生のポリティクスと心理主義社会の包摂的排除

 

今回は「構造的ニヒリズム」、「心理主義」という視点からの「包摂的排除」と「透明化された疎外」がテーマです。これは通常の疎外や排除とは質が異なります。今回のテーマは禅・瞑想のカテゴリーを含み、「無意識」「存在」の領域を含みます。

 

ではまず一曲♪、 前回に続きRuRuさんのピアノcover、ニーアオートマタ主題歌「壊レタ世界ノ歌 / Weight of the Worldを、パーフェクトな2Bのコスプレ姿で演奏します。クオリティ高いです♪

 

 

 

心理主義社会の包摂的排除

制度が個の実存を抑圧していることで生じる「虚無」の中で、個人は「いかに生きるべきか」の実存的な問いを生じさせます。そしてミクロな虚無からの「解放」のためにマクロな運動性へと向かい、脱構築し解体していくことでミクロな「虚無」を超えようとする。

 

しかしこのミクロな「虚無」を超えようとするマクロな運動こそが、「虚無」を維持する力学だとしたら?というこのパラドックスは、違う角度から過去にも少し書いていますが、

 

ここでの問いは、現実的な社会的必要性での役割や、精神の支えにもなっている力学を単純に否定するものではありません。

 

ある概念で生み出された「苦しみ」は、それ以前の実存の苦しみと同じだろうか? その概念に捕われることでことで生まれたものを、その概念体系で救うおうとするのは、「その人自身の実存から思考錯誤し、己が生へと問いかけていく自由な応答と創造性」を奪っていることでもある。

 

そして見方を変えれば、心理主義社会におけるクライアントというのは、「ある特定の専門的仕事それ自体の目的合理的行為によって知的生産された概念体系によって顧客化された人間」ではないだろうか。

 

「語りへの包摂・語りへの排除 ─ナラティブと心理主義化─」 より引用抜粋

個人の物語が主として精神医学や臨床心理学から供給され,またそれを聴く職種や体制にそうした学問を修得した人々がついていった。供給されてきた主な概念としては,「トラウマ」,「心的外傷」,「ADHD」,「世代間連鎖」等々現在では日常用語にさえなったものまである。

このような概念や専門職種が90年代以降日本社会で急速に広まり,資格化されたことを心理主義化ととらえることができるだろう。それを批判的にとらえるならば,さまざまな心にまつわる問題を疾患判断基準の俎上に載せ,科学的な装いの下で自らの専門的な管理下におこうとする医療化論とも結びつくだろう。

また,これらの概念の発見と普及に対処すべく整備された制度や職種が,かえって現場において対象となる人々を統制におくという専門家支配論と結びつくかもしれない[崎山,2008]。

だが,ここではむしろナラティブにおける心理主義化の効果に注目を進めてみたい。この点について社会学の分野では,ベラーらが先駆的に『心の習慣』の中で大きな物語の衰退にともなう個人化と自己の心の表し方を気にかける社会への変化にともなう「心」への意識の傾斜とカウンセラーへの需要の増大に対し,問題の個人化と批判的に考察している[Bellah, et. al. 1986=1991]10)。

また,リアリティの構成を社会学的に分析するバーガーは「心理主義の現実の固定化」として,現代社会を分析する際に心理学的な解釈図式がいわば個々人の自己の真実と見なされる傾向があるとし,以下のように述べている。

心理学理論がもつ実現化という力はとりわけ大きなものだ。心理学はいったん社会的に確立されるようになると(つまり,もしそれが客観的現実の正しい解釈として一般に受け容れられるようになると),それが説明すると称する現象の中で強力に自己を実現化しようとする傾向をもつ。

心理学の内在化は,それが内的現実と関係するという事実によって促進され,その結果,個人はそれを内在化するという他ならぬこの行為のなかで,それを実現化するのである。……心理学は一つの現実を創造し,この現実はまた心理学の正しさを立証するための基礎になる[Berger, P. 1966=1977, pp. 302-303,強調引用者]。

バーガーが指摘するように,心理学という知識の「正しさ」は,それが当てはめられる自己の内的な真実と照合される。だからこそ,臨床心理学の知識やそれが提供するナラティブに直面したものは,それと自分の真実の内面と照らし合わせる。

