最近は犯罪心理の分析からは離れていました。あまり書きたくなかったのは、このような事件を分析する際、非常に疲れるから、という理由、あと書いているだけでも凄く悲しい気持ちになる、
そして「心・精神が不安定で弱っている方」にとって、このような悲惨な事件に関する分析・情報は、ネガティブな作用になることがある、からです。
なので「心・精神が不安定で弱っている方」は無理に読む必要はありません。本当に残念な悲しい事件です。狂人の強行による平和などありえません。
※ 追加更新 – 神戸金史さんのメッセージの紹介
「障害者なんて、いなくなればいい」。神奈川県相模原市の大量殺人事件で逮捕された植松聖容疑者(26)の言葉に、障害がある人やその家族は衝撃を受けた。そして、暗く破滅的なその言葉を打ち消すメッセージを発信している。
RKB毎日放送の東京報道部長、神戸金史さん(49)は事件から3日後の29日、Facebookに障害がある子の父としての思いを書き込んだ。神戸金史さんのメッセージ内容の続きは以下リンク先にて
おすすめの関連外部サイト記事を追加で紹介します。
○【相模原事件】脳性まひの医師が感じた恐怖と決意「それでも他者とつながり生きる」
○「しかたない」を乗り越える。誰もが生きることを脅かされないために(2107 追加更新)
私は「負の現実の中で逞しく生きようとしている人」、「負の現実の中で殺そうとする人」、そして「負の現実の中で人生を終わりにしようとする人」、そういう正負の極端な人たちの狭間で生きてきました。
なのでそういう記憶もよみがえってきます、と同時に、今起きていることの生々しさが伝わってくるんですね。
今回の事件への反応として、「介護の辛さ」、そういう視点から語る人もいれば、「死にたい、死ねないから誰かに殺してほしいと思っている人だっている」、とかいう人もいますが、
ただ、今回の事件は「殺してほしいと頼まれて」の事件とは全く質が違います。誰も彼に頼んだ 覚えはありませんし、そして「尊厳死」などとも全く違います。
亡くなった19人の方々、そして一命をとりとめた数多くの方々は、みな「殺されたい」と思っていたとでも言うのでしょうか?
また「介護疲れ」とも質は違うでしょう。
家族介護での介護殺人は状況的にもっと深刻です。しかもホンネは「殺したくはない、なかった人」が、お先真っ暗の八方塞がりの絶望の中で理性と感情の限界で心中したり共倒れするとても悲しい行為です。
「大学期に急に攻撃的な性格になってきたタトゥー入りのチャラ男が麻薬で飛んだ意識でフリーメーソン何たらの陰謀論などに囚われた中二病意識で観念的にやる歪んだ正義の行為」とは全く違います。
「介護疲れ」をあんな男の行為と一緒にしないでくださいね。
ナチス政権で実行された知的・精神障害者を「生きる価値がない」として社会から排除しようとした「T4作戦」と同質のイデオロギーに囚われているに過ぎません。ナチス政権にとってはそれは「正義」だったでしょう。
例えば病院で、治る見込みのない患者の治療に疲れ「みんな殺処分でよくね?ホンネはみなそうっしょ」と言って患者を皆殺しにする医師や看護師がいたらどうでしょうか?
