無宗教の人々もまた「形而上のエルサレムで戦っている」、そんな風にも感じる社会の姿を感じつつ、今年も終わりに近づいてきました。ゆっくりペースですが、下書きのままだった幾つかの記事を年末までに更新しアップする予定です。
ではまず一曲、中島みゆきで「nobody is right」です♪
その正しさは気分がいいか 正しさの勝利が気分がいいんじゃないのか (中島みゆき nobody is right)
沈黙の中にある無心の運動は、世界を根底から「見えない形」で静かに変容させていきます。顔真っ赤にして衝動的に怒り、叩くことや戦うことしか頭にない人、「味方」と「敵」に単純化し「相手に中指を立てるだけ」の人達というのは、
ただ世界を分断するだけで、それは「敵」も「味方」も何も変えない相互媒介の自我運動となって「やった、やられた」の能動と受動の因縁がループするだけで、共犯関係でしかありません。
「正しさには関心がないとか、絶対正しいとか思っていない」とか、そんなことを語りながら、実際の言動では、意見の異なる他者・属性などに対して、事あるごとに否定的にカテゴライズする概念を使ったり、
善悪のどちらかに分ける概念を使ってジャッジする思考で「特定の方向性」で運動をして、しかも制度や教育を変えるような現実的な活動をしているのなら、
それは「自身の正しいと考える価値」をマクロレベルに拡大し、多くの他者にそれを課すことであり、「自身の正しさを強力に信仰している」から出来ることで、反対者を社会的に現実的に否定し、自分たちの信じる価値基準に統一するための運動でしょう。
結局は、「それぞれが一番だと思っている価値」の対立とその力関係によって、一方が優位になったり劣位になったりすだけのパワーゲームでしかないんですね。
静かなる運動という強き支え
「意識の高さ」みたいな言動って、物事を単純化し、優劣や善悪の戦いにしてしまって、結局現実を悪くしてしまい、気に入らない対象を絶対悪にして断罪し、そこに人を巻き込むことでさらに過剰な闘いにしてしまい、後に引けなくなるんですね。
「自分たちと異なる」からといって非難するような不寛容さで、幾ら多様性とかインクルージョンとか掲げても、一部の「何があっても同じ方向を見る内集団」以外は、それを多様性とも寛容とも全く感じれないままでしょう。
そんな常に戦闘モードで他罰思考のループに一体化すれば、「疲れる」のは当たり前でしょう。
ところでちょっと話は変わりますが、以下↓に紹介の記事にあるように、「過剰に攻撃的な手段」を使わなくても、組織票というバックやキャリア・知名度がなくても、工夫一つで「無名の1個人」が市議選で当選できるのです。
「東大卒」にも色々いてピンキリですが、「たった一人の活動でも当選できる」、こういうのを「頭がいい人」というのでしょう。
〇 つくば市議選で無名女性候補が「街宣車も演説もゼロ」で3位当選…“さすが東大卒”の秘策があった
話を戻しますが、「本当に疲れる」のは「静かな運動」なんですね。そして「無意識を観る」というのも疲れるのです。「複雑な他者・現象」を「複雑なまま」で観ていくのは本当に疲れます。単純化して怒った方が遥かに楽です。
たまにソーシャルワーク系の専門家とか何らかの当事者とかが、「自分たちがエネルギーを注いでいる活動や関心を向けるテーマ」に対して「何もやらない、時間を割かない人たち」を責めたり、悪い事のように言うことがあります。
確かに、代弁者や当事者として戦う、というのも時には必要でしょうし、やれる人はやればいいでしょう。ですが「目に見える目立つ運動」のようなことをするか、しないか、ということだけが「運動・行動」ではありません。
何か「積極的な姿勢」みたいなものが外部に見えない、からという理由で「消極的」だとか「無関心」だとか、勝手に決めつけて批判的に語る「意識の高い人」もいますが、そんな薄っぺらい言葉に捉われず、無理をせず「自分と身近な現実」を疎かにせずに大事にしましょう。大きな音を立てることだけが運動ではないのです。泣いて怒りに震えるだけが他者への共感ではないのと同様に。
