今回は「中立」と「運動」そして「事実命題と規範命題の接続」がテーマです。ではまず一曲♪ 前回に続いて再び「紺野ぶるま 」のラップ対決ですが、再び「喧嘩」の昇華、タイマン式で「言葉」の韻を楽しむ「ラップバトル」は、エンタメとしてとても面白いですね。
MCサーモン面白いですが、この対戦、個人的には「紺野ぶるま」の勝ちですね♪ これだけの毒を発しながらも、何か笑ってしまう「紺野ぶるま」の言葉の力、存在感に一本!
多様性なんていう複雑系は、特定のアカデミアの知、ダイバーシティの理論と思考の中だけに収まるようなものではなく、理系、文系にまたがる複数の専門知や多元的な身体性を総合した「集合知」で取り組んでいかなければ、全く偏ったものになるでしょう。
それは場に存在する多様な生、生活や政治、その全てに関係してくる話だからです。それを特定の専門家がテーマを囲い込んで体系化し権威化し、その概念体系だけで教化し導けるような単純なものではないでしょう。
「あなたの常識は、誰かの非常識」という言葉があります、そしてダイバーシティの文脈で「常識」とか「普通」を過度に否定する専門家もたまにいますが、
これを「集合知」の概念でいうなら、常識とか普通といわれる「ある種の正解」というのは、「個に最適化された正解」ではなく「全体にとっての最適解」です。
それは絶対普遍なものではないにせよ、「無制限に価値相対化された個々の自然さ」よりも、「個と集団とのバランス(社会的生き物である人間)」にとっての最適解、という意味です。
「最適解」=「唯一の答え」という意味ではないのです。その意味で、「常識」とか「普通」とかいわれる「ある条件下での最適解」もまた「社会的生き物である人間」には「必要」なものであり、「私には合わない」からといって直ちに全否定したりするような質のものではないのです。
「中立」や「客観」はマジョリティの立場に立つことではないです。「中立」は、 対立するどちらの側にも味方も、敵対もしないこと、であり、マイノリティ側、マジョリティ側のどちらに対しても中立であり、「客観」は「特定の立場にとらわれずに物事を見て考える」ことですね。
感情や主観がメインになる状態というのは、その場合、「自己にとって不快なものを含めての他者」を多角的に考えたりせず、見たいところだけを見、見たくないものは見ないになりやすいため、
快不快ベースの白黒思考で「誰かを悪、誰かを白」のように二元化し、他者の多元性(白でも黒でもないグレーな領域の広さ)を逆に見落としてしまうことも起きやすくなるのです。
それが一時的には「特定の当事者」の精神的負担を軽くすることはあっても、そのやり方が他の形で「別の当事者」を抑圧する力学にも繋がり、そういう複雑な利害関係が絡み合っている問題、わかりにくい対象・多元的な他者を扱う時、
確かに客観や中立の姿勢で冷静に洞察していく姿勢では、相手に求められる気持ちを軽くする答えが簡単には出ず、認知コストがかかりとても非効率的でしょう。しかし複雑なものを複雑なまま観ているなら当然そうなるのですね。
しかし感情や主観に任せると、不快な認知コストをショートカットし、より単純で「自分(特定の属性)」の都合にとって合理的な方を選んでしまう傾向になるのです。
その結果、「都合の悪いエビデンスは隠す」ということすらも平気で出来るようになっていきます。それを専門家や学者がやってしまえば、その権威性から事実を都合の良いように捻じ曲げることだって出来てしまうのです。
これでは「嘘」でも真実に出来たり、「立場が強い方、影響力がある側」がゴリ押しで何でも優位にもっていけてしまいます。だから事実を精査し「どちらかの立場のみで考える」のではなく、属性とか党派性の利害対立の文脈ではなく、「事実に基づいて」、出来るかぎり価値中立、客観的な姿勢も必要になるのです。
本当は差別問題のような複雑な利害関係と「多様な他者」が関わっている問題にこそ、「中立」「客観」「冷静さ」が必要になるのです。
仮に強引に押し通して一時的には要求を飲ませたように見えても、かならずしっぺ返しが来ます。運動する側が「第二の抑圧者」になってしまうからです。
事実命題と規範命題の接続
「心・精神の専門家」が「科学的」「エビデンス」等を前面に掲げているとき、その「前提」にしている研究は本当に再現性が高いものなのでしょうか? 疑似科学を叩きつつ、己が「灯台下暗し」には甘い「特権に守られている側」は、疑似科学以上に「不都合な事実を隠す」のが上手いでしょう。
非専門の人々は、「科学」の専門の肩書を持つ人から言われれば、その権威性ゆえに信じてしまうことも多いでしょうが、そうやってどれだけの「不確かなもの」が「確かなこと」のように思い込まされてきたのでしょうか。
一般人にはそんな権威性はないし、哲学的考察だってあくまで個々の思考・思想に過ぎず、ですが科学はそうではなく、エビデンスに基づいて、制度化された専門システムの中で「他者」に直接介入するのです、その意味で疑似科学以上に強く広範囲な影響力があるのです。
それは「私はこう考えた」という一般の意見、ロジカルな考察とは全く次元が異なる話です。
「(心理学的)測定上の困りごと」 より引用抜粋
