今回は「能力主義」の内面化と、「反逆」の多元性をテーマに考察しています。今回のテーマとは関係ないですが、以下の動画をツィートで見かけて、(まぁADHDかどうかの専門的文脈はおいといて)左の方の子供は「昭和の男の子の半分の姿」だと思ったのは私だけでしょうか?(まぁ私の子供時代の姿そのもののような動きだったので 笑)
セントラルフロリダ大学が行ったADHDの研究。
両方同じ生徒だけど、学習ビデオとスターウォーズで視聴の様子が全然違う。
これは本人の意欲や退屈の問題ではなく、「脳の緊張」のせいであると分かっている。客観的に見ると左の動画の方が怠けているように見えるけど、体を動かしながら覚えているのだ。 pic.twitter.com/fw9C30ZUJ1— いっちー@バーチャル精神科医 (@ichiipsy) October 8, 2021
以前、英国の「EU離脱」の時、イギリスのある夫婦が特集に出ていて、その夫婦は政治的には夫が保守側で妻がリベラル側で正反対だったのですが、お互いに喧嘩しながらも肩を組んでソファーに一緒に座っているんですね(笑) そういう姿を観て、いいパートナーだなぁと自然に感じました。
インクルージョンとか何とか、理屈や論理を振りかざして社会運動する以前に、「多様性そのものを生きる」とはそういうものでしょう。専門家や学者のウンチクよりも、「何をしているか」でしょう。
平和を叫ぶ運動が平和を壊し、反差別を叫ぶ運動が自らの差別を無視し、平等を叫ぶ運動が「自分たちに都合が良い不平等さ」はそのまま温存し、多様性やインクルージョンを叫ぶ運動が、異文化や自分たちにとって不快な多様性は破壊し、そんな風に、観たくないものは観ず、観たいものだけを観るうちに、誰の冷静な批判も心の声も届かなくなっていく。
何かの「理想」に近いような活動をする人が実は一番それから遠く、何かの理想から遠いような人がそれに一番近いところにいる、というのは、意外にあることなんですね。
「米国を揺るがす「批判的人種理論」とは(2)定義」 より引用抜粋
自由主義は、個人が抑圧されない、自由な活動を重んじる思想です。この自由主義が否定されると、資本主義も、民主主義も成り立ちません。
資本主義は、個人の自由を尊重する自由主義を前提にした経済体制です。経済活動の自由が認められていない社会では、資本主義は成り立ちません。資本主義が成り立たないのであれば、市民革命以前の封建制に戻るか、社会主義、共産主義を採用するしか道はありません。
民主主義も、自由主義を前提にした政治体制です。結社の自由、言論の自由、投票の自由など、自由主義社会で保証されている自由がないと、民主主義は実行不可能です。
また、能力主義を否定するということは、能力のあるなしに関係なくすべての人に同じ待遇を保証する「結果の平等」を主張していることを意味します。つまり、批判的人種主義論は、資本主義を捨て、共産主義国家の実現を目指していることがわかります。明示的に「共産主義国家を目指す」とは言っていませんが、主張を論理的に結びつけていくと、そういう結論になります。
その主張に「白人至上主義に基づいている米国の体制そのものを批判する」という主張と組み合わせると、批判的人種理論は米国の国家体制を変更し、共産主義国家の樹立を目指す一種のマルクス主義革命理論であることがわかります。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
「能力による不均一状態」は、社会構築主義的な「構造」だけの話ではなく、本質主義的なものを含んだ「ゆらぎ」の複合的な結果でもあります。能力主義を根底から否定するというのは、「遺伝的な能力多様性」や「修練で身に着けた技術的能力の差異」を否定する、ということにも繋がり、
ゆらぎを否定する力学にもなるんですね。ゆらぎが生きている状態は、必ず不均一になるのです。そして不均一であるが「活力のある状態」で、「能力の多様性がそれぞれに発達するゆえに生まれる差異」というものが、個々の人生の差を生み出すのと同時に、全体の可能性の大きさにも繋がっている。
