前の哲学は「世界はこうだ!」という「独断的形而上学」でもあったわけです。
ではカントの後に現れた現代思想とは一体どのようなものでしょうか? それが『現代思想入門 はじめに』において簡潔に書かれてます。
「20世紀の思想の特徴は、排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定したこと」『現代思想入門 P.14』
「逸脱をポジティブなものとして考える」、「秩序を作る思想」だけでなく「秩序から逃れる思想」も必要というこの視点、これは道徳、善、正義、社会性、常識とか、そういう「正しさ」やそれへの適応の文脈においては見過ごされがちです。
そしてルール・規則というのは社会に必要なものですが絶対普遍ではありません。本書「はじめに」にも書いているように、「ユダヤ人の迫害も法によって遂行された」わけですね、つまり迫害を止めるには「法への逸脱」が必要になるのです。
「逸脱」によって「管理された生」「社会秩序」の「外」に出る、そこには創造性の作用が働いているというこの視点は、人間存在の多元性を考える上で大事なものなんですね。「規則のパラドックス」について本書では、飯田隆「規則と意味のパラドックス」が紹介されています。
現代思想ではそういう「外れたもの」「白でも黒でもないもの」を観ていくということですが、だからといって悪を全肯定し積極的に推奨しているわけでもなく、「無制限の価値相対主義」ということでもないんですね。
現代思想(ポストモダン)は相対主義的であるが、単純に何でもOKということではなく、『いったん徹底的に既存の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができるのだ、というのが現代思想のスタンス 『現代思想入門P22』
「これは善であれは悪」、「これは存在していい、あれはいらない」「これは必要、あれは無駄」、「これは正常あれは異常」など、
そういった二項対立での白黒二元論で物事をスパッと二つに分けたがる思考は今も変わらずに強固に存在しますが、人間にせよ現実にせよ両義的であり複合的な力学の作用の中で成り立っています。
二項対立の白黒二元論で観るのではなく、「差異」にスポットを当てる、特に「排除される余計なもの」にこそ、白黒に収まらない「グレーゾーン」にこそリアリティがある、この視座が現代思想の好きなところのひとつですね。
「生」というものは「社会」に収まらない、それよりも深いものに根差し、それよりも多元的であるから、常にそれをはみ出していくものです。言い方を変えれば「生」の中に「社会」がある。
「社会の中にそれを全て閉じ込める」ということは、管理・去勢化された存在が、権力へ自発的に隷従しているあり方でもある、ということですね。
現代思想の「秩序から逃れる思想」と「芸術の社会的価値云々の本質的矛盾」に関する話は似ていますが、異なるのは「芸術的思考」はそもそもが秩序の側にはなく、「生」の側にそのまま宿る原初的な思考で、そこから生じるものゆえに常に「逸脱」している。
その意味で、現代思想は「芸術的思考」を含めた「生の側」にスポットを当てて思考するアプローチでもあるといえるでしょう。
現代思想とは差異の哲学である。『現代思想入門 P.36』
千葉さんは現代思想を学ぶことで「複雑なことを単純化しないで考えられる」と語り、「単純化したら台無しになってしまうリアリティがあり、それを尊重する必要がある」と語ります。
「複雑なものを複雑なままに理解する」という知性は、解像度の高さという点で高度な知性です。同時に「他者視点」がちゃんとありスラスラ読めます。そしてこれもある種の知性なんですね。
哲学書は難解なものが多く、「複雑なものを複雑なままに理解する」の姿勢だと、全く消化できない異物を飲み込むかのような人に優しくない文章に溢れています。そのあたりのとっつきにくさを、千葉さんは勉学を通じて高めた強靭な消化力で分解・吸収し、誰でも飲み込めるレベルにアレンジして表現してくれている。
