今日も「自己愛」を含んだテーマの続きではあるのですが、今回はコフートや他の精神分析の古典的な理論考察ではなく、「発達障害・愛着障害・人格障害」の違いについての補足記事と、「一次障害と二次障害」について書いています。
ここ最近の事件、名大の19歳の女子学生の事件といい、和歌山県の小5殺害犯といい、昨年の佐世保高1殺害の加害者といい「親が社会的には立派な人あるいは実力者で子供が異常」というケースが目立ちます。
そしてよく人は「親の顔が見てみたい」とか言いますが、子が異常なのは全て「親の人格が同程度かそれ以上に異常だからに違いない」というような感情的な批判が、特に最近の未成年の凶悪犯罪などで過剰に行われていますが、それはあまりにも短絡的過ぎる結論の出し方なんですね。
確かにそういう場合もありますが、そうでない場合も多々あるわけで、またそれ以外の様々な要素を含んだ複合的なケースだって多々あり、
特に「先天性の要素」を多く含んでいるような場合は、子の犯罪責任を過剰に親・保護者に課すのは行き過ぎたものとなるでしょう。また精神的な事とは全く別のことがメインの原因になっていることもあります。
「発達障害・愛着障害・人格障害」
「発達障害・愛着障害・人格障害」の違いとは何でしょうか?ここからそれを詳細に書いていますが、そして「佐世保女子高生殺害事件の加害者」の精神分析結果が「非定型自閉症」ということで、
これは今回のテーマとも重なるため、まず「こういうテーマを扱う時に生じやすい誤解」への補足として以下の記事を紹介しておきますね。
「カウンセリングルーム:Es Discovery」より引用抜粋
大泉実成『人格障害をめぐる冒険』の書評:2
(前略)
DSMと生物学的精神医学は、究極的には『精神現象や個性記述(性格記述)の数量化(客観データ化)』を目指すことになるだろうが、その壮大な科学的野心が成功するかといえば相当に疑問である。犯罪事件の加害者に対してアスペルガー症候群など発達障害のラベリングをすることの弊害は極めて明快であり、『発達障害者は犯罪を引き起こしやすい』という社会的偏見や誤解を助長し、
発達障害の子を持つ親に耐え難い不安や悲しみを与えることである。発達障害の統計学的な診断基準はある程度確立しているが、
その中枢神経系の障害(病因)や障害の形成機序、効果的な治療法(教育法)などについてはまだ分かっていない部分が余りに多く、広汎性発達障害の各診断名の分類だけで発達障害を持つ人の個性を十分に記述できているわけではないだろう。
精神障害や発達障害の具体的な症状や問題が犯罪のリスクにつながる可能性は否定できないが、それは、健常者の中に犯罪者が発生する可能性を否定できないというのと同じであり、
精神障害者(発達障害者)の犯罪者率と健常者の犯罪者率に有為な差があるという研究は存在しない。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ http://charm.at.webry.info/200707/article_5.html
定義上、「人格障害」という概念が適用されるのは、基本的には「18歳以上の男女」に対してなので、それよりも若い少年・少女に対しては、精神構造的には「同質・類似したもの」であっても、ラベリングとして別の専門的概念が適用されます。
そして、「発達障害」と『愛着障害とAC(アダルト・チルドレン)』の違いは、基本的には前者が先天的な原因がメインで後者が後天的影響が強いものと言われていますが、
「発達障害」がより先天的なものが優位とは言っても、「遺伝」にしても単一のメカニズムではなく、まだまだ十分にわかっているとはいいがたい状況ですね。
「高次脳機能障害」と「発達障害」はよく似ているといわれますし、統合失調症と間違われる、あるいは併発する、というようなケースもあるようです。以下に関連外部サイト記事を紹介します。
また後天的な負の作用、精神面・物質面の両方を含む「環境因子」が複合的に関わって、「二次障害」などが引き起こされることが指摘されています。
また「愛着障害」にしても、より後天的なものが優位とは言っても、先天的な気質の個体差によって、その反応や程度に大小の相違があります。