分断や分離は、「不均一を一方の型で均一化したい」ときに生じ、わかりやすい例では「いいひとだけで国を作りたい」のような「ゆらぎの否定」なんですね。
「他者」及び「彼等(外集団)」は「私」及び「我ら(内集団)」と違う、他者と私には「差異」という「差」がある、「わからなさ」と共存することが前提であるゆえに、場は不均一で大らかになる。
ゆらぎを肯定する大らかさがある時に、場には全体性としての活力が生じるが、分断や分離は互いに否定し合うことで活力が相殺する構造になるため、内部の葛藤にエネルギーが消費され、闘争だけが熱力を高めていく。
「ある差異」が不満だからとルサンチマンで上を引き下げて、不均一を均一化するだけであるなら、それは「差がつくような能力は出させないようにする全体主義的な抑圧構造」でしかなく、ゆらぎの死であり、可能性の死になるのです。
持って生まれた才能だろうが、物凄い修練の結果だろうが、「現時点で優秀な人」に「優秀な働きを十分にさせてあげる」、それも「分業」ゆえに可能であるのと同時に、インフラの下支えの仕事では出来ないことをする仕事の多様性が共同体の可能性を大きくするのです。
「互いが殺し合う関係になる」というのは、不均一な状態が動的に調和していない「階級の固定化」などの場合で、「構造のバランス異常」でそうなっている場合は政治的な介入が必要になりますが、
そうではなく個々の自己愛・徳の喪失の場合は、集団の問題に拡大せずに個々の問題の方に目を向ける必要があります。
ルサンチマンは人間のひとつの特性ではありますが、しかしルサンチマンは「自分がそうなりたいのになれない」ゆえの妬みなので、上を引きずり下ろして自分がそのポジションにつく、つこうとするだけなのです。
ルサンチマンでの寄生もまた「負のフリーライダー」なのです。負のフリーライダーというのは、「フリーライダーを責めながらも己自身も別の形でフリーライダーになっている入れ子構造」のたとえで、
しかも「負のフリーライダーが○○はフリーライダーだ!と否定している対象」の働きを、ある一面だけを強調し単純化せずによく観れば、「負のフリーライダー」よりもずっと生産的でかつ全体に恩恵がある働きをなしている対象や属性である、ということがよくあるのです。
ルサンチマンが強化された「負のフリーライダー」は、マジョリティのリソース、強者の権威性、創造性に依存し、「妬み」からの妨害と横取り、破壊しかできない。
「宿主」のようになりたい、という欲望からの反撃、だが「寄生を生きるもの」は生み出す力も支える力を持たないので、ルサンチマンで「宿主」を倒してもそこから先に続くものがないのです。
権力勾配や特権性を強調することで、強者を罪の主体と設定したとしても、寄生者の反逆もまた「革命の大義の元で罪を正統化する」だけの罪の主体であり、「強者になりたかっただけの弱者たち」による同じ穴の狢の行為になり、
権力勾配とか特権とか言葉を変えたところで、それは文革の紅衛兵の使った「造反有理」、「革命無罪」の概念と同質で、スケールは小さいが、使い古された政治レトリックに過ぎません。
「寄生者」の反逆は所詮「依存次元」なので、「宿主」からリソースを奪ったらそこで終わり、そもそも「欲望」を昇華させることも出来ないので「宿主以上の世界」は生み出せないのです。
その先は、左にゆらぐか右にゆらぐか、「差」を生まないだけの、皆が貧しく小さく均一にまとまった全体主義的な抑圧構造に止まるか、あるいは以前と同じように、能力の高い者が新たな「宿主」となって再び格差に向かうか、という、人類が辿ってきた歴史への退行になるだけなのです。
「ある場に求められる能力」がある人にとっては適応的である、そうでない人は不適応的になる、という仕事上の有限性・必要性の文脈を、不適応的な人がそれを「疎外」や「不平等」の文脈に変換するだけなら、
力量・能力の違いによる分業によって全体が維持されているバランスを無視して、自分たちだけに都合が良いバランスで考えて「場」の全体を機能不全にしてしまうのです。
