隙間時間を使って下書きのままの記事を一気に5記事編集して更新完了。今回は、同調圧力と漂白化社会で透明化される者たちがテーマです。
ではまず一曲♪ 再びDarlim&Hamabalのcoverの紹介で「粉雪」です。歌っている韓国の女性の方の声の質とゆらぎ、いい感じですね~♪ この曲の「二人の孤独を分け合うことができたのかい」の歌詞が好きでした。それにしても後ろにいる彼、「理解のある彼君」の最終形態なのか、既に透明化されています(笑)
実存はどこまでも孤独、でもたまに交差・感応が生じる。ヒトとヒトが出逢うとはそういうこと。現代社会はニンゲンとニンゲンの関係の型ばかりが問われる、そこには「正しさ」はあるかもしれない、概念と概念が出逢いアレコレ思考は出来るだろう。でもそこには「呼吸」と心臓の鼓動がない。だから何の詩も生まれない。
過去に「罪を憎んで人を憎まずは今や死語になっている」と書きましたが、現在はもっと進み、「あの罪人が憎くないとは貴様、罪人の一味だな?」のフェーズに移行しました。
危惧した通り、外集団・内集団バイアスは複数のクラスターに分かれてカルト化へ向かい、それが様々な領域で拡大していくフェーズに移行しました。現在生じている先鋭化した社会運動、アイデンティティポリティクス等の過激化は、当初はその流れに二つの大きな力学が働いているのを感じていて、
ひとつの方の力学には創造性と可能性を感じいたのですが、残念ながらもうひとつの力学の「囲い込み」によって一気に変質していきました。
ジョンレノン 「Give Peace a Chance(平和を我等に)」の替え歌(一部)
社会が喋っているのは、フェミニズム、マルキシズム、パターナリズム、アイディアリズム、ファシズム、バカリズム、何とか主義、かんとか主義 イズム、イズム、主義のことばっかり だけど僕らが言ってるのは一つだけ、平和に機会をってね
社会が話すことと言ったら、グローバリゼーション、インクルージョン(包括)、エモーション(情動)、インフェクション(感染)、マニピュレーション(人心操作)、アジテーション(扇動)、オポジション(対立)、キャンセレイション(キャンセル)、イベイジョン(逃げ口上)! 僕らが言いたいことは、平和にチャンスを、ってことだけさ
全てが「社会」、どこにいっても「社会」しか見当たらない、何処も彼処も善意で舗装された道を「政治」が歩いている。金太郎飴のような「社会と政治になった心」が、正しい笑顔と正しい言葉と正しい振る舞いを意識して語りかけてくるホラーのような社会に向かっていく。
かつてないほどに実存が疎外された漂白化の時代、そして「ヒトは死んだ」。漂白化の時代は、ヒトがそのまま現れると狂人と呼ばれてニンゲンに排除される。しかしヒトは密かに生き残っている、「社会」のふりをして。死んだはずの神が今も生きているように。
「金原ひとみが語る、文学でしか救済できない領域 「間違っていることを正しい言葉で語る側面がある」」 より引用抜粋
金原:もちろん現実的には、より差別の少ない社会を目指すべきだと思っています。ただ同時に社会全体が正しい方向に進む中で、どこがこぼれ落ちるのか。文学でしか救済できない領域は、どこにできていくのだろうと最近よく考えます。
小説というのは、間違っていることを正しい言葉で語る側面があると思うんです。これから先は誰が排除されていくのか。たとえば、老害と切り捨てられてみんなに嫌われる高齢者男性、警察に突き出されるような痴漢かもしれません。そういう人は誰からも共感を得られず容赦無く袋叩きにあうようになっていく。でも小説というのはある程度、誰からも共感されず、みんなから「死ね」と思われるような人たちのためにあると思っています。
「テクノブレイク」では、最後のほうで主人公がゴキブリに自分を投影するシーンがあります。「どんなに命の平等が叫ばれても、ゴキブリは別枠だ。汚くて、気持ち悪いからだ」と。みんなから嫌悪されて、排除を望まれる人たちがいる。私はそういうゴキブリとしての言葉を書き残していきたいんです。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
結局、「合理的配慮」の裏で「合理的排除」されていく属性には声を上げるという選択肢も抑圧されるのです。それでも、金原ひとみさんの「ゴキブリとしての言葉を書き残していきたい」、いい表現です、久しぶりにポリコレ漂白化社会に抗う本物の「反逆」の言葉を聴きました。
「ドブネズミみたいに美しくなりたい」以上にパンクです!