「場末P科病院の精神科医のblog」⇒ 今までの精神疾患の認識を破壊せよ(トーマス・R・インセル博士の論文。その2。)
過去記事 ⇒ 先天的?後天的? エピジェネティクスと心・精神の病(自閉症・発達障害・他)
後、今回の記事では書いていませんが、よりわかりにくい力学として、「親の能力が非常に高く優れているからこそ、逆に子、あるいは家族バランスがおかしくなる」という矛盾したような力学も存在します。
この場合は、「子が親の能力・自己を支える補償の役割」になっています。これに関連する内容の記事は過去に幾つか書きましたが、いつか詳細にそのメカニズムを書こうと思います。
「発達障害」は、生まれつきの脳機能の発達の偏りによって生じる障害です。幼児期から症状が現れ、知的機能、言語、コミュニケーション、社会性、運動能力など、特定の能力の発達に遅れや偏りが見られます。
主な種類は、自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)、学習症(SLD)、発達性協調運動症(DCD)、知的発達症(ID)など。
「愛着障害」は、 主に乳幼児期における養育者との関係における困難な経験(虐待、ネグレクト、養育者の頻繁な交代など)によって、特定の他者との間に安定した愛着関係を築くことが困難になる障害です。
反応性アタッチメント障害(RAD)は、養育者に対してほとんど、または全く情緒的な安定を求めず、反応も示さない。脱抑制性愛着障害(DAD)は見知らぬ大人に対して過度に親しげな態度を示し、警戒心がない。
「人格障害」は、 特定の考え方、感じ方、行動のパターンが、その人の属する文化的な期待から著しく逸脱しており、柔軟性に欠け、社会生活や対人関係において著しい困難を引き起こす障害です。
青年期または成人期早期に明らかになることが多く、生まれつきの気質や、幼少期からの養育環境、社会的な経験などが複雑に絡み合って発症すると考えられています。
主な種類は、A群(奇妙で風変わりなタイプ)が、妄想性人格障害、スキゾイドパーソナリティ障害、統合失調型パーソナリティ障害、
B群(感情的で移り気なタイプ)が、反社会性パーソナリティ障害、境界性パーソナリティ障害、演技性パーソナリティ障害、自己愛性パーソナリティ障害、
C群(不安で恐れを抱くタイプ)は、 回避性パーソナリティ障害、依存性パーソナリティ障害、強迫性パーソナリティ障害です。
これらの障害は、単独で存在するだけでなく、複数の状態が併存することもあります。例えば、発達障害を持つ人が、二次的に愛着の問題や人格的な偏りを抱えることもあります。
以下に紹介のサイト「自分を変えたい人 自分で治したい人 のためのページ from やんばる」の管理人は「後藤健治」さんという精神科医なのですが、あの後藤健二さんと同じ、いや一字違いでしたが、
このような人間の負の一面を分析する精神分析学や深層心理学も、ある意味でマイノリティの活動というか、「内的なアンダーグラウンド世界」を含んだ「巨大な意識世界」の探求行為でもあるでしょう。
非常に残念ながら後藤健二さんは殺されてしまいましたが、彼だけでなく、そういうメンタリティの人が様々な分野に一定数いるからこそ、内と外の世界の深みと陰影を知るキッカケが生まれ、
そのおかげで私たちは世界・人間・現実と言うものをより立体的に学び深く広く理解できるわけですね。
話を戻しますが、「発達障害・愛着障害・人格障害」の違いをどう見分けるか? それを精神科医の「後藤健治」さんのサイトを参考・引用しつつ見てみましょう。
まず、このサイトの「人格障害と呼ぶ前に」の章では、「人格障害」を判断する際の診断の手順ががわかりやすくまとめられています。
では以下に、幾つかの 診断の手順のポイントを見てみましょう。( 「手順のポイント」の引用元 ⇒ 「人格障害と呼ぶ前に」より )
(以下引用)
私は数ケース、薬剤性で人格障害様の脱抑制行動になっているのを見たことがある。ひとつは「抗うつ薬による躁転」と呼ばれる現象で、うつの薬が効きすぎて躁状態になる場合。他には「抗不安薬による軽度意識レベル低下時の脱抑制」というのもある。特に眠剤や抗不安薬とアルコールの併用で記憶が飛んだり、暴れたり、子供のようにやんちゃを言ったりする様になる事があり、