「○○の機会に開かれている」あるいは閉じている、というのは、正と負の両方向に存在します。「ドア(機会)」の正と負を観る、というのは、特定属性の「開かれやすさ」と「閉じやすさ」を同時に観ていきます。
例えば「自動ドア」でイメージされる「マジョリティへの無条件な開かれ」の単純な現実感・構造観とは異なり、実際の現実というのは「条件付きで開いている、あるいは閉じている」、複雑性+有限性としての「ドア(機会)」として存在しているわけです。
「配慮」も能力です。「自分本位ではない適切な配慮」には、想像力、共感性だけではなく「知」が必要で、その能力の発達は、「先天的な要素」、「生まれ育った時代・社会・環境・文化」による差、違いがあるのです。つまり「運」や「政治」に左右される「不平等なもの」です。
そして「配慮」の特質を洗練させた人(その時代に適応的な道徳性)が良く評価され承認され、それが足りない人は悪く評価され追い詰められ、時にはキャンセルされたり、私刑にされたりする、というような在り方もまた、「能力によるふるい落とし」であり、道徳的優位性による階級化(特権化)なのです。
ある条件によって「ドア」は開かれたり閉じたりする、「機会が開放されたり制限される」ことの非対称性を観る場合に、「誰にどの属性の問題にスポットを当てるか」で既に「前提としての非対称性」があるのです。
しかし「強者属性」のドアばかりには目が行っても、道徳的優位者の「ドア」は見過ごされやすいのです。同じく「共感されやすい属性」のドアも見過ごされやすいです。「共感的配慮」「合理的配慮」を受けやすい弱者属性と、そうなりにくい弱者属性があります。
そして「共感されにくい弱者属性」は、配慮どころか、嫌われて距離をとられます。「ドア」がシッカリと閉じられるのです。そういう人々はコロナ前からずっと「ソーシャルディスタンス」を確保されていたのです。
たった二年程度の自粛生活・ソーシャルディスタンスでもう気が滅入っているのが普通の人ですが、「共感されにくい弱者属性」というのは、形は別であれ、それをずっとやっているような人達なんですね。そういう人達からすれば、「コロナ禍の方がずっと人に優しいよ」、というくらいのものだったりするのです。
マイノリティではなくても、家族以外の社会的な「親密圏」からの疎外、というのは、例えば「ガラスの地下室」に隔離されているかのような状態は、ある意味で「死にはしないが治りもしないコロナ感染者」のようなものであり、長期に及ぶ隔離状態であり、時が来れば過ぎ去っていくようなものではないのです。
そして「社会と繋がるアクセス」が悪く、その「インフラのなさ」はとても見過ごされやすいのです。よって陰キャな弱者男性は「ガラスの地下室」にひきこもり続ける。
失業と自殺のメチャ強い相関は,職場以外に,自我の拠り所となるコミュニティがないってことでもあるよな。https://t.co/KBdQU9h8lQ
— 舞田敏彦 (@tmaita77) November 6, 2021
「共同体維持の責任を負わされるのと同時に権威性を有した属性」、しかしそこから降りても、より「複雑な形での自己責任」を負わされる。
「役に立たない無能で弱い男」は「存在価値なし」とされ、「合理的排除」へ向かうという「負の自動ドア(機会の損失)」は、男が「生粋の弱者」には簡単にはなれない、「弱者」ではなく「敗者」か「能力の劣った者」にしかなれない、社会からの無言の「役割期待」の圧力であり、
その圧は「自動ドア」「エスカレーター」などの概念で表現できる軽いものではなく、男に生まれた時点で「ほぼ強制的なミッション」なんですね。
底辺の弱者男性にとって、「持てる者」になるためのミッションは、もはやミッションインポッシブル級な不可能さなので、無理ゲーなんです。
「ガラスの天井の上」にいるのはごく一部だけで、その他大勢は「社会ベルトコンベア」に乗せられている社会維持生命体であり、出来の悪いものは分別され仕分けされ排除されたり、別の場所で管理される。そうやって商品価値をジャッジされながら、社会・組織を維持することを責任化された「消耗品的労働生命体」なのです。
