随分と更新なく月日が経ちました。このまま更新なく年を終えるかもしれないなぁ、と思うほど目まぐるしい日々でしたが、先日井上尚弥の試合を見て感動し、「気合い」という嫌いな精神論を自らに適用したところ、一つだけ過去の下書き記事が仕上がりました(笑)
精神論も好きなファイターをイメージしながらであれば効果ありですね、プラセボであっても。
では最初に一曲紹介! ひかるさんのベース、いいですね~パワーが伝わってきます♪
もう数か月以上も前に途中まで書いてほったからしていたものが幾つかあるのですが、年末までには更新したいと思います。
来年からは今までのテーマとは異なる方向性にじょじょに切り替わっていく予定なので、出来れば今年中に終わらせたいですが..。このブログの第一段階(とはいっても明確な段取りがあるわけでもありませんが)は、大体終えたように思います。
特にグーグルが検索で医療系の検索結果を改善したことが大きな転機になりました。
このブログはタイトル通り、主に心・精神という形而上の領域を含んだテーマを扱うブログで、形而下がメインの医学・学問サイトではない、とはいえ、
病んでいる人、疲れている人、様々なマイノリティ、そして、カルト信者などを含む「状態がヤバい人」も読んでいるため、(※ とは一応書いても、大体の人に対しては本当はヤバい人とは思っていません。極々一部、イッちゃってるケースあり。)
「部分的には」かなり配慮して書いている箇所はあります。逆に全く適当に考えずにラフに書いている場合もありますが、それはカテゴリーやテーマを分けるようにしています。
当ブログでは専門家による分析、適切な解説や指摘、これ等は重要なポイントとして、記事内で多数引用やサイトの紹介をしてきました。
最近はグーグルが検索で医療系の専門サイトを上位表示させるようになりましたが、以前はそうではなく、あらゆる情報がごっちゃになっていました。
あの検索カオス状態でどういうコンテンツにすれば役に立つか?と私なりに考えましたが、工夫しつつ時間をかけて、ある程度は形になってきたなぁと思っていたら、
そのタイミングでグーグルが一気に全部変えてくれたので、やや徒労に終わった感もあります。技術的に出来るんだったらもっと早くやって欲しかったなぁ、という思いですね(苦笑)
カオスなグーグルの検索状態では、情報を精査出来ない人が迷ったりすることもよくあったので、初心者さんでも正確な情報へアクセス出来るように情報収集し紹介することは大事な点でした。
特に科学的な分野、専門的なもの関しては、「エビデンスのあるデータ、専門家」というのは必要不可欠なわけですね。私はブログやSNS、ネットが人生や仕事の活動の場ではないので、エネルギーも時間も膨大に使うわけにはいきませんが、
曖昧な情報や主観に偏った極端すぎる情報があらぬ影響を与えないように、時間の限り、情報の精度を保つための修正や追加更新、不足していると感じた部分の補足の記事を書いてきましたが、
グーグルが変わることを知っていれば、ここまで書き込まずにもっと異なる方向性で、ゆるい面白コンテンツ作成に時間を使っていたでしょう。そして専門性に繋ぐのはずっと後になっていたでしょう。グレーな領域こそ本来私が最も関心のある領域だからです。
ただ、特定の専門家だけでなく多数の専門家の意見を参考にすること、そして参考にするだけでなく紹介し、各専門サイト・記事等に繋げる流れを作ること、この二点は今後も継続していきます。
多数の専門家・人々の意見
「多数の専門家の意見を参考にすること」これはツイッターでもそうですが、特定の人だけでなく、複数の専門家をフォローして発信情報に目を通す、これはおすすめです。
専門領域を含んだ情報というのは、「事実判断」の精度が時として判断を大きく左右し、それが「命取り」にすらなることがあるからです。
そしてこの点を出来るだけ守るようにしたのは、自身の当事者としての経験からくる判断でもありますが、他の専門家たちからのアドバイスも考慮しています。