たとえば全く政治的な運動、社会運動等をしない、家事や育児、そして仕事を精一杯やって一日が終わる、そんな人は沢山いるでしょう。それも立派な運動なんですね。
仮に専門家の方が「一般の方」に対して、「自分たちの社会的役割・仕事・勉強してきた分野」のことを、分野外の人が同じ次元で理解しない、行動しないからって、突っかかるように厳しく批判するのであれば、それはズレています。他の分野の専門家から見れば、その人達だって同じ次元で理解や行動はしていないのだから。
みな「自分の出来ること」で、有限な時間の中で、多元的なそれぞれの利他性、運動をそれぞれのやり方でクリエイトしていけばいい、と私は思います。「違い」に対して否定から入らず、相互補完的に「異なり」と協力しあった方がずっと豊かな方向性にいくと思うのですが、「意識の低さ」みたいにして悪者扱いするようではかえってダメにしてしまうでしょう。
「善悪」における戦い、たとえば、「あれが悪いこれが悪い、もっと良くしよう」、「あれは酷い、これは酷い、やめさせよう」、「あいつは悪人だ、みんなで叩こう」、というような運動はわかりやすい。やっている本人も「運動している感」が得られるし、「利他」を行動に移しているような気持にもなれる。
「私は人助けをしている」、「弱いものを救っている」、「善」に基づいて行動をしている、とそう「感じやすい」運動でしょう。
ですが見方を変えれば、それが「逃避」の一形態であることもちょくちょくあるんです。誰かを裁く運動、他責傾向に向かうことで、「もっとも目の前にある自分の姿や現実、身近な日常の中で自分の人生を育てていくことから逃げている」。
まぁ簡単ですからね、社会とか他者とか悪人とかを叩いている方が痛みは少ないし、正義の運動している方が良い気分でしょう。
物言わぬものたち
話は少し変わりますが、過去に、「マザーテレサ」と「カトリック」の在り方に関して批判的な記事を書きましたが、(それはマザーテレサの本心や行動が、メディアが作り上げたイメージとは全然異なるからです。)
ただマザーテレサは深く葛藤し苦悩していました、本心では自己欺瞞に気づいていました。どれだけ世間で評価されていても、自分の心には嘘がつけなかった、その意味ではとても正直な人だと思います。
そしてカトリックは「過去70年ほどの間に1670人もの聖職者が性的虐待に関わっていた事実」、その組織体質を肯定できませんが、(仏教界でも指導者たちの性的虐待の問題は存在します。)
〇 50年間続いてきたカトリック教会「性的児童虐待」の深い闇
ただカトリックは、マザーテレサの隠された真実の公表を阻止したり妨害したりはしませんでした。そして性的虐待の事実を認め、批判に対して戦うような悪あがきをすせずに、謝罪も行っています。
その点で、カルトのような「悪い部分を徹底的に隠す」「内部、外部の批判を徹底的に潰す」ような自浄作用のない、セコくて小賢しい虚栄心に満ちた腐敗組織よりは、ずっとポジティブで真っ当な姿勢であり、そして歴史も含めて器の大きな組織だと思います。
マザーテレサの負の部分は置いといて、コトバの使い方が上手いなぁと思っていました。多くの人の心をとらえるコトバ、表現が出来るという意味で、才能のある人ではあったのでしょう。
「彼女のコトバには彼女自身の深い葛藤や苦悩が全く表現されていない」という点から、もしかすると「自分がそう在れない」ことへの絶望的な悲しみから、理想として、「他者にはそうあってほしい」という彼女の願いだったのかもしれません。
「世界平和のために私達は何をすべきか?」と、マザーテレサが聞かれた時に彼女が答えたこと、そのコトバには私も共感しているんですね。
彼女はこう答えました。「家に帰って家族を大事にして下さい」と。(そしてこのコトバも、「彼女の活動」とは異なるものです。)
