今回は前半で「虐待」、後半で「誰もが生きやすい社会」「誰もが傷つかない社会」の矛盾をテーマに書いています。
人間であれ社会であれ、そして多くの物事には両義性、多元性があるので、矛盾するものが同時に存在する、というのは特におかしいことではなくよくあることです。「天使」だってそうです、美しいのか醜いのか、優しいのか残酷なのか、敵か味方かもよくわからない両義的な姿です。
聖書に書かれる「天使」を正確に表現するとこうなるらしい。
これは怖すぎる…。pic.twitter.com/cunkDAAVbz— いっちー@バーチャル精神科医 (@ichiipsy) February 12, 2022
最近、悲しい虐待の事件が起きました。その事件に対して様々な反応が起きていますが、「虐待」のテーマは過去に幾つか書いたことがあります。
過去記事⇒ 児童虐待は増えた? 統計の印象・錯覚 児童虐待の原因
「昭和」の方が「平成」よりも虐待死は多かったんですね。そして「昭和の方が子供が多かったから」ではなく、これは出生率を含めての殺害率で観ても同様です。
「子殺し」「母性崩壊」…日本で児童虐待はどう捉えられてきたか より引用抜粋
児童虐待は、新しい問題ではない。戦前から問題にされていた。
1900年ごろから、子どもへの暴力、酷使、遺棄、殺害などの種々の残虐な行為が「児童虐待」と称されるようになり、1909(明治42)年に、受刑者に反省を促す教誨師(きょうかいし)の原胤昭(たねあき)が、虐待された子どもの保護活動を開始することで、社会の関心を呼ぶ。
そして、1930年に東京の新宿と板橋で相次いで貰い子殺害事件が発覚したことを契機に、1933(昭和8)年に児童虐待防止法が制定される。どちらの事件も、養育料目当てで乳幼児を引き取り、何人もの子どもを殺害した事件である。
このように、戦前、問題になっていたのは、親による虐待だけではなかった。
当時は親が子どもをひとり立ちするまで育てるとは限らず、貰い子、里子、養子として人手に渡る乳幼児や、幼くして奉公に出されたり、女中や芸妓として働かされたりする子どもが少なくなかったからである。
したがって、子どもを虐待する「保護者」は親だけではなく、虐待の場も家の中に限らなかった。
実際、1930年に子どもに対する傷害遺棄等で検事局へ送られた保護者は、親権者・後見人が51人、奉公先や工場の雇い主などの保護責任者が77人と、親以外の方が多かった(児童擁護協会『児童を護る』児童擁護協会、1933年)。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
少しデータが古いですが、2014年の米国保健省の資料では「アメリカの虐待死」は年間約1500人とのことで、「子供の総数」の差を考慮しても日本(年間約80~90人)よりアメリカの方が相当に多いです。そして昭和の頃と比較すれば明らかに子殺しの数は少なく、今も緩やかに減少傾向なんですね。
なので「昭和の共同体が解体され個人主義化しワンオペ化したのでこうなった」というロジックは、マクロな視点でみればあまり関係ないといえるでしょうが、ミクロな個別の視点でみれば、ケースによってはそれが深く関係している場合もあるでしょう。
「虐待」とは違いますが、「育児の辛さ」の相対的な感覚の変化としては、以下のような視点も、現代に特徴的な構造のひとつでしょう。
そしてネット時代における「意見の可視化」によって、「育児の辛さが過去の時代よりも増している」ように感じられる「情報過多社会」の負の効果もあるでしょう。
凶悪犯罪とかもそうですが、実際は年々凶悪犯罪は減っているのに、「事件の情報」には昔より多く触れるため、凶悪犯罪が増えているかのように錯覚しやすい。
最近「育児の辛さ」が騒がれるようになった背景には間違いなく「母親の初産年齢の高齢化」があると思う。
20歳と35歳では、耐性が全く違うと思う。
母親の母親の高齢化もあるかな。