これも表面上人格障害のように見える。 (引用ここまで。)
これに関しては、過去に書いた記事とも重なるので以下に紹介しておきます。過去記事 ⇒ 無視される「都合の悪い原因」 精神治療薬の問題と脳・心の単純化の危険性
同テーマをより詳細に分析している以下の記事も参考にどうぞ。
「場末P科病院の精神科医のblog」より
⇒ 青少年への向精神薬の使用は慎重であらねばならない 青少年への向精神薬の処方の実態とその有害作用 その1 総論
(以下引用)
私が研修医の頃、「反社会性人格障害」と言われた人が、炭酸リチウムを服用してびっくりするほど普通の人に変わったのを目撃したことがある。私の指導医は「躁うつ病だった。もっと早くリチウムを使
ってあげるべきだった」と述懐していた。躁うつ病の躁状態は、頭が変によく働いて、相手の弱いところを突いたり気分の変動激しく攻撃的になったりするので、一時的には人格障害と区別が難しい場合がある。 (引用ここまで。)
手順のポイント: AS(アスペルガー症候群)で無いか確認する
(以下引用)
「重ね着症候群」として知られているが、人格障害の診断がついた人の生活歴を詳しく聞くと、アスペルガー症候群であったというケースが意外に多くある。私の診ているケースでは、もともとASの診断がついた人で、愛着の相手に対する態度が、直接相手には言葉で言わないで周囲の人にだけ「分かってくれない」等と悪く言ったり、依存的でストーカーのよう
になったりするケースがある。 (引用ここまで。)
手順のポイント:「自己正当化型ADHD」および「自己正当化型ADHDのAC」 の可能性を考える
(以下引用)
例えば「自己愛性人格障害」と言われる人の中には(アスペルガーの人も居るが)自己正当化型ADHDの人が多い。この二つの鑑別は非常に難しいが、状況が分からず簡単にだまされたり、片づけが出来ないなどの発達障害様の特徴があるのがADHDだ。また「境界性人格障害」と言われる人の中には(アスペルガーの人も居るが)自己正当化型ADHDで二次障害の重い「自己正当化型ADHDのAC」が少なからず居るだろう。 (引用ここまで。)
(以下引用)
自分で「境界例」や「AC(アダルトチルドレン)」と言ってクリニックを訪れる人の多くはADHDのACであると私は考える。ADHDの二次障害によって、自己評価が低下し、「自分は人格障害だ」「変わらなければならない」と一生懸命に訴えるが、客観的には深刻味に欠け、訴えるほど対人緊張が見られず、また人格障害特有の人を振り回すずる賢さなどを感じさせない。(引用ここまで。)
以上、「人格障害と呼ぶ前に」より「診断の手順とポイント」の部分を引用・抜粋しましたが、これらの豊富な経験知と観察眼には頭が下がります。これぞプロですね。
一次障害と二次障害
まず、PDF「発達障害と少年犯罪」からの引用文を紹介します。
PDF「発達障害と「少年犯罪」」 より引用抜粋
そもそも、発達障害と尐年犯罪に何らかの因果関係はあるのだろうか。もしかしたら、発達障害に対する社会の差別や偏見、誤解、さらにはマスメディアのセンセーショナルな報道により、
そういった風潮が何の根拠もなく浸透しているだけかもしれない。「発達障害」そのものが原因で犯罪を引き起こすのではなく、障害を持つ彼らを取り囲む大人であり、地域であり、社会が大きな要因であ
るように思えてならない。この論文を通して、発達障害児を「犯罪者」にさせてしまわない社会とはどのような社会なのかを構想する。1章では、『犯罪白書』のデータをもとに尐年犯罪の現状、近年の傾向を探る。
(中略)
4章では、事件を通して明らかにされた犯罪へと繋がる可能性のある危険因子を特定し、発達障害児を「犯罪者」にさせてしまう社会を解明する。そして最終的には、彼らを犯罪者にさせないために私たちに何ができるのか、提案したい。 – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 発達障害と「少年犯罪」