「不満」や「逆恨み」で「歴史に名を刻む」とかいうのは、現代においてはただの中二系異常者なんですよ。つまり根っから「馬鹿で未熟」。だからこそ根っからの無敵になれる。
恐怖も不安もない真正の馬鹿状態(実際は恐怖・不安から完全に目を背け逃げている状態)は自分の命も人生も大事にしない、だから他者の命も人生も大事に出来ない。
こんな馬鹿で未熟な人間の「命がけ」の行為など何の勇気でもなく、傍迷惑な身勝手なもの以外なにものでもはない。
「真面目な良い子で大人しい男」が「大学デビュー」でオラオラ系に肥大化して変な方向にイキがっちゃった、そんな「空っぽ」な人間が、麻薬中毒で誇大妄想化した勝手な世界を「逆恨み」と共にラリったノリで実行しただけ。
彼はどうやっても死刑は確定、そして本人もそのつもりでしょう。600人殺す予定の人物が19人実際に殺して「うん、これは精神異常者の心神喪失のケースだから無期懲役だね」とはなりません。100%死刑です。
単独犯としてはここ百年で見ても日本最大クラスの「無敵の人」でしょう。 彼の望み通り、歴史と教科書に刻まれるでしょう。
「障害者迫害の歴史」は日本においてもつい最近まであったことであり、植松容疑者のようなことをいう人は昔はもっと沢山存在し、公然と認められてもいたんですね。(いえ正確には大々的な派手な迫害はなくなったとはいえ、見えにくい差別は継続中です。)
ちょっと昔までは動物扱い・非人間的扱いを受けることが日常だった障害者が、「同じ人間である」という現在の立ち位置を得たのは、「国」や「健常者」による努力ではなく、「障害者たちの必死の訴え」で長い年月をかけて勝ち取ってきた歴史・現実があるのです。
いつの時代もマイノリティは自ら意思表示をしなければ影に追いやられ、「臭いモノに蓋」のような扱いを受けるわけです。
いまでこそ権力側は、時代の大きな変化で差別的発言はかなり抑制されていますが、「金・得・票にならないことは結局、積極的には何もしない連中」それは変わらないんですね。
そういう上部の連中と社会の変わらない「構造的な暴力」が、福祉施設、障碍者施設にも負の作用をもたらし、彼のような魔物を生み出してしまう、という大きな力学もあります。そしてそれゆえに彼の行動には「理解できる部分もある」というような意見すら出てくるのです。
ただ今回はマクロな構造の方ではなく、ミクロな構造、彼の意識状態の方へスポットを当てています。
ここまではまぁ一般的な解釈に沿ったものです。以下にもう少し複合的にこの事件を観ていきたいと思います。
植松容疑者の心理分析
一面から見ると、これは彼のシャドー(抑圧人格)の解放なんですね。実行段階まで来ていた、ということは、既に「いい人だった昔の彼」は、完全に呑み込まれていたでしょう。
このタイプは反抗期がなく、ずっといい子であろうとした、その期間が長く、ちょっとした挫折や外部の刺激によって真逆の方向性に一気に落ちていくことがあります。
通常は一時的に抑うつ状態になるとか、多少の躁的防衛が見られることはあっても、ここまで驚異的に暴走することはありません。
教員の夢が適わなかったというだけで、大した人生の失敗もなく、社会・私生活のどちらにも不適応ではなく孤独に苦しんでいたわけでもなく、この人は全く弱者ではないでしょう。
大卒で正社員で仕事も普通に出来、知能も普通、友達も多く、周囲からも好意的に見られていて人間関係も良好、そして大きな生活苦もなく(自業自得でクビにされた無職の時期を除き)一軒家に住み、身体も健康で..こんな人が弱者とはいえません。彼はネット表現的に言えば「普通のリア充的な人」です。
そもそもこの人の異常性は社員をクビになったことから始まったのではなく、その前に既に異常性があったから社員をクビになった、というのが順番です。
また事件前の彼は「孤独な状態になっていた」にせよ、それも「元々友達がいない孤独な人が異常になった」のではなく「異常化が進み、沢山いた友達が徐々に去り孤独になった」という順番です。まぁ「異常だから孤独になった人」が「孤独の中でさらに異常性を高めた」、とは言えるでしょうけどね。