70歳ではもう乳児を抱っこするのも危ういよね。— ララ美 (@kyopi2009) February 18, 2022
「虐待」はその全てが表に出ているわけではないので、アメリカにせよ日本にせよ、実数はもっと多いでしょう。
そして、「心中以外の虐待死」の内訳では、「0歳児の殺害」が約半数近くを占めている、「出産当日の殺害」も一定数存在し、「産後うつ」による虐待もあります。
つまりある種の「子育て以前の精神異常性」による「慢性的な虐待(虐待が目的化している状態)」とは違う虐待や、「ワンオペ云々それ以前の虐待」も多いということです。
過去に虐待を受けた人々が「虐待する母なんて○○だ!」と怒るのは自然なことでしょう。「一部の虐待」がパーソナリティ障害(反社会性、自己愛性、境界性、依存性、妄想性)等の加害性による他害の結果だとしても、それは全体ではなく「ほぼ全体」でもないんですね。
「毒親・機能不全家族」という現実もあれば、逆に「子供の側に障害特性(その逆もあり)があることの限界に近い大変さ」だってあるわけで、親だって能力は均一ではなく、生身の人間、ぞれぞれに体力・能力の限界はあるでしょう。
「育児」の個別性において、(以下のツリーも参考になります)何でも一般論に還元すれば片付くようなケースばかりではなく、試行錯誤の連続で何とかやりくりしている現実がアチコチに点在しているわけですね。
障害のある子に手をかけてしまった親のニュースが出るたびよく聞く言葉「お母さんが1人で抱え込まないで周りに頼ればいいのに」
私の経験した発達障害児育児の実情はこちら↓
私は大学で発達障害に関わる作業療法士を目指していて、休日も先生についてボランティアで関わったり勉強していた
↓— サゴ (@pomerosago) February 16, 2022
そしてもうひとつ統計上の「数値」の変化に関してですが、「虐待死の範囲の拡大」によって「最近少し増えているように見える」という点。
これはどういうことかというと、実際には「ここ最近増えてきた」のではなく、「虐待死の範囲の拡大」によって「定義が変わったから数値が植えた」だけで、同じ定義で統一するなら「虐待は徐々に減っている」のは変わらないのですが、
虐待の範囲をもっと厳しく設定した結果、「疑義事例」を加えて計上するようになったのが第13次調査(2015年度)からで、第14次・第15次調査(2016・17年度)からはさらに追加項目が加えられています。
それによってここ最近、(十年単位くらいの時間軸)で観れば少し増えている(ように見える)わけです。
児童虐待は本当に「増加」「深刻化」しているのか より引用抜粋
第13次調査からは、自治体が判断できない事例を専門委員会が再度検証し、そのうち虐待による死亡事例として取り扱うと判断した事例(「疑義事例」)については虐待として計上するようになった。次のようなケースが「疑義事例」とされる。
【第13次調査】(調査対象期間2015年度)
・虐待はあったが、司法解剖等の結果、傷害と死亡の明らかな因果関係はないと判断された事例
・虐待死の可能性があるとして保護者が逮捕されたが、不起訴(嫌疑不十分等)となった事例
・病院から「虐待」として通告があったが、警察は「事件性なし」として取り扱った事例
・ネグレクトであるとの判断が難しい事例【第14次・第15次調査】(調査対象期間2016・17年度)
・死産ではない可能性が少しでもある事例
・事故以外(虐待)の可能性が少しでもある事例
・死因が不明である事例
・公判中の事例
このように、第13次調査では、主に虐待の疑いが持たれたケースが「疑義事例」とされていたが、第14次調査からは死産や事故など、明らかに虐待ではないと認められるケース以外すべて「疑義事例」として虐待死として扱われるにようになった。こうした疑義事例の死亡児童数は、第13次調査8人、第14次調査21人、第15次調査23人。第15次調査では、疑義事例が虐待死全体の35.4%(65人中23人)、心中以外の事例では44.2%(52人中23人)を占める。そのうち、8人は出産当日の殺害である。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
