「虚無を生むもの」のテーマはまだ続きますが、今日も「自我」の補足記事で、「自然自我」の癒しをテーマに書きます。先週からずっと固く難解な長文が続いているので、インディアンの言葉なども織り交ぜて紹介しています。
イビツ化した自然自我の生む苦悩
毒親や子供の頃のトラウマなどによって、自然自我そのものが機能不全・不調和状態で形成されている場合、それを無意識化して社会的自我を形成しても上手くいかない場合が多いでしょう。
解決されていない不調和を存在が深いところから問いかけてきます。それに耳を澄ますことなく無視し続けると、無意識下ではイビツ化した自然自我が「解放されないもうひとりの自分」として、ますます実体化されていくのですね。そしてそれは何かのキッカケに様々な形で噴出してきます。
あるいは、社会的自我が弱く抑え込めない場合や先天的に自然自我が強い場合は、無意識的に機能不全・不調和状態を外側に表現し続けて他者に否定的影響を与えます。
このブログでは、家族の心理学のカテゴリーでこれまでも毒親の問題を何度も扱ってきました。それは自我の初期形成において、親・家族は最も大きな影響を与えるからなのです。
以前このブログで紹介した社会学者の加藤諦三 氏の言葉を以下に紹介します。
子どもが親の役割を背負ってしまうことがあります。子どもの心は破壊されます
親の心の問題は、子供を通して現れて来ます
「自分の子供を誇りに思うこと」 子供はこれで成長していきます
情緒的に成熟しないで母親になると、母親にとっても子供にとっても悲劇です
2チャンネルなどの掲示板でも赤裸々な姿が垣間見れます。私は2チャンネルは読み専門で書き込みはしませんが、彼らが悪循環のスパイラルから抜け出し心を回復させることを応援し、願っています。
自然自我とインナーチャイルド
個体には初期の頃から自然自我があり、それは社会的自我とは同じものではないですが、(原初的な)観念と中心性を持つ意識であり、
自然自我は「大自然」を含んだ人間の無意識領域の相互作用から生じるもので、大人になっても存在し、これは自然存在の「感性・感情」とリンクしていると考えた場合、自然自我は大脳辺縁系と強くリンクした自我で、スピ系風にいえば「インナーチャイルド」ともいえますね。
「インナーチャイルドを癒す」というのは、大脳辺縁系にあるトラウマ・否定的な感情記憶を癒す=「内なる子供を癒す」とも捉えることができるでしょう。
「社会的自我」は、無意識領域が発達と共に徐々に意識化され統合されて、自他を明瞭に区分けする顕在意識となり、外部から与えられた記憶・情報によって、それぞれの社会の「型(フレーム)」が形成されるのであり、
そうやって意識の中心点が自然自我から社会的自我に移行することで、「大人(と一般にはいわれる存在)」になります。
なので、自然自我を癒して存在と調和させるには、「社会人」は役には立ちません。「社会的なもの」を外す方向性なんですね。
自然自我こそは人のベースだから、インディアンが良きお手本になります。自然自我は理屈や正義や正論や抑圧では調和的に育ちません。自然自我は無意識を含んでいるので、言葉・思考よりも感性・真心のダイレクトな感受で育つ。
ここに不調和や機能不全があると、アダルトチルドレンや他の心・精神の病の原因になることがあり、人格障害の潜在的原因にもなることがあります。
ではここで、インディアンの生き方や言葉、哲学が込められた本「自分を信じて生きる」と、「インディアンの言葉」を一部紹介します。
『「自立」っていうのはなあ、本当に困ったときに「助けてくれー!」って言えることだ。 それができなきゃ「孤立」してしまう。 その代わり、自分が与えられるものは惜しみなく与える。 そこから人とのつながりと信頼が生まれる。』
人生の悲劇は苦しいことにあるんじゃない。何を見落としたかにあるんだ。
◇ インディアンの言葉
ほめられる中で育った子はいつも感謝することを知ります。
仲間の愛の中で育った子は世界に愛をみつけます。
はげましを受けて育った子は自信を持ちます。
「自分を信じて生きる」より
「矛盾はあっていいんだ。自然は多くの恵みを与えるが、時には容赦なく人を殺す。だいたい人間だって自然の一部じゃないか。それに全部を白黒つけようったって、そういう訳にはいかないんだよ。 光と陰、夏と冬、男と女、両方あるから世界が成り立っている。」
◇ インディアンの言葉
公明正大な中で育った子は正義心を持ちます。
人に認めてもらえる中で育った子は自分を大事にします。
心が寛大な人の中で育った子はがまん強くなります。
批判ばかり受けて育った子は非難ばかりします。
◇ インディアンの言葉
ひやかしを受けて育った子ははにかみ屋さんになります。
敵意にみちた中で育った子はだれとでも戦います。
ねたみを受けて育った子はいつも悪いことをしているような気持ちになります。
赤子には「親に依存している」という自己認識はまだ存在していません。それは幼児的万能感=「望むことが全て叶う」という全能感覚であり、それが自然自我(ありのまま)の出発点なのです。
幼児もやがて自と他の境界を知り、自と他の分離の現実を自覚し、受け入れ、発達と共に変化する個の自然自我と同時に社会的自我(あるべきもの)を形成していきますが、
「自と他の分離の現実を自覚し始めた時期」に、親が子どもをありのままの自然自我を受け入れ認めてあげることで、「親に受容された経験」を通して、子は「依存せざるをえない自らの存在」を認めることが出来、
「ヒトという存在は他に依存し、依存されるもの」ということを自然に認めること出来るのです。
そうして「ありのままの自分」を内的に認めることができるようになることで、自然自我は存在と調和し、社会的自我とも上手く調和して共存できる最初のベースが出来るんですね。
その結果、親から健全な自立が出来るだけでなく、人は人として在ることの幸せを自然に感じ、他の存在に感謝し、調和的に相互依存する存在として生きる人間性の土台が出来ます。
「自分を信じて生きる」より
思い通りにならないものを自分の中に受け入れたとき、相手の声が聞こえてくる。
人は泣くときと笑うとき 自分の魂と繋がることができる
矛盾と同居できる人は美しい
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