疑似アジール/アサイラム  隙間と逃げ場がない中で

 

 

かなり久しぶりに記事更新です。(^-^) なかなか思うようにサイト編集・更新の時間がとれないまま早数か月が過ぎましたが、下書き状態だった記事を土日で幾つか更新する予定です。

 

今年ももう春と夏が終わり季節は秋に向かっていますね。今回は疑似アジール/アサイラム、次回がイノセンスをテーマに考察した内容で書いています。ではまず先に外部サイト記事をひとつ紹介します。

 

 

ネット大炎上、シェアハウス盗難、相模原事件…「つながり」とは何かより引用抜粋

(中略)
ぼくがほしいのは、他人を叩きのめす力ではない。異質な物と、つながりを持てなくても、理解しあうことはできなくても、寄り添うことをやめないだけの足腰の強さと、感応できるだけの優しさだ。歳を取った人間の描く希望とは違うかもしれない。

けれどぼくたちは、それがあれば生きてゆけるのだ。敏感でやわらかな指先を、他者に向かってのばすこと、それが、僕にとっての希望なのだ。(『メゾン刻の湯』より引用)
(中略)
皮膚感覚のある信頼は、ひょっとしたら「社会的な正しさ」の外に自らをずらすことでしか、得られないのではないか?

誰もかれもが、「これは正しい」「これは間違っている」と正しさで人を裁く現代において、正しくあることよりも、私は間違っているし、あなたも間違っている、けどそれでいいじゃないか、と言ってくれる人間を見つけることの方が、

正しくある事よりもずっとずっと、大事なのではないだろうか。

世の中が、清く、正しく、美しい方法で1等賞を目指せと言うのなら、僕は僕なりのやり方で、栄誉あるドンケツを目指そう。たぶん、沿道の誰もがリョータと僕に向かって声援を贈りはしないだろう。

それでもいい、と僕は思った。それに決して怒らず、しかし、決して受け入れもせず、社会の誰もが見向きもしなくなったころに、栄誉あるビリとして、悠々とゴールラインを越えてやる。

きっとそこから見える景色は、とんでもなく清々しいに違いないのだ。(『メゾン刻の湯』より引用)

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「弱い人が弱いままであれない社会ってすごく不幸」小野美由紀さん『メゾン刻の湯』について語る

 

 

↑上記の記事を少し見方を変えて「アジール」「アサイラム」という文化人類学的概念から考察することも出来ます。

 

私が使う「アジール」は「依存できる非支配的な逃げ場」の意味で、「アサイラム」の意味は「囲い込まれた管理・支配された場」の意味合いが強いです。

 

 

 

カオスな路地裏、野宿が出来る公園、橋の下、夜の駅も、もはやどこにも隙間なく管理と統制が行き届いた「アサイラム化した社会」の中で、

 

一般人や子供たちが心身共に追いつめられ限界状態であった場合、それに対して「逃げればいい」「離れればいい」と言われても、

 

気負わずにフラっと依存できるような繋がりを複数持っているような人でもない限り、孤独な一般人の方や子供の場合はそう簡単に動けない人だって実際多いわけですね。

 

アサイラムをアジールとして生きる」には、ひとつは個々が主体的に「1アジール」としての場となって、多様なアジールの共有ネットワークを自主的に形成することで防衛するしかない、

 

パターナリズムの質を持つ組織や国や専門家集団が運営・提供する「アサイラム」では、個々の動的で多元的な現実の場に対応はできない事も多々あり、

 

個々が有している柔らかいマターナリズムの発動によって、多元的な豊かなアジールの場を自主的に創造的に形成することで、

 

その単位はひとりひとりは非常に小さな場であり力であっても、集合的に捉えればそれがもたらす作用は非常に大きい、といえます。しかしそれは難しでしょう。

 

 

 

弱者の生き残り戦略の流れの中に、カルトや犯罪組織などが目をつけて、弱者や疎外された者が、搾取の構造に取り込まれぬように目を配り気をつけることは必要です。

 