第二次産業において男性は、土台となる社会インフラを作り維持するためのメインの労働力であり、社会インフラの土台部を作り維持しているからこそ、第三次産業が成り立つわけです。
「女性の約八割」が第三次産業に従事するように、別に戦争がなくても男性のパワーとエネルギーは今もこれからも社会維持のために必要でしょう。
以下に紹介の外部サイト記事ですが、この戦前の話の内容に出てくるような「乱暴にモノ化された男性労働者」というのは、第二次産業において別に全く珍しくはなく、近代化への過程で「社会インフラ」を作る労働者(男性)には日常茶飯事であり、
今はもちろん違いますが、昭和の中期くらいまでは「非常に乱暴な扱い」というのは普通によくあった話です。⇒ トンネルの壁から撲殺遺体が…「人柱」として埋められた、労働者たちの「無念」
「乱暴な扱い」は物凄く減ったものの、パワハラがなくなったわけではなく、基本形として「社会維持のためにベルトコンベアに乗せられた消耗品的労働生命体」であることは変わらず、それがマジョリティという名の労働者の「一面」でもあるのです。
そして第三次産業の発達とIT化、技術の高度化、効率化による無駄の排除、スピード化、等の要因で、「能力」の基準が変わるわけですね。
過去の能力基準と、スピードの遅さ、そして「無駄の多さ」が許された時代であれば、現代の発達障害者の一部はそのままで普通にOKだったでしょう。
しかし現在はより多くの能力が仕事に必要な時代に変化し、かつ「無駄の排除」でリソースに余裕もなくなり、その結果ある人々は「非適応状態」になり、状態に応じてラベリングされるようになった、ということで、こういう面でも能力主義が関係しているのです。
それでも何かの能力が高かったり才能があったりして自分に合う仕事で何とか稼げたり、リソースが豊かな環境に運良くいるとか、理解ある彼君に包摂される「共感されやすい属性」を除けば、
「共感されにくく能力の低い弱者」には、家族以外の親密圏に繋がるインフラがもはやないのです。そしてマズローの「自己実現した者の孤独」とは全く異なる「疎外の孤独」が訪れるのです。
われわれ人間は集団を好む動物であるとともに、自分の同族に認められること、それも好意をもって認められることの好きな動物である。もし自分の属する社会集団の誰からも完全にそっぽを向かれるとすれば、こんな残酷な刑罰はあるまい。 ウィリアム・ジェームズ
社会インフラの土台を維持し、圧倒的に長時間労働することで社会を支え続けるベルトコンベアに乗る男性たちが、それでも能力に固執するのは、「能力のない弱い男性はどうなるか」、その無慈悲さを知っているからであり、
「弱者男性向けられる冷徹な眼差しと社会的待遇」がそのまま「能力主義」を支える力学になっている、という相互依存の構造なんですね。
「声なき声」「小さな声」というのは、「共感されにくい属性」が絞り出す微かな声なんです。しかし実際は、60億を稼ぐセレブ女性の「鬱告白」だったら世界中の人々が「これはみなが聞くべき弱者の声だ!」とばかりに共感し聞き入れ、「素早く」対応するのです。
これこそが「権威」の力なのです。
現在はリベラルが「体制側」です。そしてイデオロギーと権威が「何にスポットを当てるか」で、意識をそちらに向けさせるのですが、その大きな政治的流れがあっての「これはみなが聞くべき弱者の声だ!」なのです。
「声」はずっと昔から、無名の一般庶民、会社員、弱者男性たちから「非政治的に」発せられていたのです。そこにはスポットは当たらず、大きな共感現象も起きず、素早い対応もないのです。「権威の力」とはそういうものです。
フロイドの弟は語りました。それは私がBLMやポリコレ関連、反差別関連の運動に感じたこととほぼ同じです。
彼は聴衆らに対し、彼の家族が平和を望んでいることや暴力からは何も生まれないことを訴えた。