異常犯罪の中には確かに異常な親もいますが、「この程度の親ならよくいるよ」っていう親の元でぶっちぎりにおかしくなる人、そういう特殊なケースも多いです。完璧な親などいないから、そういう否定的な目で周りが決めつけて見れば「親のアラを探すのは簡単」です。
犯罪は親・教育の問題、という考察角度が固定観念になっている人は、そのパターンだけを現象から拾い上げて合理化してしまいます。人間の脳は現象からパターンを探すように出来ているからです。
なので、複数の角度を持っていないと、教育論にハマっている人はそういう角度からばかりパターンを見つけます。
まぁこれほどの異常な犯罪と釣り合う、あるいはこの犯罪の異常性に正比例するような「平成に入って最悪の異常な親」だったのでしょうか? おそらく親の問題は小さいでしょう。
こういうものを何でも親の責任に大きく還元することは、ますますその親の人を追い詰め、「個の異常性」に働いている複数の力学を見ずに問題を逸らしてしまうでしょう。
まずこの犯人の特徴として私は「変性意識」と「病的退行」を一番強く感じますね。その結果の「絶対的ナルシズム」による万能感に満ちた状態、
最近の例だと、「 ※ 富士河口湖町で祖父母を殺害した孫」の拡張タイプの人、それが今回の犯人のタイプです。(この事件場合は機能不全家庭の影響も強いのでそこは植松容疑者と異なります。)
また、大学時代の交友関係、そして家庭外で得た情報、そちらの影響の方がこの手の「大学デビュー者」にはより刺激的で大きな変化を与えたでしょう。
成人後の家庭外部の関係での影響が大きく、反社会的文化の影響や反社会的グループなどの交友関係などの影響も受けていると予測されます。インターネットに蔓延るオカルトやフリーメーソン等の陰謀論、そして二元分離性の強い思想・観念・団体の影響もあるでしょう。
観念に同一化してさらに肥大化した未熟な自我が「我の意志は人間以上のもの」になる時、それはその人自身が「ヒトではない意識」なんですね。(人間らしさを失った状態の意味。)
見方を変えれば、ピュアでなければそこまで同一化はしません、常識的な経験値がある程度はブレーキになるからです。「真面目でいいひと」、が大学になって遅咲きではじけ、大人の反抗期・大人の中二病のような状態になる時は、若者の自然なそれよりも病的になることがあります。
いままでの在り方とギャップが大きいだけに純粋にのめり込み過ぎ、しかもそういう状態の経験値が低いので物事の一面のみに囚われ、それを極端に誇大化してしまうんですね。
ですが「大学デビュー」なんてゴロゴロいますし、殆どの人は社会に出て落ち着いていくわけですが、彼の場合、昔の写真と最近の写真ではまるで別人です。(整形での変化という意味ではなく)
確かに何かが大きく変わったのでしょう。彼の知人・友人が感じていた「いい人だった」というのは嘘ではなく、日常の中で自然に感じた彼の一面だったでしょう。
確認は取れていませんが、おそらくこの犯人は大麻以外にも何か危険ドラッグ系の薬物を常習的にやっている、やっていた過去があるんじゃないか?と感じますね。
それは危険ドラッグ(アッパー系)と大麻(ダウナー系)は作用が異なり、大麻程度であのような事件と結びつくとは考えにくいからです。過去記事 ⇒ 薬物依存 「危険ドラッグ」の精神破壊作用
しかも「副作用が強く出やすいタイプ」のようで、意識の飛び方・支離滅裂さが際立っています。 つまり「病的退行」が薬物で加速・悪化している状態ですね。
「外部の者」「環境」の心理的作用、そして「特定の観念」との同化によって。「特定の人間」が矮小化され、モノ化され、劣等な虫けら、あるいは排除すべきゴミ、忌避すべき存在、となって「焼くも殺すも我の正義においては正しい」となり、
ここまでくるとそれは「原始的防衛機制」レベルの極端さになっていくんですね。
時代の流れ
「時代・社会の構造や変化」というマクロな無意識の流れは、今回の事件にも根底では作用している、と考察しています、というよりも最悪の形で現象化した、ともいえます。
昔の「良い子の彼自身」にとっての正義は、彼自身のシャドーに対しても向けられ、それは抑圧化されていたが、逆にそのシャドーに乗っ取られ、同一化し、
それが外側に投影されて「他者への破壊」へと行動化された状態。それを引き起こしたのは「病的退行」による「解離」。