まさに「知性に溢れた人に優しい哲学入門書」でしょう。現代思想の代表者としてジャックデリダ、ジル・ドルーズ、ミッシェル・フーコーの3人が挙げられ、デリダは「概念の脱構築」、ドルーズは「存在の脱構築」、フーコーは「社会の脱構築」で説明されています。
第一章のデリダで、「二項対立の脱構築」、パロールとエクリチュール、そして第二章のドゥルーズでの「リゾーム」など、それぞれの哲学者の思考の型・概念がわかりやすく説明されています。
ところで、「二項対立」は世に満ちていますし、多元的です。たとえば、「孤独のすすめ」とか「友達なんかいらない」的な話を近年よく聴きますが、
「どちらがよくてどちらが悪いか」、「どちらが優れていてどちらが劣っているか」的な二項対立の文脈で語られているわけですが、
仲間とか友人って、悪い友達とか足の引っ張り合いみたいな蟻地獄みたいな人間関係ばかりでもない。見栄の張り合いみたいな空しい虚栄の関係性とか、負の作用しかもたらさないような「しがらみ」も世の中には多々あるけれど、「しがらみ」だってそればかりでもない。
いろいろ混じっている複合的なものであって、それぞれの個別の関係性において「ある関係性が○○である」、というだけであるのに、「誰にとっても○○は○○だ」的な普遍的な文脈に置き換えられ単純化されて語られ、二項対立の一方だけが過度に否定的に語られる。
しかし二項対立の文脈で、たとえば過去の日本の集団主義的なるもの、過度な「和」の意識へのアンチテーゼとして、個に加えられている強すぎる同調圧力的な力学を解体する過程は必要かもしれませんが、
同時にそれとは異なる在り方の長所や可能性も全否定してしまうと、「特定の属性とかあるタイプの人には最適」であっても、他のタイプの人にはきついんじゃないかな、と思うんですよね。
私は「孤独」とか「おひとり様」というあり方を肯定的に捉えている面も多いのですが、それを普遍化して「そうでない人、そうでないあり方」を価値下げしたり、他者に押し付けるのも別の同調圧力に過ぎないと思うんです。
これは「創造性」とか「知能・知性」のテーマもそうだし、他にも「善悪」「男女」「マジョリティ、マイノリティ」「昔と今」「合理性と非合理性」「科学と宗教」のようなテーマも同様に、
両義性・多元性・複雑さがあるゆえに、アンチテーゼを掲げたり逆に肯定したり、別の可能性を考えたり、白黒に割り切れないグレーな部分を観ることで「二項対立の脱構築」をしているのです。
話を「孤独」に戻しますが、個人主義化を進めてきた欧米でも、たとえば2018年、英国で「孤独担当相」が設置されたように、そこには大きな単位で現実的な「孤独」に関連した問題があるわけですね。
まぁ『世界一孤独な日本のオジサン』という本やイギリスの方法も、何かこれはこれできついなぁという感じはしますが。
「世界一孤独な日本の中高年男性 心を蝕む深刻な病」 より引用抜粋
「孤独は『心の飢餓』。それなのに日本では孤独を礼賛する風潮が強く、望まない孤独に陥った人が、支援を求める声を上げにくい」。こう指摘するのは、『世界一孤独な日本のオジサン』(角川新書)の著者で、日本や海外のコミュニケーション事情に詳しい岡本純子さんだ。
(中略)
特に岡本さんが問題視するのが、中高年男性の孤独が見過ごされている点だ。「本を出した約4年前、書店には『孤独はすばらしい』『孤独は男の勲章だ』という本が何冊も並んでいた。それは今も変わっていない」– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
デリダの入門書として「デリダ 脱構築と正義」、ドゥルーズの入門書として「ドゥルーズ キーワード89」等が挙げられています、こういうところも人に優しいですね。
第三章はフーコーです。「事物と表象」のズレ、「この二つをどうつなぐか」に関するフーコーの試みは、思考の型のイノベーションのひとつともいえます。科学や様々な専門知識等によって「世界は謎が減った」と考える人は、「思考の型」で観れば「近代以前のまま」の単純な思考の型ともいえます。
近代以後の思考の型は、「探求すればするほど謎が深まる」という逆説が同時に生じることを延々と突きつけられる。思考の複雑さゆえに自ずとそうなるんですね。