「これでは同じことの繰り返しだ。暴力的な抗議活動や破壊行為は変化を起こせない。なぜなら、人々が破壊しているのは自分たちのコミュニティだからだ。こんなやり方では何も変わらない」
「今起こっている事態を団結と呼ぶ人もいるかもしれないが、これは破壊のための団結だ。これは兄が望んでいたものではない。怒りのエネルギーを前向きなものに変えてほしい」
◇ 関連外部サイト記事
〇 支持低下のBLMは何を間違えたか──公民権運動との決定的な違い
「声を上げる当事者」にもいろいろいます。「言い方」の問題なんていう次元ではなく、運動に批判的な同属性の個人や当事者を集団で攻撃して相手を平気で傷つけたり、電凸で仕事に負の影響を与え実害を与えたり、酷くなるとBLMのように放火したり、強奪したり、そういう暴力性・攻撃性には何の批判もせず、
反対者の批判だけを「誹謗中傷」として力ずくで「抑圧」しようとし、そして「脅す」ことで無理やりに相手を変えるようなことを含んでいるわけですね。SNSの専門家とか反差別活動家等でもよく見る光景ですが。
中井久夫の「統合失調症と人類」読んで初めて知ったが、近世ヨーロッパの魔女狩りも、大学教育が普及しすぎて高学歴ワープアな人が溢れてしまい、彼らの職務として審問官のポストを乱造したのが一因という説があるらしい。「勉強はできるけど仕事がない」人の処遇ってじつは人類史的な課題なのやも
— チー太郎 (@cheetaro3) August 8, 2021
「自分に相応しい仕事を得ていないと強く感じているエリート」の中には、博士号等の肩書とか能力の高さみたいなものを強調したがる「ルサンチマンとマウント意識が合体した人」がたまにいて、リアルでもSNSでも見かけます。
自身のコンプレックスを素直に受け止めて解決しようとせず、マウント意識で超えようとし、理想と現実のギャップで生じたルサンチマンを補うためにSNSや社会運動で活動する、という「代償行動」によって闘争的になっている人もいます。そしてSNS等でドンパチして禍根を残し、いつまでもそれを引きずったまま生きている人もいます。
「反逆」とはいっても、その背景には何があるのかは人それぞれです。
また「反逆」というのは時代によって変わるものです。たとえば欧米リベラルの政治的正しさを内面化した「多様性」の論理での社会運動は「体制側の運動」であって、
マクロな目線では「反逆」でも「多様性」でもなく、「超大国の異文化への介入・干渉」であり、「グローバル同化政策」による反多様性の構図ともいえる力学なのです。
「異文化を否定する出羽の守たち」もそうですが、虎の威を借りる運動は、実際は体制側に属する「お気持ち十字軍」であり、帝国のミッションを自ら率先して果たそうとする意識高い系なのです。
世界の「体制側」のミームが、「マイノリティである異文化の伝統的ミーム」を壊していくから当然反発されるのを、「声を上げるのは大変」、「社会を変えるのは大変」みたいな、「権力との闘争」と思い込んでる運動家たちというのは、
「最も大きな物語(グローバルな権力)に従順な良い子たち」による「異文化(より小さな物語)の破壊」であり、異文化への差別と蔑視を透明化する「無自覚な特権性」によるものなのです。
ミクロな運動や声の力だけで社会を変えているわけでもなんでもなく、世界の「体制側」がそう動いているから政治的にマクロレベルで現象が変わっていく、それがミクロレベルの運動を背後から支えて後押ししているわけで、
自国のメディア、教育、政治内部においても権威が動いているから、少し騒ぐと大きなスポットが当たり、取り上げられ問題化されるから変わりやすい、というだけなのです。
欧米リベラルミームのグローバル化によって、より小さなミームである他国の異文化を、自分たちの価値基準に合うように矯正しているだけです。「最も権威的なマジョリティ文化」がマイノリティ文化を去勢している非対称な構造なのです。
なので実際は、グローバルな同調圧力から、日本のようなマイノリティ異文化を破壊されずに守っていくために声を上げる方が、力関係的に見れば遥かに大変な事であり、「反逆」、「多様性のロッケンロール」なのです(笑)