特定の専門家やそれ以外の人が全て何もかも嘘しか言わない、ということは滅多にないにせよ、部分的にはおかしいことをいう、という場合は結構あります。
また単純な正誤で分けれるような問題ばかりでなく、同じ科の専門家でも特定の現象に対してかなり「捉え方、対応、判断」が異なる場合もあります。
どちらにせよ全てにスペシャル・万能な人はいません。
ですが、あるテーマに関する複数の専門家の意見・説明を読むと、そこには多少の説明の仕方の差異はあっても、科学的な事実判断には共通性があり、その事実判断の部分が大事なことなんですね。
人柄や価値判断には大きく差異がある場合もあります、まぁ人間なのでそれに多少は左右されても、「それはそれ、これはこれ」と分けることが大事でしょう。
その事実判断の部分を信頼し正確な知識として押さえておくこと、これは「騙されにくくなる」「適切な選択」という意味では大事なことなんですね。
騙されさえしなければそれで人生OKか?適切な選択さえ出来ればそれで人生OKなのか?といえばそうではないですが、リスクを避ける知恵も持っておいた方がいいですよ、ということですね。
他者の思考と無意識の知
科学的知識や専門知識の良いところは「他者の思考を共有できること」です。その複数他者の知識の積み上げ・共有の上に、天才の突出した発想が「偶然」生じてくるわけです。
この「偶然」は結晶性知能と流動性知能が結びつき、意識化出来なかった「無意識の知」とシンクロして引き出される、とも表現できるので、
能動的だけでも受動的だけでもなく、中動態的なものを含むものとしての「偶然」と考えた方が自然なのですが、この詳細は省くとして、
天才だけでなく、地味で無名な土台の取り組みをしてきた人たちもみな、派手さはなくても立派な働きをなしているのですね。
色々と専門家の知識に触れていくにつけ、目立つ評価はなく主張、表現は少なくても、そういう人々の現実での取り組みが私はとても好きになりました。
高度な創造性の昇華ほど、「積み上げられた過去現在の他者による知的土台」が大きくシッカリしているのです。それは「ただ本を沢山読んでこねくり回しているだけの人」と違い、基礎的な他者の知が使いこなせるまでに昇華された形でインストールされているわけですね。
これはただの情報の断片が記憶されているだけではなく、スキーマが専門的にアプリ化、機能化するまでに体系化され応用できているわけです。ただの記憶情報ではなく、使い方次第で技術となり実践的なものになるんですね。
他者の膨大な知的土台の上にそれを超えるようなものを生み出す、それは非常に困難な道のりです。
人間の「原初的な思考の型」というのは、「思想の歴史」を学べばもうほぼ出尽くしています。それがわからない傲慢な人は、「自分で見出したつもり」なのでしょう、
だからカルト教祖になったり、逆にそういう即席の知に騙されるわけです。※ ただこの種の傲慢さは多かれ少なかれみなが持っているもので、それ自体は悪とかいうようものではありません。
ただこの種の傲慢さに無自覚だと、それが肥大化していく場合に有害な問題を起こすことがあるんですね。だから指摘するのです。
現在の世界は原初的な思考の型から生じたミームの編集的過程に過ぎませんが、この組み合わせの豊富さは過去には存在せず、ミーム進化は非常に豊かな創造性の昇華になっていく可能性も秘めています。
本来、「事実というのは誰のものでもない」のです。ところが感性や主観、個人的世界観は本人が有する先天性のものを含み、型を上手く真似するくらいは出来ても完全にそのものを共有することはできません。
親子であっても他者であるように、ベースとなる「身体」が異なるからです。まぁせいぜいが同化一体化で乗っ取られるのがオチです。それは自身の生を放棄するカルト信者たちのようなものですね。
「自分で考えること」
