交流分析からみた自我と自己愛  「感性的な昇華」と「問題解決思考」

 

 

私の母は若い頃に交流分析をやっていた過去があります。「交流分析は目標思考であり問題思考ではない」とかいわれますが、

 

これは母が目的志向」優位型で、「問題回避型」「原因志向」ではなく、まぁおそらく母は自身の心・精神のバランス異常に何となく気づいていて、

 

何とかそれを良い方向に向けようとはしていたようですね。今回は交流分析のみでなく他の角度をそこに少し加えて複合的に考察してみましょう。

 

クロニンジャーの先天的な4つの「気質の要素」で見た場合、

➀ 新奇性探求(ドーパミン系)➁ 損害回避(セロトニン系)➂ 報酬依存(ノルアドレナリン系)➃ 固執の中では、「目的志向」優位の場合は➀の 新奇性探求(ドーパミン系)の 要素が高いわけですね。

 

こういう人は外向性で「目的志向性」の方法を好む傾向性があり、また母は「開放性」の要素もあり同時処理優位な人でもあるので、継次処理的な理論的分析は不向きです。

 

これに関しては以下の過去記事を参考にどうぞ。

遺伝と環境で見る気質・性格・パーソナリティ

情報処理・認知処理の多元性と認知特性のタイプ

 

 

そして母は「感性的な表現による昇華タイプ」であり、 理性的な「問題解決思考」が不得意です。父は継次処理」優位で「目的志向」で、理性的な「問題解決思考」です。

 

なので両者が上手くいっている時は、互いにないものを刺激し補完し合える「相互補完関係」で、とても良い関係性であったと言えます。

 

ところが、母が鬱で大きく崩れた時、意識は内閉化反芻思考などの重度のループ状態になります。

 

そうすると、このような気質で重度のループ状態の人に対して、「目的志向」理性的な問題解決思考で接するとプレッシャー&不可能な要求にしかならないんですね。つまり関係性の相性は最悪になります。

 

決して傷つけたいわけでもなく心配して何とかしようとして真面目に取り組んでいる側、頑張って支えようとしているはずの側が、その関係性と働きかけ方の組み合わせによっては「モラハラ」のような否定作用になってしまうこともあるんですね。

 

これは「自己愛性人格障害的なモラハラ」ではなく、「状態・関係性の相性」によって「真面目な正論」が「モラハラのように感じる」、という感覚ですね。

 

私がそれを父に対して感じていたように、母も壊れた時に父にそれを感じていたんですね。なので私にはその負の連鎖がよく理解出来ましたが、父にはなかなか理解できなかったんです。

 

何故なら父の言っていることは殆どいつも正しく、また人間性も決して悪人ではない、むしろ非常に真面目で努力家で善人です。にも拘らず負の現象は悪化する、

何故、自分のどこが間違っているのか? どこに責められるべき点があるのか?」とこれまた深刻に生真面目に重々しく考え込むわけです。父は当時全てが生真面目一本だったんですね、まぁ今はかなり柔軟になりましたが。笑

 

相手の状態・状況を考慮しない「真面目さ・正しさ」が、非常に息苦しい精神的束縛として負の作用をすることだってあるわけです。過剰適応もそういう強迫観念が強く働いて生じるもので、基本的に面目で融通が利かない人に多いんですね。

 

つまり今まで長年上手くいっていたやり方で上手くいくはずだという観念は、「今までの状態」に限定されたものであって、状態や対象が異なればそれは必ずしも上手くはいかない相対的なものなんです。

 

そして「何故上手くいかないんだ」という焦りと不安とイライラのジレンマに陥り、支える側がますます過剰に相手に「安定」を取り戻させようと力んで努力すると上手くいきません。

 

それはどうしたらよいかわからない「恐怖心」があるからで、そういう恐怖・不安から動いている場合、失敗したり上手く行かないと、さらに強迫観念を刺激し自責が強化され無力感を高めたり、転じて他責へ向かい相手を追いつめたりしてしまうのです。

 

「原因思考」が大事なのは、「何故そうなったのか」を正確に理解することが、「具体的にどのようにすれば解決するか」=「問題解決思考」と合わさることで現実的な選択・解決に繋がるからです。

 

そしてマイナス状態からゼロ状態まで回復してきたところで、本人にあった方法(母の場合は目的志向性と感性的な表現による昇華)に移行すると、ゼロからプラスに向かっていきます。

 

母のような重度の鬱や情動調節の不全のレベルになると、短絡的なポジティブ思考とか、正論の言い聞かせとか、「今ココ」のようなスピ系の取り組みなどでは全くどうにもなりません。

 

最初からそういうものだけで良いような人はそもそも軽い、あるいはスピ的な世界観が元々好きでそれが自然に「動機づけ」として上手く作用するからプラセボ効果が出やすい、というような場合です。

 

とはいえプラセボ効果は頭ごなしに馬鹿にも出来ません、例えば鬱の場合でも、薬よりも効果を発揮する実験結果もあり、「動機づけ」にしても色々あり、「今まで動けなかった人」がひょんなキッカケから自発的に動けるようになることもあります。

 

それは治療的動機づけとは異なる非訓練的な「自然に起きる動機づ」が、「相性の良さ」などで上手く作用した場合なんですね。

 

交流分析からみた自我と自己愛

ではここで「交流分析」についてわかりやすく簡潔にまとめてあるサイトより引用紹介です。

 

「交流分析のストロークと基本的な構え」 より引用抜粋

交流分析では、人間の成長や幸福、自己肯定のために必要な対人的刺激をまとめて『ストローク(Stroke)』という。

(中略)