過去記事で、「3つの虐待事件を取材したルポライター杉山春氏の記事」を紹介しましたが、そこで彼は「虐待する親たちの共通点」が、『過剰なまでに「社会規範に従おうとする生真面目さ」だった』、と書いていますが、
他にも複数の関係者の事例から、そこにもひとつの強力な力学が働いていると考えます。ある種の硬直した強迫的な潔癖性、闘争性、虚栄心の強さと「こうあるべき」への固執が、自らを追い込む力学になっている、
そういう過剰適応の傾向性は、「最初からそうだった」のではなく、親や周囲の人やコミュニティ、職場等で形成され強化され内面化されたものです。
そして日本とアメリカの「責任帰属」の型は傾向性として真逆である、ということは過去にも「帰属理論」をベースに書いたことがありますが、部分的に簡潔に引用すると、
日本文化の特徴は「人々の調和が重んじられ、個々人の資質が優れていることよりも、自分にとって望ましくない情報を自主的に取り組み、自己のあり方を周囲と調和するように調整する」という質であるのに対して、
アメリカの文化において「セルフサービング・バイアス」が生じやすいのは、「個人の中の優れた資質を発言することに価値を置いている文化」であるため、という事です。
その結果、「成功」を「能力や努力」に帰属し、「失敗」を「運や状況」に帰属する傾向はアメリカの方が強く、悪く言えば他責的傾向で、そういう文化ゆえの問題や反動が今アメリカで起きている、ともいえます。
逆に日本の場合は「成功」を「運や状況」に帰属し、「失敗」を「能力や努力」に帰属する傾向で、悪く言えば「自己卑下的な原因帰属」の傾向性が強い。日本もまたそういう文化ゆえの問題や反動が起きている、ともいえます。
責任帰属の型以外にも、文化には多様な差異があります。なので、「定義上は同じ問題」を扱う場合でも、「その背景にある力学が異なる」という複雑性を観ずに、「日本の問題」を「アメリカの方法」で解決しようとすると逆に悪くなる、という矛盾が起きてくるわけです。
ところで、よく「○○なんて人間以下だ!」「○○なんて動物と変わらない!」みたいな表現がありますが、そもそも動物ってそんなに人間よりダメな存在でしょうか? 人間以下とはいうけれど「まさに人間だからこそ酷くなるもの」という力学だってあるわけです。
他者との対立が過剰になり相互にとってメリットがないと判断すると、競争をやめて社会ルールを遵守することで、互いの保全に努めるそうです。ネズミの行動を観察した『ネイチャー通信』論文➔ https://t.co/awwqz4mfiB (状況に応じて頭を切り変えることは大切。進化的に保存されているのですね)
— 池谷裕二 (@yuji_ikegaya) January 18, 2018
人間の場合、「他者との対立が過剰になり相互にとってメリットがない」という状況でも、「観念」「概念」「思想」「理想」「正しさ」「イデオロギー」でどこまでも愚かしくなれるのです。そしてその肥大性は「無限性」と「有限性」に関連するテーマでもあります。
そしてそれだけでなく、「身体」のバランスですら自律性を損なう。そういう別の面での「過剰さ」も人間社会特有のバランス異常であり、それを「知識」だけで補うようにになってしまうと、感性・野生の思考を劣化させてしまう。そして本当に自律性それ自体を失った「脆弱な養殖的管理生命体」になっていく。
【現代美食】ネズミは餌のカロリーに応じて総摂食量を自己調整します。しかし現代は、脳の推定可能範囲を超えた高カロリー食品が多く、また人工甘味料による味覚と栄養のミスマッチも生じます。こうした脳内混乱は食量制御を困難にするそうです。先週の『サイエンス』誌より→https://t.co/PUXDth8fvJ
— 池谷裕二 (@yuji_ikegaya) February 7, 2019