上に引用した文には、二次障害の力学としてひとつは「スティグマ」が含まれていますね。「スティグマ」という社会学的概念に関しては過去記事を参考にどうぞ。⇒ 社会の閉塞感 「生きづらさ」の社会心理構造
このテーマと関連する記事を紹介しておきますね。
〇 発達障害の「診断」が、学校を「医療」の場にしている!?~教育の医療化(1)
最近の日本社会の集団反応にみる病理
最近の日本社会のネガティブ反応は「悲しみや同情心」よりも、とにかく「怒り・敵意・攻撃性・排他性」が優位ですね。
つまり、前回の記事で書きましたが、ネガティブ反応に「低次の防衛機制」を多く使っているような人が増えている=「未熟な自己愛レベル」の人が増えている、ということです。
「ネガティブな感情の反応パターン」の種類や「言葉の用い方」などで、その人の防衛機制のレベル= 成熟度の一面がわかります。ここ最近は「公的な集団リンチ」のような言論や表現の暴走が続いていて、どんどん慈悲の心がなくなってきているなぁと感じます。
「批判や処罰感情」の中に成熟した大人の冷静さがなく、人としての暖かさも視野の広さも完全に見失っているような剥き出しの攻撃心の塊みたいな姿がアチコチに見受けられます。
そして集団単位で行われるそういう反応や現象を人々が見聞きする状態が続くと、どんどん集団の心はエスカレートし、そしてそれは結局集団自身に投影され、互いを拘束し首を絞め合う形になっていくため、
人々は息苦しくギスギスした空間の中で寛容さを忘れ闘争的になり、他者の痛みなど感じれなくなり、益々視野も狭くなり、デジタル(点)のみで他者を分離的に見るようになります。
そして攻撃性はより細かく神経症的なものになっていき、いつしか容赦ない無機的な冷酷さに向かい、「おぞましい同化と排斥の社会現象」を生み出しつつ、分裂・退行・暴走の流れを生むわけですね。
過去にもこのテーマの記事は書きましたが、多くの人は、目の前に見える「破壊的現象・対象」=「見える悪」のみを見ます。
もちろんこれは見るべきものであり、現実的な対応・対策が必要なものですが、「世に生み出された破壊的現象・対象よりも破壊的なもの」は、「それを生み出した力学」=「見えない悪」の方にあります。
何故ならそれはあらゆる破壊性を生み出す原動力であり、結局のところその破壊的な力学の負の作用を強く受けた意識が変質し、特定される「人・現象」となって「時・場所」に現れているだけだからです。
それを見ること、そして意識化すること、それが本当の意味での「自己責任」です。つまり「世界に起きていることと自身の心は無関係ではない」ことを理解し、自己が世界に与える影響を自覚する時に生まれるものですね。
しかし実際はどうでしょうか、「世界に起きた現象と私は完全に無関係である」「あなたと私は完全に無関係である」をむしろ強調する、したいときに都合よく使われています。
つまり、「責任・原因は現象を起こした者達のみ」に帰結され、それを生み出す力学は隠されたままなわけです。多くの人は「無意識にあるいは意図的にそれに力を与えている、与えてきた影響力や力学」を、見ようとはしないのです。
そして「その力学と影響の相互作用の結果生み出されたもの」を、「それ自体のみで独立的に現れたもの」であるかのよう「完全なる負の対象」に置き換えて全体から分離させ叩くだけなんですね。
なので姿形を変えながら同じ質の「負の連鎖」「憎しみの連鎖」を生み出し続けていくでしょう。「毒親」とおなじように。
以下に紹介のニュースにある「殺されたイスラム教徒の3人」と、前回殺された2人の日本人、この人たちの命の重さに何か違い・差はありますか?⇒ 米でイスラム教徒3人射殺、憎悪犯罪の可能性 世界各国に波紋
一般のイスラム教徒を無慈悲に殺したのはテロリストですか?軍人でもテロリストでもないアメリカの一般人ですよね。やってることの残虐さに何も変わりはありません。
「罪を憎まず人を憎む」ような「負の連鎖」を止めなくてはいけませんが、それは今世間で言われている「自己責任という名の無責任」を放棄した時に現れる「本当の自己責任」によって、「無意識の意識化」が生じた時に可能になるでしょう。
その時、「罪を憎んで人を憎まず」が自然と理解できるようになるからです。