たとえば,ADHDという概念を提供されたとするならば,それが示すさまざまな特徴と自己との正誤表を作る。 一方,この作業をおこなう当該の人物は,問題経験があるからこそそうした概念を必要としてその場に居合わせたのであり,また,多くの臨床の場で提供される心理学的概念は何らかの程度の差はあれ,個々人に当てはまってしまう。

かくして,ADHDという概念はその正当性を維持したまま新しい現実を作る。 このように,心理主義化するナラティブは,小さな物語に真理を見いだそうとする心性,精神医学や臨床心理学という科学的な知,そして両者が相互に反映する中で現実をつくりあげていく。

この種のナラティブの心理主義化に対する批判としては,さまざまな臨床心理学・精神医学の概念についての系譜学的な批判もある。また,前述したような医療化・専門家支配といった批判もある。だが他方で,二節で述べた語ることを欲する人々,社会がある。また現に三節で述べたような心理主義的なナラティブが臨床的に効果をもち,それによって自らが抱える問題のコトバを見つけられた人々もいる。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 語りへの包摂・語りへの排除 ─ナラティブと心理主義化─

 

「専門化された大きな物語」を受け入れない「多様な傷つき」が存在します。それは実存への問い、存在への問い、を未だ社会に権威性に明け渡さない「概念以前の傷つき」とそのまま在る者たちです。

 

「専門的権威性」と一般人の非対称性によって、ある概念体系を個人に内面化させることに成功し、その内面化された概念によって意識内に構築された「苦しみの自覚」と「現実をそう感じるようになる人たち」の発生によって、個人は自発的従属的にクライアントになり、

 

その文脈の中にカテゴライズされることを受け入れた結果、双方の契約行為は成立し、「仕事」は正当な役割性を持つことで「対価」としての報酬を得られるわけです。「専門的権威性」による目的合理的行為によって生み出された概念体系が、「最も正しき大きな物語」として個の実存を制度的に支配する、囲い込む。

 

そしてその文脈に基づいたシステムの中だけしか個を支えられない、という専門的アサイラムへの依存性を生み出すことで顧客の選択肢を一元化する、という「傷つきの市場」の独占状態=既得権益化へ向けた社会構築性は、

 

その文脈の中には収まらない存在の全体性にとって、ただの監獄的アサイラムの増設であり、権力による領土の没収であり存在の排除・抑圧にもなるのです。「概念以前の傷つき」に実存的にアプローチしながら生に取り組む自由なゆらぎにこそ、「実」としての創造性と「虚」としての創造性の動的な調和の可能性が宿ります。

 

しかしそれらの者たちを、「専門的権威性」が「外集団」として脱価値化して締め出し、そして「非権威的・非専門的な無形のアジール」に乗り込み開拓し、全てを管理し囲い込むことで、

 

専門的文脈に基づいたシステムの中に所有化され、資本化されたシステムに回収する方向性に持っていこうとする時、それは根源的な多元的創造性を疎外し潰していく作用にもなっているわけです。

 

自我の危機、自我の虚無からの防衛としての機能が、存在忘却として存在を透明化し、見えない暴力となっている構造性がある、ということです。

 

 

生のポリティクス

生政治」「生権力」というのは『知への意志』においてミシェル・フーコーが提起した概念です。 この概念についての参考サイトをひとつ紹介しておきますね ⇒ 【生権力とはなにか】その意味・フーコーの議論をわかりやすく解説

 

バイオポリティクスにはフーコー以外にも複数の概念があります。参考に ⇒  バイオポリティクス

 

以下に紹介の「心理主義化社会のニヒリズム」では、ギデンズ「生のポリティクス」「解放のポリティクス」と「実存的問い」、そしてギデンズのニヒリズムの克服の捉え方と、ハイデガーの「存在の問い」とニヒリズムの考え方の差異などについて考察しています。

 

「心理主義化社会のニヒリズム」 より引用抜粋

モダニティにおける日常生活は,計算可能性のうえに成り立っている.専門知識に基づく再帰性が,計算を可能にしている.計算可能性は生活はコントロールできるという人々の生活への信頼,あるいは思い込みを維持する.