「パノプティコン」「シノプティコン」
複雑系の力学で「現在の精神状態」を考える時、緊張と弛緩のバランス感覚のように、「内的な調和」がテーマになるでしょう。
ただ「内的な調和」が自律的にできなくなっているのは、「ほどほどでいい」「期待せずに見守る」、「いい意味でほっとける」「ぼーっとのんびりできる」のような緩さ、大らかさ、「余白」が心から失われているからで、昔の言葉でいえばある種の「ノイローゼ」です。
フーコーの概念でいえば「パノプティコン」の内面化による負の作用ともいえ、またフーコーの概念と逆方向ですが、トマス・マシーセンの概念「シノプティコン」の作用も同時に作用しているわけですね。
「SNSで鬱になるとかメンタルが病む」ということは近年よく指摘されていますが、ネットやSNSもその使い方や精神状態との組み合わせ次第では、それ自体が「パノプティコン」かつ「シノプティコン」そのものになるからなんです。
私的領域のアジール性がどんどん失われ、物理的空間は隅々までアサイラム化され、意識世界は「パノプティコン」かつ「シノプティコン」が隅々まで内面化されていく、「余白」「グレーゾーン」「隠れる場」のない漂白&去勢を拡大し続ける監視&管理社会。
ところで「生活保護の不正受給」とか「ゼロコロナ」などもそうですが、何かの逸脱やリスクを「ゼロ化」することが本当に最良か?といえばそうではなく、しかし「コロナの死者」の数が多かろうが少なかろうが、「誰かにとって大事な人」が死ぬことには変わりません。
もしかしたら「誰からも大事な存在と思われていない孤独な人」もその中にはいるかもしれませんが、数字だけを観て「他者の人生の繋がり」などわかりません。
「出来ればゼロコロナがいい」という理想もわかります。しかしそれを本気で短期間で目標達成しようとするとどうなるか?「ゼロコロナ完全達成」の社会ではコロナ禍以上の深刻な問題が生まれ、それによって誰かの命が失われることでしょう。
人口が一億を超えるような国において、不正にせよ犯罪にせよ何かのリスクにせよ、「完全にゼロ」にする、というのは不可能といってもよいほど難しい課題です。
「ゼロ化」しようとすると別の部分にしわ寄せが行き、別の深刻な問題が起きてくるからです。「こっちを潰せばあっちが飛び出してくる終わりなきモグラ叩き」になるでしょう。
そして「問題や逸脱や不正が全く生じないよう完璧に管理され、一億人が正しく行動する社会」というのは、過剰に神経症化した集団が生み出す潔癖症的漂白社会であり、ある種の「理性の狂気化」です。
「個人の意識」では理想の達成は無理だからと、様々な私的領域に外圧(国家権力)を介入させそれを達成しようとすればするほど、「数値上は」ある特定の目標の達成には近づいても、その1面だけで観れば「よい社会」のようになったとしても、
その結果、別の形で「今まであった良い面」をゴッソリと失い、別の問題や苦しみが生まれ、そして今度はその歪みがどんどん増していくことでしょう。つまり何かを潔癖に正しくし過ぎた結果、何かが深刻な次元で悪くなるのです。
「パノプティコン」「シノプティコン」を強化していく先にはディストピアに向かうゆえに、バランスを無視した単純化された理想(世の中をもっと良くしよう)は、右であれ左であれ、硬直した統合状態(ゆらぎの死)に向かい、抑圧化されたものが新たな逸脱となって噴き出してくる。
現代は、「目に見える暴力」に関しては昔より全然少なくなっているにも拘わらず、「もっともっと完全に完璧に」を過剰に潔癖化した結果、「出来て当然」の基準値が吊り上げられ、その高い基準値で他者と比較されるゆえに、
「ラインをクリアできない人」「逸脱者」が合理的に排斥され追い込まれる終わりなき過剰適応社会になっています。現代のメンタルの問題においては、この種の力学・負の作用の方がウエイトが大きいのではないか?と考えます。