〇 隠されたものとしての事物の謎の追及は、「終わりのない任務」になる、つまりキリがないのだけれど続けるしかない。
〇 思考(表象)によって世界(事物)に一致しようと際限なく試みるが、結局は出来ない、というのが近代的な有限性なのです。
〇 カントも含めて知の近代化とは有限性の主題化にほかならない、ということを明示したのがフーコーの「言葉と物」なのです。 『現代思想入門 P.133、134』
フーコーの初心者が取り組みやすい本は「監獄の誕生」が紹介されています。フーコーの章で特に気に入ったのは「新たなる古代人」という表現です。
「新たなる古代人」になるやり方として、内面にあまりこだわりすぎず自分自身に対してマテリアルに関わりながら、しかしそれを大規模な生政治への抵抗としてそうする」『現代思想入門 P.106』
そして「それは新たに世俗的に生きること」だということです。
第四章のラスト「マルクス 力と経済」も非常にわかりやすく、「みずからの力を取り戻すという実践的課題」においてニーチェとフロイトとマルクスの合流する、という構造がわかりやすくシンプルに書かれています。
第五章はラカン、ルジャンドルと続き、後半部も滑らかに優しく書かれています。
「ディオニュソス的なもの」≒「抑圧化された無意識」、そして「ディオニュソス的なもの」を説明する中で特に気に入った表現が、物語的意味の下でうごめいているリズミカルな出来事の群れ 『現代思想入門 P.130』です。
ところで共産主義を掲げたイデオロギー運動は世界に実在するけれど、「共産主義そのもの」は未だ実現したことがない。逆にそれ以外の政治的な主義に関しては様々な社会で大方実現されています。
それが一番良いかどうかはおいといて、「質的にそれが現実的に可能なものだから実現している」ということです。ミクロな次元、小さな単位で生き方としての共産主義は可能でしょうが、マクロな次元で実現すること非常に難しいでしょう。
可能性としては、「共産党やその支持者」のような外発的な組織運動と観念的なフレームからの運動によっては理想の達成はないでしょう。
そうではなくその「外」に在る者たちに可能性が宿ると考えます。その者たちによる「小さな単位の生き方としての共産主義」が徐々に拡大していけば、長い時間をかけてマクロな次元においても可能性はゼロではないかもしれません。
そういう風に「外」から内発的・創造的にしか実現しえないもの、それが未だ達成されたことのない共産主義の姿でしょう。
社会主義に関しては、(全てではないですが)ある面においては日本は元々はかなり実現できている国ともいえます。日本がアメリカのような物凄い格差社会にならないのは、「資本主義とはいっても社会主義寄りなところがある」からでしょう。
そしてそれゆえに行き詰っている、という構造でもあるわけです。悪く言えば「資本主義にも社会主義にもなりきれないまま上下が分断している国」の弊害ともいえます。
〇 「日本人はみんな貧乏になる」岸田政権の”新しい社会主義”ではだれも幸せになれないワケ
上にリンク紹介の「新しい資本主義に関する一考察」は視点が鋭いですね。『資本主義的に運営されている「下半身」と、縁故主義的に運営されている「上半身」』という構図は的を得ているように思います。
そして周 来友 氏による「日本は世界に誇る社会主義国です」の記事のように、日本が「平等な社会主義の国」のようにみえたものは一面に過ぎず、
別の視点から見れば、「下」は「交換可能」な商品のように扱われる古典的な資本主義社会を生きていて、「上」は「縁故主義」がメインで手厚く守られていて、そんな資本主義の外部にいる「上」の意思決定によって日本の社会と経済は動いている。
大小の質的な差異はあっても、日本も中国も他の先進国にも上下の分断構造はあるわけですが、「下」からみた日本は「苛烈な新自由主義に見える」にもかかわらず、「上」は「資本主義的な競争の外にいる」かのような別ルートを生きている、という権威主義的なところが特徴的ということですね。
ルサンチマンとクリーン化
日本は「欧米ほどの格差社会ではない」、欧米ほど資本主義や個人の自由に振り切っておらず、表向きは階級社会のようにみえないが、実質的には上下に分断されている。