それは,実存的不安を封じ込めると同時に,道徳的規制の代わりも果たす.社会はコントロールするためにコントロールするのであり,たとえば神が定めた道徳規範を守るためにコントロールするわけではない.だからコントロールは,道徳的には無味乾燥な社会環境においてなされ.これが秩序と同時に無意味感を生んでいるわけである
(中略)
ギデンズによると,実存的問いは制度的に抑圧されても回帰してくる.それは「集団的レベルでも日々の生活でも,舞台中央に立ち戻ってくる」(MSI:208=236).その具体的な現れが,生のポリティクスである.

生のポリティクスについてギデンズは,「選択のポリティクス」「ライフ・スタイルのポリティクス」「自己実現のポリティクス」「生活決定のポリティクス」などと.さまざまな仕方で定義している.そして「何よりもます,自己アイデンティティそのものに影響する決定」(MSI:215=244)のポリティクスだという.
(中略)
ギデンズは,生のポリティクスは解放のポリティクスのうえに成り立つ,という. 解放のポリティクスとは,「生活の機会に対して不利に働く東縛から個人や集団を解放することに関連する包括的な見解」(MSI:210=239)を意味する.とくに階級,エスニシティ,ジェンダー,経済力といった,人々の間の分裂(division)の解消をめざすところに,解放のポリティクスの実質的内容がある.

近代初期から追求されてきた解放のポリティクスがある程度実現されてきた後期近代になって,生のポリティクスは登場する.それは,モダニティが制度的に抑圧してきた実存的問いに人々が新たなかたちで答えようとする取り組みである.「生のポリティクスに関わる問題は,解放された社会環境でわれわれはいかに生きるべきかという問いに集中するので,道徳的・実存的な問題と問いを前面に押しださざるをえない」(MSI:224=254).

こうして,制度的に抑圧されていた実存的問いが回帰してくる.回帰してきた実存的問いは,人間の実存そのものをいかに把握し生きるかという問いである.それはハイデガーのいう「存在の問い(questionofBeing)」(MSI:224=254)にほかならない,とギデンズは指摘する.

回帰した実存的問いの具体的現れである生のポリティクスは,いかに生きるべきかという問いを中核としているという意味で,再道徳化の問題でもある.
(中略)
以上,ギデンズのいう生のポリティクスについて概観した.それが実存的問いを焦点にし,ニヒリズム克服をめざしていることが明らかになっただろう.しかし,この目的はおそらく達成されない.なぜなら,生のポリティクスは,ニヒリズムだからである.
(中略)
解放のポリティクスも生のポリティクスも,両者ともニヒリズムである.それをギデンズは見逃している.その最大の原因は,実存的問いと「存在の問い」を混同していることにある.そう考える理由を,ハイデガーの著作や彼の存在論を考察してきた古東(2002)に基づいて説明する.

ますニヒリズムは2種類ある.「現象としてのニヒリズム(以下,現象ニヒリズム)」と「ニヒリズムの本質(以下,構造ニヒリズム)」とである.前者の現象ニヒリズムは,科学的懐疑主義が伝統や宗教の衰退をもたらし,神が死んだ’結果,人間の生や世界に究極的根拠(目標・価値・規範・理由)がなくなった状況を意味する.

多くの人が,生きる目標を失ったり,自分や世界の存在意義が感じられないといった状況である.一般的にニヒリズムといえば,この現象ニヒリズムをさす場合が多いたろう.ギデンズがいう実存的問いが制度的に抑圧されている状況や「個人の無意味感」が広がっている状況,あるいはフランクルのいうニヒリズムは,現象ニヒリズムに当たると思われる.

現象ニヒリズムが社会を覆うとき,この状況を何とか克服しようとする運動が起きてくる.たとえば,社会主義や民主主義運動,宗教への回帰といった試みが事例としてあげられるだろう.けれども,ハイデガーは次のようにいう.「ニヒリズムは外部から克服することはできない.