「ある人が物凄く頑張って仕事の課題をクリアし続けると、給料が増えるわけではなく、その人の基準が全員の平均値に設定され、皆が以前より高い課題を課され、そして際限なく基準値だけが吊り上がっていく」、そんなブラック企業的な「過剰適応地獄」なんですね。
私刑で人を「裁く」、たとえばキャンセルカルチャーとかもそうですが、そういうものは「やったりやりかえしたりしている」うちにどんどん基準が確定化され、さらに拡大化し、細分化され、相互に私刑し合う社会になっていくんですね。
「私刑」をそのままにしておくことの危険は、「過剰適応」する人達がそれをさらに加速させるのです。ネズミですらそんな不毛なことは避けるのに、人間はなかなかそう出来ない、そこが人間特有の愚かさであり、人類の歴史の負の姿です。
無限に競争が過剰化していく能力主義の社会の流れと同時進行で、「善良・正しくある事」の「意識」の基準も際限なく高められ、あまりに高度化した課題の維持に耐えきれずに人生ギブアップする人がどんどん出てくる、という「もっと良くしよう」のパラドックス。
「もっと緩くていいんじゃない?、そこそこでいいよ」って気楽さが認めらない、それが「生真面目で潔癖で善良な意識の高い人達」が生み出す無限地獄です。
「生真面目で潔癖で善良な意識の高い人達」が、「人を追い詰めない誰も傷つかない誰もが生きやすい社会をつくろう!」と言いながら「その過剰な理想で人を追い詰める」という構造には無自覚なまま、
「バイアスに気づこう!」「多様性!インクルージョン!」とか掲げながら、それがさらに「人に厳しい私刑社会」と「合理的排除された無包摂の人々を生み出す」という矛盾もスルーし、
「今よりもっと良く、もっと無駄なく、もっと完璧に、もっとゼロに!」、その「もっと、もっと、もっと」の際限のない欲望こそが、究極の精神論的力学となって、世界を過酷な闘争の場にしていることにも気づかない。
いろいろ雑で無駄が多く逸脱も多かった「昭和」の粗を潔癖にカット・排除した先に、確かに昔よりも犯罪も暴力も「数値上は」減り、無駄も減り効率化され合理的で便利にはなりましたが、
無駄の排除や、非合理性の排除、そして「正しさ以外」を矯正し漂白していく潔癖社会は、昭和にはなかった別の負の力学が成長し続けている。そしてそれは今後もっと巨大化し負の形で現象化していくことでしょう。
毒親の問題とカルト問題
毒親とかACのテーマは過去に幾つも書いてきましたが、毒親にも様々なタイプがいて、ACは生きているから語ることが出来るだけで、「殺された者」の体験談は聞けません。
大きな声で主張など出来ない「物言えぬ弱者の声」は誰にも届かない。それが本当の弱者。「生殺与奪」の力があるほどの関係性は、大人の男女の力の差の比ではない「圧倒的な差異」であり、そして密室で私的なエリアにおいては時に独裁者並みの力の行使やカルトなみの洗脳も可能。
信者は教祖を妄信している、どれだけ不条理で問題だらけでもそれを受け入れてついていこうとする。どれだけ周囲が相手を想って助言したり救いの手を差し伸べても、本人は逆に教祖を守ろうとし、救いの手を否定することの方が多い。大きな事件でも起きない限り直接的な強い介入は容易ではない。
「機能不全家族から脱出してカルトに入った若者」を複数知っていますが、この場合は「帰る場所がない」、連れ戻そうとする家族こそが「敵」なので、ますますカルトへの依存を強化する力学になる。カルトがシェルター代わりになっているんですね。
かといって他に安心できる場もない。逃げ出して一から自分の人生をやり直せる場、ある程度の信頼性・持続性のあるコミュニティとしてのインフラがない。
ちょうどヤクザの組織がワル達のコミュニティとしての負のインフラの役割を果たしてきたように、カルトにもそういう一面がありますね。
ただ大きな違いは、信者の場合、そのほとんどは児童や実子ではないことです。多くの信者は「自分で選んで信者になっている」という点です。しかし子供には「場」の選択はほぼ出来ない、力も知識もなくあらゆる面で大人には勝てない。その意味では二世信者の問題こそ最も似ている、と言えるでしょう。