本稿では,心理学的測定の軽視について取り上げ,それが心理科学の再現可能性に対する近年の取り組みに対していかに深刻な(ただし,あまり認識されていない)脅威をもたらすかを説明します。その後,今後の展望としていくつかの提案をします。
(中略)
残念ながら,心理学研究の多くの領域では,妥当性の証拠が不足しています。たとえば,抑うつは,年間1,000件以上の調査研究で評定されており,様々な分野(心理学,精神医学,疫学など)で,アウトカム,予測因子,調整因子,共変量として用いられています。抑うつの重要度を評価する尺度は,ここ100年の間で280種類以上が開発され,研究で使用されてきました。よく使われている抑うつの諸尺度では,50以上の異なる症状が取り上げられており,尺度間での内容の重複はあまりありません。
たとえば,最も引用されている尺度 the 20-item Center of Epidemiological Studies Depression scale (Radloff, 1977; 約41.300件の引用)にある諸症状の1/3は,そのほかのよく使われる尺度には含まれていません。結果として,尺度の違いによって結論が異なることが,臨床試験で幾度となく証明されています。
たとえば,最近の臨床試験で,全身温熱療法が抑うつの治療に効果的かどうかを調べるために,4つの異なる尺度で患者に質問をしました。その結果,4つの尺度のうち1つだけがプラセボ群に比べて温熱療法群で有意な改善を示していました。
残念なことに,その著者らは,効果がなかった3つの結果について論文内では言及せず,補足資料として報告しました。これは重要な教訓です。
まだまだあります。大うつ病は,DSM-5の現場試験で評定されたすべての精神疾患の中で評定者間信頼性が0.28であり,最も低かったものの1つでした。
(中略)
このような理論的・統計的な測定上の問題は,オービターの場合と同様に,調査研究の結論を歪め,推論(科学者の現実の行動と科学における資源配分に影響を及ぼすもの)を間違わせるという重大な帰結をもたらす可能性があります。心理学研究において測定という営みが不十分であるのは,なにも抑うつだけではありません。特定領域のレビューでも同様の問題が指摘されており(たとえば,感情:Weidman, Steckler, & Tracy, 2016),私たちの最近の研究によれば,不十分な営みは多くのトピックや領域にわたっています。
(中略)
また,尺度の修正(項目の追加や削除)が当然のように行われており,複数の尺度をとくに理由の説明もなく単一の指標としてまとめていたことも確認されました。
(中略)
必要なのは追試ではなく妥当性の研究です。心理学の再現性を高めようと思うなら,測定という営みを改善しなければなりません。再現が当たり前になるには,測定理論が当たり前に使われなければなりません。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ (心理学的)測定上の困りごと
それを前面に掲げていないものであればまだいいのです。科学の「権威性」「正統性」だけを強調しつつ、実際はたいして科学的でもない、という程度の客観性で専門家が断定的に語るくらいなら、最初からその程度(仮説・主観)の文脈でロジカルに語っている方がまだマシ、ということです。
それなら信用し過ぎずに、「その程度の文脈(仮説・主観)のロジカルな話」という「前提」を共有して話が聴けるからマシ、というくらいの意味です。
「事実命題」を中心に扱っているのであればまだこのようなことは起こりにくいですが、「事実命題を善悪の価値基準を含む規範命題に接続する場合」は、むしろ専門家の方が無意識が強く作用する場合もあるのです。
そして「事実命題から規範命題への接続」に権威性を与え、「ジャッジをする資格のある側」という無意識の錯覚をもたらすのです。
その結果、「自分と同じように考えない相手」に対して、すぐに特定概念を当てはめて「そこを考えないのはあなたが○○だから」と、「自分と同じ前提」で考えるように相手の内心へ干渉し、「同じ政治的正しさ」に相手を改宗させようとしたりする。
よく混同されるが、臨床疑問の種類によって優先するエビデンスは異なる。
・治療に関してはランダム化比較試験
・予後に関してはコホート研究
・診断検査に関しては横断研究
・副作用に関しては症例対照研究
事例研究は仮説生成型で、一般化にはその後いずれかのデザインで検証されないといけない。— 坂田 昌嗣 Sakata Masatsugu (@MasatsuguSakata) September 22, 2021
「規範命題」は特定の専門家の価値基準でのみ解釈でき解釈させるような専門家の専売特許ではない。それは政治性を含み、時には社会、世界にも作用する基準になり得、特定の専門家以外の「他者」、特定の専門家の価値基準とは反対の者たちをも含んだ問題であり、「他者」を抜きにして何でも決められないものです。
政治というのは、(根源的には)「解決」というのは存在しません。「他者」というのものは『「私」に「解決できないもの」』を含んでいるのです。なので「利害の調整」、有限性の範囲で考えるものなんですね。
「静観」という運動