先天的な特性としては「自我の脆弱性」が考えられ、教育上の問題があったとすれば「強迫観念的な自己統合」だったことでしょう。(例:強迫観念的な道徳教育など。)
もうひとつ彼の言動から先天的な特性として考えられるのが、「循環気質」で躁鬱の傾向性、で、基本的に「躁的防衛」によってストレス回避する傾向性です。
それが成人後のハイテンションさ・薬物や誇大性とも絡んでいますが、だからといってそれがそのまま大量殺人ということではありません。
そうであるなら「双極性の人」はみなこういうことを実行する、というような非常に短絡的な図式になるからです。否定的側面だけを強調するとスティグマの強化に繋がります。
これに関しては以下の参考サイト記事を紹介しておきますね。
〇 双極性障害(躁鬱病)で悩んでいる方へ、仕事や就職での対処法
「気質」や「傾向性」はあくまで彼の一要素であり、複合的な力学の中で多重構造として形成された結果の精神運動としてみなければ「全体性としての植松容疑者の異常性」は見えてきません。
成人前の彼は、「強迫観念的な真面目さや穏やかさ」を「受動的に構築」していただけで、見た目は良い子でいい人でも、本人自身の人間的感性は実際は全く成熟していなかった、ということですね。
こういう人はたまに「普段の人物像と大きくギャップを感じるようなキレ方をする傾向」があります。(これは反抗期とは異なります)実際、十代の頃の彼にそういう傾向があったかどうかまでは確認できていないので、あくまでも推測です。
そして能動性が高まってきた「大学デビュー」の頃から、彼に抑圧化されていたシャドーが現れてきた、という流れですね。
「自他境界」は、成熟した人の場合は強迫観念的に形成されてはなく、「柔軟性があり調和的」であるために、シッカリした内外のバランス能力と恒常性(自己同一性)が保たれています。
人生なんていろいろあるものです。望んだ通りにいかないなんてことは誰でもあることです。
人間関係で苦しんだり、恋愛や結婚で上手くいかない、能力・健康・不慮の事故なども含めるなら、本当にいろいろなことが重なったりするし望まない不運なことも起きます。
生き物は「不安定である」ことがデフォルトなんですね。完全な安定などどこにもないんです。
しいていうならば、変化と共に変化・成長していける柔軟性が「動的な安定性」を高めているのであって、「邪魔な存在を消せば、そこには平和と安定がある」なんていうものは幻想なのです。
「悪魔・闇側を倒せば世界は光に満ちる」とか言って、都合の悪い者は何でも悪魔にして徹底排斥するカルト系宗教者や霊能者系人物、
そして「現実と妄想の区別もつかないレベルのスピ系の原理主義者」も同じです。こういう人たちこそ「解離を増大させ人心を乱す」ことをしているわけで、健全な人間関係・信頼関係を壊しているのです。
二面性など誰にでもあるんです。人の心・精神は多元的構造であることがデフォルトです。「部分のみの否定的側面が存在全体に及ぶような神経症的傾向」、そういう社会・組織の雰囲気は「病的退行者」をさらに凶暴化・異常化させます。
そういうことが自然にわかってそれでヒトの全体性を自然に認められるなら、そして構造を変えていけるのであれば、「多元的構造であるヒトの心・精神が極端な二元性によって分裂した結果の破壊的な暴走の現象化」は今後は減るでしょう。
しかしその逆であれば、残念ながらこういう現象は大なり小なり増えていくでしょう。
個人のヒトの悪と集団のヒト(人類)としての悪
植松容疑者に独裁者としての権限があれば、最終的には「障害者なんていなくなればいい」の思想から、ナチス同様に殺処分の対象を増やしていったでしょう。
歴史をみれば、そして現代においても、人間という生き物は条件さえ揃えば簡単に破壊衝動にかられ、そうやって多くの「無慈悲で凶悪な行為」に及んできたわけです。
薬物や精神疾患だけでなく、一般の人であれ、例えば大きな権力・権威・権限を与えられた人間・組織が暴走・腐敗して犯罪や逸脱行為に及ぶことなど日常茶飯事なんです。
植松容疑者が殺したら怒り、そして泣く、では何故もっと大きな暴力や構造に対してはそう感じないのですか? 直接に個人が個人の意志で殺したからではない、「犯人」という名とは別の名前が付いているからですか?