「社会的な対応」であれば、専門家なり児相なり、ある程度汎用化されたノウハウというものはありますが、「そういうものが上手く機能しない出来ないケース」というのは残念ながら多々あるわけです。
「個別性の領域」というのは一対一の極めてオリジナルな文脈を含み、「こうすればこうなる」を汎用化出来るものではありません。よく勘違いする人は、個別性を普遍性へ拡大し汎用化出来れば「誰もが同じ結果になるはずじゃないか」という短絡的な思考をしますが、
個別性の領域においては、同じ方法ではまず上手くいかないのです。それぞれの子供、それぞれの親とは全く異なる存在たちであり、そこにはそれぞれの問題の複雑性がある。「親」とか「子」とかいう言葉が同じだけなんです。
個別性・複雑性・普遍性
「苦労」というのは単一の形ではなく、とても多元的なものですが、「虐待される日々の中で何とか生き抜く」というのは精神的にも肉体的にも大きな「苦労」のひとつでしょう。
そして「虐待された人が自分の子どもを虐待する」という言説を「虐待を受けた上にそこまで言われるなんて酷い」と全否定しながら、「苦労してない人の方が大方人柄が良い」「苦労して育つと歪む方が多い」みたいなことを同時にいってしまう人もいます。
「親や周囲に愛され大事にされ苦労なく育った子供の方が、大体は人柄が良く歪まない、そうでない人は大体が人柄が良くなく歪んでいるところが多く見受けられる」と言っているのと変わらないわけで、苦労して生きてきた人が「他者」からそう言われることの「酷さ」には気づかない矛盾。
「○○ならば誰もがみなこうなる」というほど普遍性がない場合でも、「ある否定作用がある負の結果を引き起こすひとつの原因・ひとつの力学になり得る」とはいえる様に、「こうすれば誰もが人生上手くいく」が存在せずとも「個別に最適化された方法」としては存在するように、
何かの言説が適切か不適切か、意味があるかないか等も、それが「個別性」なのか「複雑性の中のひとつの力学」なのか、「誰にでも必ず当てはまる普遍性」なのかによって大きく変わることがある。
誰にでも必ず当てはまる普遍性の文脈ではないのに、「こういう人はみなこうなるというのか!」と解釈するのはよく見かけますが、「個別性の話」や「複雑な作用の中のひとつの力学の話」を普遍性の話と混同してるのです。
ここでは「どっちが正しいことを言っているか?」「それは事実か?」を問題にしているのではなく、
「何かを表現する」というのは、受け取る側次第では相手をいかようにも不快にさせ傷ける可能性がある、それは「誰であれ避けられない事」であるということ。
「人は人を傷つけずには生きれない」、それは「誰が何に傷つくか」というのは状態・状況と組み合わせ次第で無限のパターンがあるからで、
それは「生きづらさ」も同様で、「誰もが生きやすい社会」と「誰もが傷つかない社会」はとても似ていて、それは一見理想的で素晴らしいもののように感じますが、「傷つく」「生きづらさ」という漠然とした概念は「その内容はいかなるものか?」は明確ではなく、人によって異なり基準も曖昧です。
「ある人の生きづらさの解消」のために「別の人が生きづらくなる」という「生きづらさ」の多元性のパラドックスは、「個別性」と「普遍性」の混同にあります。「ある人にとっての個別の最適状態」は一般化出来ないから個別性なのであって、
それを一般化するというのは他の個別性を侵害する作用にもなるんです。
「みなが全く同じものを生きやすいとか生きづらいとか思っていて理想も不満も全て同一」なら、そこにはそもそも個別性などないので、単一の基準だけでみなが納得するものが作れるはずですが、そうでないから普遍化出来ないわけです。
そして「生きづらさ」「傷つき」が有限性を持たず無限性に開かれているままである時、それは際限のない「終わりなき要求」になって現実の有限性が持ちこたえられずに破綻していくでしょう。