ですが、組織や国や専門家集団の提供する「アサイラム」には関わりたくない、入りたくも依存したくもない、というタイプの人も世の中には多く存在するわけで、

 

そういう方々の中で、より安全でプロフェッショナルな「アサイラム」に向かわなかった結果、他の「一見すると救いのアジールのように見えるが、実は危険で粗悪なアサイラム」に取り込まれてしまう、ということも実際にあるわけです。

 

このような「救いと解放のアジールの顔をした粗悪で強欲なアサイラム」は、カルトをはじめ、「アリ地獄」のように世の中に点在します。まさに「アウトローホイホイ」ですね。

 

なのでより安全でシッカリした「公的なアサイラム」の方を勧めるのは当然な対応でもあるわけですが、同時にそれだけでは不十分なんですね。

 

多様な「当事者」の形成するアジールのネットワークは、「支配的でトップダウン型の専門家のパターナリズム」とは全く異なります。

 

「上から正論や正しさを一方的に押し付け、逐一学問的な定義・概念の中に存在の全体性を押し込め、優劣・善悪・美醜などの価値判断で性急に単純化したり二元化したり、

 

それに正しく応答せず適応しないからといって、潔癖症的に批判してくるようなタイプの干渉」からアジールは離れていた方がよいんです。

 

右や左や上下に少し振れだけで文句を言われたり、矯正を強いられるような、過剰な統制や同調圧力が作用する「余計なお世話」が多い硬直性を強める環境下では、「ゆらぎ」が否定され、アジールのもつ本来の力が失われるからです。

 

そういう潔癖症的に批判してくるようなタイプの干渉は、「支配欲求」によって対象・状況をコントロール下に置きたい心理によるものであり、

 

アジールの持つ「おおらかさ」ゆえのブレの負の1面を、デジタルに重箱の隅をつつくように捉え、大きな声で過剰に批判・否定したりするやり方で相手を威圧し支配・屈服させようするため、

 

そのような働きかけの結果、もはやアジールはのびのびした力を失い、「優しく血の通った非組織的な小さなアジール」ほどそれだけで潰れてしまい、逆に叩いても潰れない、「救いのアジールの顔をした粗悪で強欲なアサイラム」のような組織的なものがメインで残り、

 

結局どこにも入れずに「あぶれた人」は、不運にも数少ない「残り物」の疑似アジールの雰囲気に惑わされて、「アウトローホイホイ」に取り込まれてハマったりしてしまうのです。

 

そして「アリ地獄」の中で弱者は骨までしゃぶられるか、逆に自らが監獄の守衛になったりして、「新入り」を誘導・管理・指導する役割すら引き受けるわけですね。

 

そうやって「アジール的なるもの」は目をつけられ過度に統制され、ますますこの世は隙間と逃げ場を失って、「ビジネス化されたアサイラム」だけが残っていく悪循環に陥り、

 

「包摂」の豊かさ・多元性を失い、仕事化・役割化されることによって均一化・単純化と局所化が進んでいきます。

 

SNSでもそうですね、「ストレス過多で細かいルールが多すぎる現代社会」にとって、「優しくおおらかな質のアジール」ほど「補完的な役割」として必要性が高いものなのに、

 

そういうものほどのんびりしてて支配欲や闘争性をあまり持たないため、何かうるさい人に絡まれたりトラブルがあると、非活動的になったりあまり目立たない感じに引いていく現象がよく見られるわけですが、

 

カルトや過剰なイデオロギー系や何らかの自称正義の人たちはどれも似ていて、反応が過剰で性急で、自分たちが一番正しいという拘りが強かったり、支配欲が強く闘争的・攻撃的だったり、声がでかいので目立つのです。

 

そしてトラブルがあろうが何を言われようが、「ああ言えばこう言う」でしぶとく残り続ける。そういう個人・集団・グループだけがネットでもリアルでも目立つわけですが、実際には世の中には遥かに多くの「目立つ主張はしないが行動的な人々」がいるのです。

 