キリスト教の神の代わりに,理性とか進歩とか,経済的・社会的な《社会主義》とか単なる民主主義とか,こういう別の理想を立ててニヒリズムを抜き去り押しのけようとしても,ニヒリズムを克服するわけにはいかない」
(中略)
存在を忘却し,忘却していることも忘却して,未来に実現すべき理想へ向かって努力すること,それが「本来のニヒリズム」であり,構造ニヒリズムである4)人々が存在を忘却する理由の1つは,存在に直面することが恐怖をもたらすからである.
(中略)
ギデンズは「心理学」が掲げる「本来性」がハイデガーの本来性概念と異なることを指摘し(MSI:78=87),生のポリティクスに取り組む人々こそ「存在の問い」に取り組んでいると考えている.しかし,前節で論じたように,ギデンズは「存在の問い」の意味を取り違えたために,生のポリティクスが構造ニヒリズムである可能性を見逃している.ギデンズに当てはまることは,広く社会学にも当てはまりうる.

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 心理主義化社会のニヒリズム

 

引用文中に出てくる「現象ニヒリズム」、これは「自我の虚無」の領域ですね、そして「構造ニヒリズム」は、「存在の虚無」の領域です。宗教にせよ心理学にせよ、「自我の虚無」に対応するものである点で、構造ニヒリズムを超えるものではなく、むしろそれを強化する、という力学が存在します。

 

ハイデガーの語る「存在者」は「有の領域」であり、「存在」は「無の領域」とはいえますが、そして彼が老子に関心を抱いていたことは知られています。しかし老子とハイデガーは質的にまるで異なり、また「無」と「空」は異なります。「非有非無」という東洋的感性は、西洋の二元論、二項対立的思考では捉えがたいものでしょう。

PDF ⇒ 「無」をめぐるハイデガー思想と中国学との対話

 

ico05-005 有の以って利をなすは、無の以って用をなせばなり (老子)

「有」が「有」として成り立つのは、その裏に「無」の働きがあるからだ。

引用元 ⇒ http://www5.airnet.ne.jp/tomy/koten/roshi/roshi_d.htm

 

無為自然は「どう生きるべきか」の指標となる、とネットに書かれていましたが、「無為自然を指標にする」ということ自体が既に「作為」であり、自我の作為 = 「何かに、何者かになろうとすること」は、無為自然ではなく、作為自然です’(笑)。

 

何か、何者かになろうとする自我(有)の作為が無くなり、ただ「無心」で在るとき「道」は向こうから現れる、そして「道」は、「何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為している」、ということですね。「何事かを為そうという主体」が「いない」ままに何かを為す、これが無意識に生じる創造性です。

 

私は、非自我領域や「無」「存在」等に関する西洋的思考による記述の仕方の中には、「思考の仕方が根本的に異なるなぁ」という違和感を感じことがよくあり、西洋の「理知」の過剰さ、アプローチを否定はしませんが、東洋的な感性知と思考の領域には、西洋的な思考では捉えられないものがある、ということはよく感じます。

 

ハイデガーへの批判的考察は、たとえば 論理実証主義者のカルナップによって以下のように手厳しくハイデガーと形而上学が批判されていますが、西洋的思考の型・文脈で考察するならそうなるのでしょうが、不可知の領域に対するカルナップの明晰さにも「西洋型の理知」の過剰さ、というものを感じますね。

 

彼は論文「言語の論理的分析による形而上学の除去 3)」(1932 年)において,「無は自ら無化する」という命題は「二重の意味で無意味だ」と断罪する.第一に,「無化する」という語が検証不可能であるから無意味である.第二に,「無」を主語にした「無が~」という語順が論理的構文論に違反するから無意味である.即ち,「無が~」ではなく,「~が存在しない」と述べるのが正しい.

(論理記号を使って書けば,「¬ ∃ xF(x)」が正しい.このように書けば,「無」という主語は現れない.) カルナップに言わせると,形而上学的命題は,事実の記述(Darstellung, description)ではなく,人生に対する感情や態度の表現(Ausdruck, expression)である.

音楽家であれば音楽を用いて表現することを,音楽の才能がないがゆえに,言葉で表現しているのが形而上学者である.即ち,形而上学者とは「音楽の才能のない音楽家」である.しかも,形而上学者は,「自分は感情を表現しているのではなく,事実を記述しているのだ」と自らを欺き,他人を欺いている.カルナップはこのようにハイデガーと形而上学とを激しく非難する.

論文 ⇒   なぜ無ではなく何かが存在するのか : 分析哲学における形而上学の盛衰 (伊藤典子教授 定年退職記念号)

 

 

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