散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

 

今日は久々の記事更新です、そして熊本地震から早一年が経ちました。現在、ネットに割ける時間が限られていますので、複雑な分析・考察記事などはしばらくお休みです。

 

今回は「禅・瞑想・マインドフルネス」と「一般ニュース・ささやかな日常」のカテゴリー記事の更新です。撮った草花の写真を紹介しつつ、日記的な日々の雑感、感性的な表現をメインに、歌や関連動画を幾つか紹介しつつ書いています。

 

細川ガラシャの辞世の句が記事タイトルですが、桜を見るといつも思い出す句です。「創造」の「始まり」と「終わり」は根底に似ているものがありますね。

 

辞世の句ではありませんが、浅田真央選手(26歳)も桜の花のように世界中の人々から愛され、爽やかに健気に美しく散り(引退)しました。お疲れ様です。

 

のある人って、若い人に限らず天海祐希さんとか大人の女性にもいますが、単に綺麗とかだけでなく努力してもどうにもならない天性の何かを持っていると感じますね。

 

真央選手のようにアジアも欧米も人種関係なく国内・国外を問わずファンやジャンルを問わずに多くの人々から愛される雰囲気のある人って数少ないです。

 

 

 

 

何かでたまたま見かけたのですが、春らしい波留さんの記事(ダジャレではありません。)も爽やかで良かったです。 ico05-005 波留オフィシャルブログ 新年度。

 

波留さんのようなマインドで自然体で在り続けていけば、きっと自然に良い人生の先輩との出会いや友も出来て、無理のない関係性を築き広がりのある人生を創っていけるでしょう

 

 

話は変わりますが、熊本地震から早一年ということで、ここで南阿蘇の風の丘 にある「大野勝彦美術館」の紹介です。南阿蘇は地震で最も大きな被害を受けた場所のひとつですが、昔から阿蘇が好きな私の良く知る一帯です。近々「大野勝彦美術館」も訪れる予定です。

 

 大野勝彦美術館オフィシャルブログ

 

 

 

人々は闘争過剰で何かに追われるように急いでいて心に余裕もなく、時間が少し遅れたりちょっとペースを乱されたり、ちょっと予定が狂うととすぐに怒ってイライラし、

 

「快適でスムーズ・素早いのが常にデフォルト」でなければ困るようで、何かちょっと不満や気に入らないと相手や状況を嫌悪して叩き出す、

 

そんな風に大らかさを失い、世の中の多くのことが許せず、待てず見守れず、常に減点・引き算目線で他者を観るような状態に慢性的になっている人々にも出くわすけれど、

 

そんな都市の日常は実際は「非現実的な時・場・関係性」とも言えるかもしれない。

 

本来、存在は無常がデフォルト、変化することがが自然で不安定なのが現実、そのゆらぎの場に表現された多様性は初めから全て許されている、その大自然の理が、都市の日常の中では見失われやすいようだ。

 

 

野生動物はマクロな真実に逆らわないミクロな生をありのままに表現しているが、人間は多くの場合ミクロな領域に深く強く同化しているために、生命の源泉からの活力の流れが不足している。

 

マクロな真実の中で生かされているミクロな生の中で、自然体で調和的な人々はマクロとミクロのバランスの中で生きているために、「人間の意識が生み出す多くの不自然な問題」をあまり持たない。

 

ただミクロとマクロは自我の生む思考から見れば、常に矛盾し永年に並行し対立あるいは分離しているように「見える」が、その本質に矛盾はない、というパラドックスは、

 

感性的に表現すると「原像(現実)」と「投影された幻像(二次的な現実)」の中間に生じるのが自我意識という、「自我それ自体」の非実体性と相互依存性の関係性にある、ともいえる。

 

それ自体の領域内で自我は、明確な感覚的・物理的な「事実」は幾らでも知り得るが、それを超えた「真実」「現実」は知り得ないまま「閉じた意識のループ運動」のまま相互依存的に存在している。

 

「事実」ではなく、それ以上の「真実」を知る瞬間において、事実や証明の世界の閉じたループを超えられるが、「それそのものに触れる」ことは、本を読むことや「事実の証明」のような「思考」の過程とは全く異なる質のアプローチになり、

 

また宗教・スピ盲信者のような世界の断定的な定義・印象・決めつけから入らない、自由な感性アプローチになる。

 

「何もわからないまま自由に見つめていく」ため、多くの「ただの知的な知りたがり屋さん」「宗教的・霊的な世界の断定的な決めつけから入る妄想系」などの人々は、脱線するか、勝手に諦めていくだけ。

 

と、まぁこういう風にある意味を持って限定的に表現し書いても、その意味することを全く理解出来ていない、それどころか、完全に意味を誤解・曲解していく人とか勝手に戦ってる人とかも極一部いるわけで、

 

受け取り方は人それぞれですね。まぁそれも含めて「状態」を観察しているわけですが、本も事実も教義も哲学も思考も固定的な現実観念も捨てれる、あるいはれ去ることも「時には」必要ですね。

 

 

よく思いよく感じることですが、ヒトは動物ほど固定的ではなく、もっと創造的で「意識のゆらぎ」が大きい生き物、それが人間に特有の自然さなんだろう。

 

だから野生の動物以上に攻撃的でもあり、逆に慈悲心などが芽生えたりもするわけですが、この意識の状態の振り幅は人間の場合は個体差がとても大きいわけですね。

 

過去に「自然な良心」をテーマに書いた記事で少し触れたことですが、「善性の元となるようなものを人は最初から持っている」という意味の内容で、

 

それは「完成されたものが最初からある」という意味ではなく、「不完全で原初的なものではあるが善性の要素を宿している」ということです。

 