しかも一見「目立つ主張をしない人々」の中にこそ、自己肯定感の高い人、行動的で地に足の着いた安定したメンタルの人がいたりします。

 

「目立つ主張をしない人々」とはいっても、別に沈黙しているわけでも無抵抗でもなく、単に「主張」よりも「行動」が中心であり、また主張する時はシッカリとするわけですが、

 

自然体であるため、やたら主語を大きくして余計な大騒ぎや他者を巻き込むような過剰反応がなく、執着、粘着性が少ないため、思考も感情表現もアッサリとしていてシンプルです。

 

よって、自己肯定感の低い人にとっては、自然体な人ほど気にならない存在だからあまり見えない、そして「見ようとすらしない」んですね、逆に何か目立つ人、声や主張のデカイ方に気をとられやすいんです。

 

このあたりの「感覚的なもの」を、学問的分析ではなく「感性的」に捉えて考察し説明している、ベテランカウンセラーの大嶋 信頼 氏の外部サイト記事を紹介します。⇒ 通勤電車でバレる「幸福な人、不幸な人」

 

だから「残り続ける」とはいっても、まともに共感し相手にしている人は実際は少ないわけですが、それでも「自分たちが何かの主役・中心」のように思い込んでいる姿は結局どれも似ていますね。

 

 

ラストに、歴史学者の網野善彦 氏に関する外部サイト記事を以下に紹介しています。『近代社会は「無縁」と「公界」と「アジール」が失われ社会である』という考察ですね。

 

〇 無縁:世俗的な社会の権力の関係と無縁である状態

〇 公界:「無縁」 によって形成された社会

 

「無縁」 「公界」 「アジール」 ―― 近代的な方法論がどんづまった今、「前近代」 を見つめ直すことの意義。  より引用抜粋

西洋中世は長い間、「暗黒の時代」 と言われてきた。その後、研究が進んだ結果、そうした見方は、一種の迷信のようなものであることが明らかになった。
(中略)
うした歴史認識の転換に関して、阿部謹也 の功績は非常に大きい。かたや 網野善彦 である。彼は日本の中世観に関して、同様のパラダイム・シフトをもたらした張本人である。
(中略)
阿部、網野 両者が積極的に取り上げているのは、それまでの歴史学や政治学が無視してきた宗教祭祀的、呪術的な社会組織である。

今までは、権力の支配形態と生産流通、すなわち、政治と経済によって時代や社会が説明され、宗教祭祀的、呪術的要素はそれらの単なる補完物のような扱いを受けてきた。

そうした視点からは、「支配-被支配(従属)」 という単純な二元論的な色分けしか出てこなかったのである。
(中略)
われわれは、近代的政治理念の傲慢さに気付かなければなるまい。たとえば、「所有」 である。近代的所有制度は 「無主」 を認めない。

しかし、「無縁」 や 「公界」 の伝統がつづいているところでは、明治期にいたるまで、「無主」=「共有」 がなされていた。

山林である。山林は実用的な意味での 「無縁」 「公界」 であるだけでなく、宗教祭祀的、呪術的な意味合いにおいて 「アジール」 でもあった。

明治期、近代法による近代的所有権の概念が導入されると、山林に 「無主」=「共有」 は通用しなくなった。

―― 代わりに現れたのが、「入会権」 なる非常に複雑怪奇なシロモノである(煩瑣になるのでこれ以上の言及は避けたい)。

かくして、「近代化」 の美名のもと、 「無縁」 「公界」 「アジール」は姿を消すことになる。

にもかかわらず、人間の本性には、「アジール」的なる場所を強く希求する底意が根深く残っている。もとい、それは人間に限らず、「生命」 なるものの本質にかかわるものなのかもしれない。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「無縁」 「公界」 「アジール」 ―― 近代的な方法論がどんづまった今、「前近代」 を見つめ直すことの意義。

 

◇ 関連外部サイト記事の紹介

〇 アサイラムをアジールとして生きる ――あるハンセン病療養所入所者からの聞き取り――

<アサイラム/アジール空間>の人類学

 

 

 

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