人間の対人コミュニケーションや互助的な社会生活は、他者からのストロークや社会的な承認・評価を求めて行われているのであり、

ストロークとは他者から自分の存在が認められることが伝わってくる刺激として解釈することができる。

ストロークには、自分の存在が肯定される快適な刺激である『肯定的ストローク(陽性のストローク)』と自分の存在が否定的に取り扱われる不快な刺激である『否定的ストローク(陰性のストローク)』とがあるが、

いずれも自分の存在が他者に認知されるという作用を持っている。

一般的には、『批判・叱責・罵倒・否定・拒絶・値引き』といった言動として与えられる陰性のストローク(否定的ストローク)は受け取りたくないものであるが、

幼少期から長く陽性のストローク(肯定的ストローク)が与えられていないと、相手を挑発したり怒らせたり困らせたりすることで、

陰性のストロークを受け取ろうとする行動パターンが形成されることがある。これは相手に完全に無視されて存在を否定されるよりかは、

批判や軽視、叱責といった陰性のストロークを受け取ったほうがマシだという無意識的判断に基づく行動パターンであり、陰性のストロークを求めることで『ひねくれ者・天の邪鬼・偏屈な人』という印象を周囲に持たれやすくなる。

引用元⇒ 交流分析のストロークと基本的な構え

 

「交流分析のストロークと基本的な構え」によると、

交流分析では、幼少期の親子関係やその後の対人的な経験によって形成される自分と他者に対する『基本的な構え』として、以下の4種類を定義している。

➀ 私はOKである。他人もOKである(自他肯定) ➁ 私はOKである。他人はOKでない(自己肯定・他者否定 私はOKでない。他人はOKである(自己否定・他者肯定)  私はOKでない。他人もOKでない(自他否定)

 

ではこの➀~➃を「自他分離し自立した個人」と「自己愛性パソナリティ障害の幾つかのパターン」にあてはめてみましょう。あてはめるとはいっても「イコール」ではなく、「傾向性が似ている」という程度のものです。

 

➀ 私はOKである。他人もOKである(自他肯定)≒ 自他分離し自立した個人  ➁ 私はOKである。他人はOKでない(自己肯定・他者否定)自己愛性パーソナリティ障害の無関心型 (無自覚型)   私はOKでない。他人はOKである(自己否定・他者肯定)自己愛性パーソナリティ障害の過敏型 (過剰警戒型)   私はOKでない。他人もOKでない(自他否定)≒ 自己愛性パーソナリティ障害の委縮型

 

無自覚型 は 顕在型の傲慢で誇大なタイプ = 自我肥大型で、一般的に自己愛性人格障害として広く認知され激しく否定されるタイプ。過敏型、委縮型認知度が低いが潜在型の自己愛性パーソナリティ障害で、

過敏型 (過剰警戒型)は「解放されない過剰なコンプレックスの抑圧型」で、委縮型「自我縮小型」で「自己愛の備給に失敗した絶望感からの自我の虚無に呑み込まれた状態」。➃が進むと「自己愛性人格障害の鬱状態」に向かう。これは他の鬱とは構造性が違い、鬱の何割かに含まれる、と言われています。

 

そして母にとって交流分析のみでの試みはそれなりに「対外的には」上手くいきましたが、それだけでは「母の本当に深く根付いていた問題」は解決されていませんでした。

 

もっと深い意識内(身体を含む)に存在した母の問題点への正確な分析と対処が含まれていなかったからです。それが後になって深刻な心・精神のバランス異常へと発展していくわけですね。

 

本当の意味で「原因」を突き詰め、それを解決するには多くの時間と深い洞察の両方が必要なんです。では「交流分析のストロークと基本的な構え」続きを引用・紹介し記事の終わりとします。

 

「交流分析のストロークと基本的な構え」 – つづき –

ゲーム……相手を自分の思い通りにコントロールしようとして行われる非生産的なコミュニケーションがゲームであり、雑談(社交)以上の深い人間関係を求めてゲームによる時間の構造化が行われることがある。

ゲームによる時間の使い方は、正攻法では相手の『肯定的ストローク』を得るのが難しいので、歪んだ方法や誘導的な技術によって『相手の否定的ストローク』を引き出そうとするところに特徴がある。

好意のある相手にわざと嫌がらせや挑発をしたり、会話のとっかかりとして皮肉めいた批判や意地悪な発言をするというのもゲームによる時間の構造化であり、

素直に相手に好意や興味を伝えられない人に多く見られる。ゲームの時間の構造化は、『雑談(社交)』よりも親密な人間関係を築きたいという欲求に基づいているが、

本来であればお互いに存在を認め合う『親交(親密さ)』に向かうべきものが、傷つけられる不安を回避しようとして『ゲームの悪循環』に陥りやすくなっている。

相手をコントロールしようとするゲームでは、他者から十分なストロークが得られないので、非生産的で不快な結末を迎えるゲームが繰り返されやすくなるのである。

親交(親密さ)……相互の人格や価値観を尊重し合いながら、本音と本音で真実の交流を深めていくという時間の構造化であり、相互信頼に根ざした理想的な人間関係の構築と関係している。

親交(親密さ)の時間の使い方をするためには、自分と他者に対する基本的信頼感が高まっていなければならず、幼少期から現在に至るまでの対人関係・人生経験を通して、『私はOKである・あなたもOKである』という自他肯定の基本的な構えが成立していなければならない。

交流分析における時間の構造化では『親交(親密さ)』が最も理想的な時間の使い方とされているが、親交には自分の内面や考え方をオープンにして相手と感情的に深く関わるという煩わしさもあるので、状況や気分によっては『雑談・ゲーム』による時間の構造化のほうが望ましいという事もある。  

– 引用ここまで-

 

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