ノーベル賞の真鍋さんが語っていた「同調圧力」ですが、ハーバード大学教授 ロバート・パットナム氏が推しの書「絶望死のアメリカ」では、現在のアメリカが「大学の学位」でどれだけ大きな分断を生み出しているか、その実態が書かれています。真鍋さんが考えるアメリカも「部分」に過ぎないのです。
(※ 「絶望死のアメリカ」は、プリンストン大学の二人の名誉教授、アン・ケースと、ノーベル経済学賞受賞者のアンガス・ディートによる最新作です。)
私が若い頃のアメリカといえば、「超大国の異文化への押しつけがましさ、過剰な介入」はともかく、自己実現という方面では「凸凹ニンゲンのどちらにも可能性が開いている」、という感じでしたが、今のアメリカは、「凸は可能性大、しかし凹は除く」という姿に変化している、という大まかな感じですね。
「有能な者」なら自己実現の可能性が広がるユートピア、しかしそれ以外はディストピア、まぁそれが全てではないにしてもマクロな傾向性として今、中国もアメリカもそうなりつつあり、そして未来の日本もそうなっていきつつある、といえるでしょう。
これは果てのない「競争」のジレンマです。そして「高学歴ワーキングプア」、「ポスドク問題」等は、日本だけでなくアメリカや他国でも以前からあるし、学歴が高ければ就職状況や給与が良い、とは限りませんが、
しかし、「かなりの確率で競争の勝者が決まっている出来レース」、そして競争に勝った者が良い環境で自己実現し、それ以外はエッセンシャルワーカーとなり社会インフラの下支えとして、「悪い待遇」で心身を酷使する、その疎外ストレスから逃れるために薬物に嵌る悪循環、そういうマクロな流れはあるのです。
● 中国やアメリカで広がる若者の「競争離脱」。日本の「草食化」とは決定的に違うワケ
高学歴な者たちが社会の上部にいる構造の「リベラルな学歴社会」は、どんなにロジカルに理想を語っていようが結局は「構造を維持している権威的な主体」になっている、ともいえるのです。
自分は学問が好きなのだけど、逆説的に思われそうだが、大学中心の学歴社会が嫌い。大学は学問に興味がある人が楽しむ場所であって欲しく、単なる社会人の格付け組織になって欲しくない。現実的には、安心して暮らすための仕事を得るため、興味のない勉強をお金を払ってやるのは無駄だと思う。
— Ryota Kanai | Araya CEO (@kanair_jp) September 4, 2021
散々な状況とはいえ、アメリカも中国も現状を良しとは思っておらず、「再配分」を意識した方向に向かいつつはありますが、それで果てのない「競争」が本当に止められるでしょうか。
ところで「同調圧力」に関してですが、ノーベル賞の真鍋さんのいうことが全てではないにせよ、そう言うのもわからないわけではないのです。
過去記事でも別の角度から書いていますが、「創造性」の文脈で観れば、真鍋さんの言葉もひとつの真実性を含むからです。
過去記事 ⇒ サイエンスの進歩・創造性・可能性と原因志向と目的志向
しかし人間・世界というのはひとつの力学だけで構成されてはいません、両義的であり複雑系なのですね。
「個人の知・情・意の統合」にせよ、社会の統合にせよ、社会的生き物である人間にはある種の外部からの「圧」も必要で、それが全くどこにもない社会や教育というのは在りえず、社会的関係性には「同調性」も必要で、これもバランスの問題なのです。
同調し過ぎて過剰適応になったり、ある個人とある集団の相性や関係性が極端に悪い場合だと、当人にはそれが強すぎる同調圧力になり、ストレスで潰されたり、疎外されたりもします。反対に、個のエゴが強すぎて、集団(全体)の方が上手く統合できなくなり機能不全に陥る、というような場合もあるわけです。
「同調圧力はどの国にもある」、というのは確かにそうで、ではその「質」に関してはどうでしょうか?同調圧力にも質的な差異があるからこそ、「ある国が自分には合う」というような相性の差が生じるわけで、
日本の同調圧力とアメリカの同調圧力の違い、たとえば日本の方が「同質性」が高く、全体に平均化されているという点、それは日本が「和」を重んじる社会で、個人の主張を抑え集団と調和的に動くことが適応的だからです。
その結果として日本ではロックダウンなしでも自粛を達成出来たということですね。
私も完全同意。
(米国の同調圧力のすさまじさは、日本よりも感じる。いるコミュニティによって内容は変わるけれど、ポピュラーじゃない方の考えを持っている場合にどんなことになるのか。アカデミック界隈で目の当たりにし、ここまでヒステリアになるその根底にあるものは…?と考えたりもしてる) https://t.co/NxSQTHTgIj— Toko Shiiki/椎木透子 (@tokophotoko) January 10, 2022
コロナ禍でも、海外の先進国では、凹凸の幅が広く、逆らう人、暴れる人、楽天的で外で気にせず遊ぶ人、反ワクチン等のデモも激しく、国が強く行動制限をしないとなかなか集団を統合出来ない、制御が難しく、個々のエネルギーも強い。(よくいえば元気がいい)
この質の差には良い面と悪い面があり、集団の同質性が高く平均化された国において、それとはかなり異なる質で能動的に動いた場合、かかってくる圧力や疎外感は相当に強くなる、という負の関係性になりますね。
凹凸の幅が狭い分、「平均」の周辺くらいまでは良いが、どちらかに大きく振れた凹凸には非常に強い圧がかかることがある、ということです。
逆に同質性が高くない国では、平均化されていない分、強い同調圧力がかけられても「行動に選択の幅がある」ともいえるわけです。
また失敗したり、社会・コミュニティから疎外された時、同質性が高い場には隙間、逃げ場が少なく、やり直しの機会、再び社会に繋がるインフラも限られているが、同質性が低くいろんな価値基準のコミュニティがあれば、それが社会に繋がるインフラになっている、ともいえますね。
「日本人は忍耐強く・自制心があるから感染爆発を防げた」と考える人は人事戦略を間違える より引用抜粋
「自粛」を加速させた日本人の「協調性」
よく日本人は協調的であり、アメリカ人は独立的だと言うが、実際には、「協調性」という言葉で両者を比較すると、そこには大きな違いはないとされている。
しかし、「協調性」というものには、問題解決のために自分の利益を差し置いて協調する「ポジティブな協調性」と集団の中で波風を立てない、問題を起こさないための「ネガティブな協調性」があるといわれており、
ここには日本人・アメリカ人で差があり、日本人はネガティブな協調性を示す人が多く、アメリカ人はポジティブな協調性を示す人が多いと報告されている。(橋本・山岸,2015)
今回、日本人の多くが行動を自粛した心理にもこの「ネガティブな協調性:外出して問題になったら嫌だな」という特徴が表れたのではないかと考えられる。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)