「静観」にも質があるのです。しかし「大きな声を上げる」ことだけを運動と捉えるだけの単純な思考は、「沈黙」や「静観」を「傍観」と捉え、「中立の立場からの辛抱強い批判的分析」を「冷笑」と捉えます。しかし「静観」もまた「実践」であり、その静かな運動の中に「複雑さ」への開かれがあるのです。
「実践的」になすべき唯一のことが、直接的関与という誘惑に抵抗すること、そして辛抱強い批判的分析によって「静観」することであるような状況は、存在するのである。 ジジェク
「単純に動かない」まま「複雑なまま」熟考する認知コストは、相当なエネルギーとわからなさに耐える力を必要とします。
逆説的には、「解決できないものを含んだ他者」が前提にあるから政治が必要になる、ともいえます。しかし先鋭化した社会運動やカルト的なものは違うんですね、「私」が世界の問題を解決する!革命する!という理想が前提です。
これは根源的に「他者(多様性)の否定」なのです。この手の理想からの運動は、「他者」は「私」に全て理解ができ「私」は他者の全ての問題を解決し救える、という前提なくしては成立しないからです。
その結果、「私」が突き進む運動が結局は「私の理想世界」を他者に内面化させて認めさせる以外に方法がなくなり、「解決できないものを含んだ他者(多様性)」の否定・排除から、別の形の抑圧と支配の構造性に置き換わっていきます。
特定の思想・思考の型のフレームのみで対象・物事を見れば、対象・物事は非常にわかりやすくなり、特定の属性を共有する内集団には都合が良く解釈出来るため、共感が生まれやすい半面、
フレームの強化によって他者の多元性を単純化してしまい、蔑ろにしていることでもあるために反発を受けます。しかしその反発に対してもフレーム内で処理するように概念化されている思想体系は、最初から世界観が自己完結しているので、「他者」に触れることなく自己完結し続けます。
そして「何故このテーマになるとこうなるのだろう?」と常に振り出しに戻ります。それは自分の概念的思考に閉じたまま他者に干渉するだけの姿勢だからそうなるのです。
「マジョリティが特権を自覚しなければ対話が成立しない」ではなく、「複雑な問題を単純化し、何かを具体化してく上での様々な矛盾や問題点の指摘を耳にもいれず、常軌を逸した暴力を諫めることもせず、理にかなった手順・手続き的正義も無視して、ただ大きな声を上げる」から対話が成立しないのです。
多様性を生きている人であるなら、「自身のやっていることに興味を示さず、自身の話を受け入れず、自身と違和感のある他者」こそ、自分を縛っている「フレーム」、「枠」に気づかせる者として認めるでしょう。
その「身体性のズレ・違和感」に興味を持って触れていくことが「無意識を学ぶ」ということです。そのズレを「認める力」に存在の肯定と自由があります。不快さもズレも違和感もない内集団に中には、元々多様性も存在の自由もないのです。
「他者・ヒト」は元々個々全てが「ミクロな異文化」であり、「違和感のある別個体」です。
しかしカルト化した眼差しは、特定の思想・概念を内面化し、その基準で現象を解像するときに感じられる「概念と世界のわかりやすい一致感」を「真実に目覚めた」=気づきと感じます。「目覚めた者」は「何を見ても実際にそう見えてくる」のです。
そして対象の属性とかアイデンティティとか、ひとまとまりに単純化された概念で他者を捉え、現実と思考の解像の一致感を追体験する中で、確信を深めていきます。これはカルトにハマる時の無意識の自作自演性であり確証バイアスの一種なのです。
属性ひとまとまりでは判断できない、アイデンティティに収まらない、それが「他者・存在」です。個人的感情、主観優位で観てしまうと、他者ではなく「自身の感情を投影した他者のイメージ」が先行し、それが現実よりも重きを増していきます。その人にとってはもうそれがリアルなのです。
「哲学者が示す新しい世界の見方Vol.2ーー 千葉雅也 重要なのは多様性より多重性」 より引用抜粋
多重性――。それは、たとえば意見が違う人同士が一緒のコミュニティにいるとき、あるイシューについては意見を「別の箱」に入れておき、お互い「ここではその話はしない」という態度をもつことであり、それは決して矛盾ではないと千葉は言う。
「部分的に見て見ぬふりをすることがとても重要なのです。つまり、異質なものや自分が否定したいものを『流しておく』という精神性のことで、そこを啓蒙しなければいけないと思います。もちろん批判することも必要ですが、批判を完遂しようとしたら異質な陣営同士で絶滅戦になってしまう。
多様性を認めるということは、ある程度は自分にとってイヤなものを認めるということです。そこが勘違いされていますよね。多様性というのは、正しい方向に理解すればみんなが納得するはずだ、みたいに思っている人がいるけれど、そんなことはありません。
多様性というのは、自分にとってイヤなものをある程度『流しておく』ことなんです。それを、全面可視性のもとでの多様性と考えるからおかしくて、多様性を認めるためには不可視性、つまりは隠れる場所が必要なのです。問題は、すべてを明るみに出せばいいと思っている人が多いということ。だから、それは違うと言い続けていきたいです」