そこにキャンセルカルチャーだのウォーク文化だの特権理論だの権力勾配だのいって、「大して自由でも圧倒的でもない強者っぽい属性(マジョリティ)」をルサンチマンで叩いたところで、さらなる全体の地盤沈下しか生じない。
マジョリティ(中間層)の「上」にいる既得権益層は常にマイノリティ(少数者)。
話は変わりますが、日本は欧米と違って、「貧乏な家の子」よりも「頭のいい子」や「金持ちの子」の方が虐められる、という傾向があり、しかもそれは執拗で根深い質ということです。ルサンチマンがそういう属性に向かいやすい、ということです。ここにも日本的な上下の分断のひずみが投影されているかもしれません。
「日本はいじめの少ない国」。文部科学省や大手メディアは国際調査の結果をそう解説しているが、それは大きな間違いだ。統計データ分析家の本川裕氏は、「日本は他国に比べ、特定の個人をしつこく追い詰める“頻度の高いイジメ”が多く、また頭のいい子や金持ちの子が標的になるケースが多かった」という――。 引用元 ⇒ 日本で「貧乏な家の子」がイジメられない理由 「頭のいい子・金持ちの子」が標的に
とはいえ「ただそこに生まれてきただけ」の偶然性に対して、何か「存在それ自体がずるい」みたいに目の敵にされる、というルサンチマンでの疎外は、「相対的に恵まれた人」に特有のものであり、疎外にも多元性があるわけですね。
「何か虫が好かない属性」「何か鼻につく属性」とカテゴライズされて延々と一方的に行われる苛めほど、集団的な暗黙の合意によって不可視化されやすい。
しかも「相対的に恵まれた人」ゆえにそれを語っても共感する相手も少ないという点では、「辛さや疎外を共感してもらえる属性」よりも脆弱な面があり、しかも相手はその脆弱さを狙って突いてきたりもします。
欧米セレブと比較すれば圧倒的な階級というほどでもない日本の芸能界でも、週刊誌とか読めば、「ここまで書くか」とあることないこと書きまくっています。たまに裁判沙汰にもなりますが、多くはスルーでしょう。
ウィル・スミスの一件のような「コメディアンのブラックジョーク」なんてものより、週刊誌のゴシップ記事の方が遥かに酷いことを長々と書きまくっています。そしてゴシップの世界もある種の「逸脱性」ですね。
しかし日本の女優や女性の芸能人があることないこと書かれて、そのたびに夫や彼氏が殴りかかるか?といえばそんなことまずしないわけですが、
時代の流れにおいて、「○○のような低俗なものはこの世に存在してはならない」的な思考の傾向性は強まり、様々な方面で潔癖なクリーン化が進行しています。
まぁ週刊誌に関しては、これは酷いなぁと思うことはちょくちょくありますが、「ブラックジョーク」とか「風刺」というのは「ルサンチマンが昇華された文化」の一面もあって、「剥き出しのルサンチマン」よりも優しいものなんです。
「コメディアンのブラックジョーク」とか「ラップのリリックの毒舌性」と、「ただの罵詈雑言」が異なるのは、「ボクシングの殴り合い」と「チンピラが路上で誰かを殴りつける」の違いと似た質のものです。
そういうものに対して制裁として剥き出しの暴力を振るう場合、「制裁する側の方により強い権力性がある」ともいえるのです。プーチンとか金 正恩みたいな権力者がブラックジョークを言われたり風刺されればすぐに反応して暴力的に制裁するのと同様に。
そして「ルサンチマンが昇華された文化」の低俗性・逸脱性が許せないからって、あまりに抑圧化を強めて潔癖化すれば、逆に「剥き出しのルサンチマン」が本物の暴力として現れてくることでしょう。
ウィル・スミスの一件は昭和の時代であれば「双方どちらもが大した問題にはならないもの」だったことでしょう。
アカデミー賞のウィル・スミスの件がまだまだ騒がれてるけど、これにコメントを求められたマイケル・ベイ監督が
「そんなことよりウクライナで子供たちが酷い目にあってることについて話すべき。それに比べたら本当にどうでもいいこと」
ってコメントしてて本当にベイのこういうところ好き pic.twitter.com/ONIMJ1dskV
— 毎日映画トリビア (@eigatrivia) April 5, 2022