しかし多くの場合それは、「特定の属性の生きづらさ」に集中した、その分野の専門にとって理想的な社会の全体主義化でしかなく、他の専門や他の当事者から観れば、それは全然理想的な社会ではない、という利害対立が生じるので、その意味では有限性に引き戻されます。
「そんな風に言えばこの人達がこう思うだろう」は、それが社会性の文脈において、特定の役割・立場で公的に行われる時には必要な配慮ではあっても、逆にあまりに細かく解釈したり適応範囲を広げ続けると、どんな表現であれ、「特定の誰かは傷つける、不快で嫌な表現」に該当するものになるので表現を萎縮させます。
そして「個別性の文脈で語られている私的なコトバ」が、公的な文脈やある特定の観念・概念で解釈され否定されるということが多々発生していますが、「実存への応答」もそれと同様に、それは個別性の文脈であるのにもかかわらず、政治・社会の問題、心の問題、個人の問題が無制限に接続される。
「目につく違和感ある私的な言説」を何でも表(社会)に引っ張り出して公的にジャッジすればいい、というような「自称:世の中を良くする運動」が、「個別性の文脈の特殊性」を排斥していく。
その特殊性こそが多様性の大元でもあり、同時にその人にとっては最も意味・価値のある贈与であるにも拘わらず、「なんて特殊な!異常だ!逸脱だ!理解できない!在りえない!」とその特殊性と全く無関係な他者が「私ならこう言う、こう描く、こう表現する、それが正しいあり方だ、だからあなたもそうしなさい」と干渉する。
その暴力性は、「無意識も意識も心も思考もみんな同じ型になりなさい」と言ってるだけなんですね。
個別性の文脈で語られたコトバ、実存からの問いかけが特定の誰かには支えになったり響くものであっても、別の誰かにはそうではない、そういう両義性があることは全く悪い事ではなく、その性質上それは当然なことなのに、
それが「誰にとっても良い感じでなければならず、誰にとっても不快でなく傷つけるものであってはならない」になるなら、もはやコトバの魂そのものが抹殺されることでしかなく、魂の発露も創造性の無為な現れも失っていくでしょう。
インクルージョンやらダイバシティやらが、そういう負の力学を無視したまま進められるのであれば、それは最も本末転倒なことです。「社会の問題を個人の問題に置き換える力学」があるように、その逆もある、しかし「運動している人」は前者ばかりを強調する。
また「否定したい相手・対象」の評判を落としたいゆえに、ある表現の中に「悪」の意味を見出し問題を構築するというやり方は、政治や社会運動、メディア等で日常茶飯事に観察されることですが、「否定ありき」で外集団を観る人は大体そういう傾向性なんですね。
有限性がなく基準も曖昧なまま、「私の気持ちを傷つける、不快で嫌な表現」を「善・悪」の問題に接続し否定するなら、その条件では、どんな表現でも悪いものに出来てしまえる。
それぞれの主観と感情だけで社会問題化するなら、結果的には「私刑」で他者を裁いたり、言葉狩り的な揚げ足取り議論の応酬ばかりになったり、延々と終わらない否定合戦になっていくでしょう。
「加速主義的に分断をエスカレートさせてそれを終わらせる」と考える人も一部いますが、私はそのやり方では終わらないと考えます。今のように「無限のまま」であれば、表面上何かが変化しても、言葉・概念だけを変えながら「同じこと」が無限に続いていくだけだと考えます。
「いやいや人間にそんな根気はないだろう、いつか不毛な闘争は諦め、愚かさを悟り、最善の相を互いに見出すさ」とは思いません、人間は手を変え品を変えながらも同じことをやり続けることに関してだけは一貫性のある生き物で、それは歴史がガッチリと証明しているからです。
スペイン風邪は1918年に流行開始。第一次世界大戦の真っ最中であるわけで、「こんなとき人間同士で殺し合ってる場合だろうか」と思わなかったんだろうか、という疑問があったが、うむ、思わなかったんだろうな
— スドー🦀 (@stdaux) February 14, 2022