「家族」ではなくても「身近な人・現実」を大事する、世界を平和にするための社会運動としては、とても「静かな運動」でしょう。ですがそういうささやかな「当たり前」のことが、世界を平和にするということです。
極めて創造的な運動ほど、善悪に絡む戦い的な社会運動とは遠いものなんです。「運動」も「行動」もそんな単純なものではないんですね。
利他的で立派に見えるようなことだけが運動・行動ではなく、むしろ社会問題への運動など一切していなくても、それらの人々は社会そのものを個々に支えているのです。
シッカリと腰を据えて自身の人生、仕事を深めていく、日常を創造的に生きる、その行動・運動は、誰かを裁く運動、他責や否定性の運動にはない、もっと豊かな多元的な影響を与えているのです。
その集積、その膨大な運動の恩恵を私たちは日々受けています。何かを善悪に分け戦うことではない運動、それが「物言わぬもの」の姿です。
あなたからは「物言わぬ者たち」に見えていても、実際は他者や社会に別の形で作用するコトバを語っているんですね。硬直した乏しい感性では、それは運動に感じられない、というだけなんです。
しかし「物言わぬ者たち」を、「自分たちと同じ方向を見ない」、「自分たちが重点的に取り組んでいることに協力的でない」からといって、「彼らは何もしない」とか「利他的でない」とか、否定的なニュアンスを込めて言ってしまう人々こそ、深い意味で「何もしていない」「何もわかっていない」人達なんですね。
単純化された運動・行動ではなく、別の運動形態、行動形態を通して、あなたとは全く異なる利他、影響を与えているだけなんです。しかし、「単純化された運動・行動のあるなしでしか人を見ない」、そういう傾向の強さは、「カルト的になりやすい要素」のひとつです。(この場合のカルトの意味は宗教に限りません)。
「我々は正しい」とか「誰彼は間違っている」とかそういうことではなく、そして穏やかに当たり前のことを大事にしている人の地味で目立たない姿にこそ、働きにこそ、そのままで利他的であり社会的運動そのものでもあるんですね。
山奥で畑を耕しているだけのおばあちゃん、全く知識もなく現代社会の問題も知らない、でも大地のこと、植物のこと、一日を生きるということを深く「身体」で知っている。その生き方そのものが精神活動であり、運動であり行動であり、多様性なんて言葉も知らないけれど、存在自体がとても大らか。素朴なものであっても、そこには「知恵」があり心の豊かさがある。
「生き方そのもの」で顔を合わせて対話するだけで、一切の批判もなく「相手を変えよう、正そうとせず」に多くの学びを与える形のない社会運動は、まず身体性がベースにあって、そこで知識は豊かに生きてくる。
人は、自分の人生を大事にし、身近な人たちを大事に、そこで出来ることをやればいい。その姿がそのまま社会運動だから。自分の仕事、子供、妻、家庭を大事に守って生きる、それも実に素晴らしい事。個々の人生をそれぞれが豊かに育てていく、それは創造的なものであり、深い運動でもあるのだから。
「自分の人生を生きれていない」、「創造的にあれない」から、自身そのものや身近なものに取り組めず、「外部」に過剰に目を向けて「運動している感」「戦っている感」「利他的なことをしている感」を得たい、そうすることで虚無な自身の生を忘れ、虚しさの穴埋めにしたい、という自我運動は、
それが酷くなるとメサイアコンプレックス的なものになる。「誰かを救う自分」、「困っている人をほっとけない自分」の活動を自己実現、生きがい、の代用にしてしまう、ということですね。
まずは自分の人生を育て充実させましょう、その「充実のまま」で他者と創造的に関わりましょう。それが一番「(押しつけがましくない)自他の救い」です。(まぁ専門家の方が仕事で行う場合は、それが社会的役割なので意味が全然異なりますが、「一般の方」に関してはそれでよいんじゃないかと私は思います。)