情報論的な人間精神の構造説明の矛盾  

 

科学者や科学的な人には、人間精神を情報論的な構造のみで説明する人もいますが、やはりどうしても矛盾が出てくるんですね。情報とその反応のみで人間が成り立っているとすると、機械論的な人間観になります。

一部の科学者がそう語るのもわからないでもありません。脳の機能を部分的に遮断すると、その領域が担当する認識感覚や意識に影響を与えます。

「私はこう思う、こう感じる」など言っている、その「私」という感覚が、脳機能の完全リセットでリセットされてしまうのです。

人体は、消化と呼吸でエネルギーを取り込んでそれを血管で全身に送り、そして全身に張り巡らされた神経は、あたかも機械配線のように信号を送受信し、それが脳というコンピューターで解析されたり制御されたりしています。

「具体化された知覚が感覚野に生じる」のも、この身体のシステムがあるからこそであって、生命体というものは、電源オン(誕生)さえすれば、後は遺伝プログラムによって生命活動が自動で起動するように出来ている機械的なもの、のようにも見えるからでしょう。

そして精神は情報に過ぎないというのも、赤子を完全に外部と遮断した空間に隔離し、食事・睡眠・生理的な活動以外の全ての感覚情報を全く与えずに育てた場合、その赤子は果して精神を形成し得るでしょうか?

そして、脳の記憶や知性に関する領域を完全に物理的にリセットした場合、その人に精神活動は生じるでしょうか?

こういう角度から見るのならば、精神や心は脳神経から生まれる物理的な派生物であり、精神性などというものは記憶・情報の組み合わせに過ぎないということになりますね。これはまさにコンピューター的な人間観ですね。

 

情報論的な人間精神の構造説明の矛盾

外界を知覚し、そして認知したものを外界に表現するために、情報論的な高度な認知システムを持つ脳・身体が必要であることは疑いようもありません。

ですが、機械がどれだけ精巧なプログラムで制御され、複雑な反応の形式を表現できたとしても、機械には、その内側に「生きている主体」としての「自我(私)」は存在しません。

「生きている主体」としての「自我」、あるいは生命としての人間存在は、情報論的な精神の物理的な構造の説明だけでは矛盾が出てきます。物質から「意識」はどのようにして生まれるのか?

もしすべてが機械的なプログラムのようなものだと言うのならば、設計図通りに機械的な身体さえ作れば、それが自らの意志と欲をもって勝手に歩き出し、想像したり落ち込んだり、愛したりするということになりますが、

機械は情報処理やプログラム通りの仕事や表現・反応は出来ても、「意識」が無い機械のままです。

自我の存在 「実感」している主体は何か?

「共感」がなぜ起きるか?何故私たちは物理的な苦痛以外の精神的な喜怒哀楽を感じ、欲を持ち、そして幸福を求めるのか?それは私たちが機械ではなく、生きているからです。

「自分の思考」を観察している者は誰か?「記憶」を思い出している者は誰か?「経験」している者は誰か? 「自分自身を意識しているもの」は何か?

記事のラストに、私の好きなマジックジョンソンの言葉を引用しますね。こういう気持ちは「生きている主体」がなければ決してわからない、伝わらない言葉でしょう。

マジックジョンソンの身体の中で、人生を「実感している者」は誰か?その情熱を「感じている者」だ誰か?

マジックジョンソンが黒人の子供達に贈ったメッセージ

君には無理だよと言う人の事を聞いてはいけない  もし自分で何かを成し遂げたかったら  出来なかった時に他人のせいにしないで自分のせいにしなさい

多くの人が僕にも君にも無理だよと言ったら  彼らは君に成功して欲しくはないのだろう

なぜなら彼らは成功できなかったから 途中で諦めてしまっから   だから君にもその夢を諦めて欲しい

不幸な人は不幸な人を友達にしたいんだ 決して諦めては駄目だ    自分のまわりをエネルギーであふれ しっかりした考え方を持っている人でかためなさい

自分のまわりを野心であふれた正しい人で固めなさい 近くに誰か憧れているいる人がいれば その人にアドバイス求めなさい 君の人生を考えることが出来るのは君だけだ

君の夢がなんであれ その夢に向かって歩いて行くん何故なら君は幸せになる為に生まれてきたんだから

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