認知科学・脳科学でみる認知の進化と発達  再構築される心の現実

道徳とは? 心・精神のバランスの生物学的考察   進化の意味と宇宙・自然の法則

 

「心に刻み込まれた正義 -乳児は弱者を助ける正義の味方を肯定する- 」より引用抜粋

心に刻み込まれた正義 -乳児は弱者を助ける正義の味方を肯定する-

明和政子 教育学研究科教授、鹿子木康弘 同特定助教、David Butler 同特別研究員らの研究チームは、前言語期のヒト乳児を対象に、

六つの実験から、弱者を助ける正義の行為を肯定する傾向が発達の早期にすでに認められることを明らかにしました。

本研究成果は、2017年1月31日午前1時に英国の学術誌「Nature Human Behaviour」に掲載されました。
(中略)
ヒトは生後早期から、攻撃者、犠牲者、正義の味方の関係性を理解し、正義の味方のような行為を肯定する傾向を持つことが分かりました。

正義の行為を理解し肯定する傾向は、学習の結果というよりも、ヒトに生来的に備わっている性質である可能性が高いと言えます。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 心に刻み込まれた正義 -乳児は弱者を助ける正義の味方を肯定する-

 

いつも思うことですが、先天的な気質、遺伝の傾向性は個々それぞれにあっても、「全体性としての人」は場・環境によって造られていく、だから「どういう大人・社会」が子供・若者たちに働きかけ作用してきたか、はとても大きい。

 

ここで少しネコの話しをしますね、過去記事で少しだけ書いたのですが、私は熊本大震災の直後、母ネコが産み落として胎盤がついたまま捨てられていたネコを引き取ったのですが、そのネコは今 も元気に生きています。

 

地元の人に聴いたところ、子猫を捨てた母ネコは地元のネコではなく、まだ小さい頃に誰かが捨てたネコで、昨年の春ごろに成猫になったばかりのようです。非常に警戒心が強く神経質でいつも怒っていて人になつかなかったようです。

 

私はその母ネコが捨てた子猫と一緒に生活し、一緒に眠り、そして今年成猫になり、今はとても人懐っこくおっとりしているために多くの人に愛されてます。

 

ウチに来るネコはみな捨てられたネコで、多くの場合、初めは気が荒かったり色々と性格に難があるのですが、今は皆、仲良しです。ネコですら最初から完全に決まっているわけではないのです、かなり変わるんですよね。

 

ico05-005さくらの花びらが積もった道

 

次の動画は「桜吹雪の弘前公園 」です。 とても美しい映像です。

 

 

ヒトが先天的に宿しているものは「善性」に属する要素だけでなく、「破壊」・「悪性」に属する残虐な攻撃性も要素として持っている、人間には両義性あるという意味ですが、

 

人間の先天的な悪性・善性の意識のゆらぎがどのような統合のバランス形成となるかは、個体の遺伝・気質・心身の状態だけなく、時代背景、社会・生育環境からも大きな影響を受けます。

 

「人類は暴力とともに進化、ただし現代は例外的」より引用抜粋

人間の暴力性は、霊長類の祖先からずっと受け継がれてきたものだという研究成果が9月28日付けの科学誌「ネイチャー」に発表された。
(中略)
「進化史は人間の状態を完全に拘束するものではありません。人間は変化しており、これからも驚くべき方法で変化し続けるでしょう」。

論文の著者であり、スペインの乾燥地帯実験所に所属するホセ・マリア・ゴメス氏はそう話す。

「祖先が暴力的だったにしろ、平和的であったにしろ、私たち人間は社会環境を変えることによって、個人間の暴力のレベルに影響を与えられます。つまり、私たちが願うなら、もっと平和な社会を作れるということです」

殺し合わない哺乳類が多数派

この研究結果で驚くべきは、人類がどれほど暴力的なのかということよりも、人類と哺乳類の親戚たちを比較した点だ。
(中略)
哺乳類の60%で同種間の殺し合いがみられなかったことも考慮すべきだろう。1200種以上いると言われるコウモリの中で、殺し合いをするのはほんの一部だけだ。センザンコウやヤマアラシも、種の中で殺し合いをせずに生活している。
(中略)
ベコフ氏は、人間以外の動物の大部分は圧倒的に平和的だと長いこと主張してきた。そして、人間の動物としての進化史に、暴力のルーツがあるのと同じように、利他や協調のルーツもあると指摘する。

ベコフ氏は、人類学者の故ロバート・サスマン氏の文献を引用し、もっとも暴力的な哺乳類である霊長類でさえ、戦いや競争に費やす時間は1日の1%に満たないと述べている。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 人類は暴力とともに進化、ただし現代は例外的

 

「弱肉強食」と「自己責任」という言葉の嘘

 

 

 

攻撃性を高め防衛力を高めても、いつか死に消えゆく不安定な存在であることは永遠に変わらない。何をどうやっても生の本質は不安定、肉体はいつかすべて崩れ失い、全感覚は消える、それが私たち存在。

 

ミクロな「人の道」は自我の質によって変化していく。 マクロな大自然の道は常に変わらないが、その道は常に在るのに気づかれない。

 

肉体は残らない。感覚すら残らない。「あなたはには始まりがあり終わりがある、私には始まりがあり終わりがある」、創造と破壊は根底が似ているように生と死は根底が似ている。

 

同じ時間・空間の中にいても、意識の状態は異なり、存在が何に触れているかは異なる。「消えても残るものがあるのか?」それは生きた詩のままココに在り  今日も一日が終わる

 

ico05-005 一面に咲く菜の花

 

ico05-005 一面に咲く蓮華の花

 

 

ではラストに坂本美雨さんの「星めぐりの歌」を紹介し記事の終わりとします。

 

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