文化的差異・気質的差異によって表現形式に多様性こそあれ、ニンゲンの本質としての攻撃性・暴力性に「人種・国・健常者・精神異常者」の区分けはありません。逸脱のレベルには個々の差異はあっても、条件さえ揃えば、誰もがそうなり得るのです。
インディアン・先住民を殺しまくり人種差別による迫害をしまくった白人のように、改革の名の元に(実際は権力者たちの都合)庶民を殺しまくった中国政府のように、聖戦の名の元に人間を殺しまくったキリスト教のように、
あるいは粛清の名の元に自国民を殺しまくったソビエトや数々の独裁国家のように、そして「原理主義者」は今現在、この世界で同様の事を行っているわけですね。
悲惨な惨状を作り出す独裁者・先進国の大統領・権力者・軍産複合体、汚い仕事は下の者にやらせて大義名分や綺麗ごとばかり言う権力者たち、「俺様はこれだけの実績と仕事をなした、社会は綺麗ごとでは回らない」とか得意げに豪語する中で、
自らは手を汚さず、安全に保護され、高給を税金で与えられ、そしてその下で働く兵士たちの中には麻薬依存症になったりPTSDになったり自殺したり、マトモな精神状態をキープ出来ないまま廃人になっていく人々も多いのです。
兵士というのはもっとも過酷でもっとも大変な仕事であり役割のひとつです。そして兵士ほどではないにせよ、「誰もがやりたがらない仕事を過酷な条件・環境で押し付けられている」といえば、介護職だってそのひとつでしょう。
一部のジャーナリストや政治家に言わせれば、「○○大統領は実行力があって仕事の出来る人、愉快ないい人」とか何とか、肯定的な一面のみを語ります。
植松容疑者に近しい人等の評判と同じですね、周囲は「仕事はシッカリやっていて愉快ないい人だった」と口々に言う。そして彼がやったことも「自称:正義の殺戮」 です。
植松容疑者は「私は正しい」と笑顔で堂々と出頭 、ただそこには「彼の正義」の実行に乾杯する相手はいなかった、ということです。
※ ココから下⇓ は、2016/8/5~追加更新がメインの編集記事です。
植松容疑者の放った「beautiful Japan!」という言葉、それは最近おなじみの「美しい日本を」の愛国スローガンであり、
「愛国カルト」の「末端信者」の発信する極端に排外主義的な情報などに同化しつつ、「病的退行」+「薬物」で外側に現実化(行動化)した姿であり、「世界が平和になりますように」と言いつつ、本来の「平和」の意味を著しく歪めた中二病次元の精神で凶行に及んだわけです。
「平和学」では
○ 直接的暴力がない状態 =「消極的平和」 例:戦争のない状態。
○ 構造的暴力がない状態 =「積極的平和」 例:貧困・抑圧・差別などがない状態。 と定義されます。
※ 構造的暴力:「行為主体が不明確」で間接的・潜在的にふりかかる暴力の形態。
例 ➀ 「自殺」などのような社会問題の背景には、本人を直接的に傷つけた特定の人物による精神的・肉体的暴力だけでなく、構造的暴力も同時に働いていることがある。
例 ➁ 原理主義などの末端信者の凶行事件には、実行犯の直接的暴力以外に、その背後に構造的暴力も働いていることがある。
現在日本で言われている「積極的平和主義」の意味ではなく、本来の意味での「積極的平和主義」の政治的な実行というのは「貧困・抑圧・差別などの構造的暴力を無くしていくための現実的努力」であって、
その逆は「積極的暴力主義」であり、その結果は過剰な弱肉強食・排外主義をベースにした分離的闘争社会化へ向かうもの、といえるでしょう。
戦争が権力側の都合だけで押し切られた不毛な戦争ではなく、命を守るための最終的手段としての防衛、あるいは国が滅んでしまうような非常事態なら、戦う以外に道はないことは誰でもわかることです。
戦争は観念に陶酔してやるもの・やらせるものではない、もっと差し迫った現実的な理由でそれ以外に選択肢がないからやる苦渋の理性的選択でなければならない、
「観念での暴走」は、ストッパーが働かないまま拡大し、大きな負の連鎖を生み、そして無関係な人々まで巻き込み、「多くの血が流れるだけの不毛で悲惨な現象」になるだけでしょう。
小さな力の弱い国が「正義の殺戮」 をすれば大国側の圧力で阻止されるでしょう。小さな組織が行えばテロと言われるでしょう。個人がやれば異常犯罪、そうなるだけです。
ですが一面から見れば「殺人鬼」でも圧倒的な権力者・優位な側が巧妙に行えば「正義」になる、正確には「正義にということにされる」わけです。
そして膨大な数の無実な女性・子供たちまでも血祭りにあげながら、「あれは仕方なかったことだ諸君、我々は正しかった!さぁ飲もう」と綺麗な服装で笑って乾杯しディナーを楽しむわけです。
「反社会的勢力の排除」で「クリーンさ」をアピールする裏で、巨大なカルト組織とはシッカリと癒着。その組織の下では弱者たちほど搾取され虐げられている現実..
結局、社会の表に大きく映り現れる「上部の表の顔」が大衆から見て「どう見えるか」の印象操作だけが巧妙で、その下でその裏で「実際は何が行われているか・行われてきたか」の実態は巧妙に隠されているわけです。
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