グーグル検索が変わる前は特に事実判断の混乱を避けることが重要でしたので、ひとつの方向性としてはそういうコンテンツ構造を目指していましたし、これからも多少は続けていきます。
「自分で考えること」は大事だと思いますが、「専門家とのつながりが薄い病んでいる人」「孤独で疲れて心が弱っている人」「様々な意味で状態がかなりヤバい人」、
こうゆう人は「自分で考えること」が逆に事実判断の精度を大きく失い、人生の分かれ道(負の方向性)になる場合も現実に沢山の実例があります。
これは主観的なものが悪い、という意味ではなく、私が扱っているテーマが、そして読者の中に「専門的なものが必要な相手が多数いる」ということへの配慮です。
そして、私自身がある種のマイノリティ当事者であり、多数の当事者とのリアルでの接点、経験がある者としての個人的な想い、というのも根底にはありますが、
ただ私は私の世界観への共感を他者にあまり求めてません。私は私であればそれでいいからです。あなたがあなたであればそれでいいのと同様に。
ミクロな創造性とマクロな創造性の質的差異
そして形而上の問題、「善悪」の問題や、個を超えた社会問題に関するテーマも、私たちの日常に大きな影響を与えている現実的なテーマであり、
これは専門家だけなく、マジョリティ、マイノリティに拘わらず様々な次元での価値相対性があります。この多元性に触れながら自身はどう考えるのか?というスタンスが大事です。
集合的なもの、個的なもの、その両方で社会は形成されているため、個人の意見・価値・世界観だけを押し通すスタンスでは成立しません。ミクロな創造性の昇華とマクロな創造性の昇華には質的な差異があります。
これらのテーマは、専門家だけでは扱えない大きな枠組みで個人・集団に作用しています。社会というのは個人の創作でも所有物でもなく、あらゆる人がそこに入っている大きな枠組みです。
そして民主主義の社会では、人々が多元的な知恵を絞り、知識を駆使し、洞察、分析、話し合いを通して時間をかけて考えていく中で、システムを更新していくことが可能です。
この可能性の実現は決して理論通りにスムーズにはいかないにせよ、少しづつでも前進していくには、個人プレーではなく総合的な力と様々な協力が必要な、動的な複雑系への取り組みですね。
なので現時点での社会状況を見ながら、事実確認だけでなく様々な見解、見識を聴いたり参考にしたり、時に他者との共同作業も同時に必要でしょう。
複数他者の知見、ゼネラルな広さも必要であり、「既知」で完結した自身の価値基準からの世界観の表現ではなく、スペシャリスト的な技芸、表現の自己探求とも異なり、
「未知」へ向かう運動性、異なる他者への開かれた意識、許容、自他のゆらぎの中で葛藤し理解し高めていく弁証法的な摩擦の過程が必要です。「痛み」なくしては通れないのです。
そうでなければマクロな形では創造性は昇華できないでしょう。私はSNSにせよ何にせよ意見そものに同化はしません。少し離れてマクロな現象の動きを観察しているんですね。
ですが、「未知」へ向かう運動性、自他のゆらぎの中で、葛藤し理解し高めていく弁証法的な摩擦の過程に「耐えられない人」も多いです。
スグに自己完結した結論や価値判断から、他者や物事に優劣をつけ性急に分けたがる、その心理の背景にあるのは「快・不快」から理解の壁を作り、気に入らない相手の価値下げを行い、
気に入った相手だけの許容、理解という生理的な次元からダイレクトに合理化し、善悪・優劣の二元論に結びつける、これは精神分析の概念を使うなら低次の防衛機制が優位になってきている状態であり、
心・精神の幅・余裕がなく、防衛的で排他的な心から自身を正当化し、自己の価値基準(モノサシ)に見合うものだけを大事にするだけのような人が増えてきている傾向性なのでしょう。
このブログにおける「専門」に絡んだ探求があるとすれば、医学的・専門的対応ではなく、社会という「外側の集合的な現実」、
個々の環境の中での影響力、心理的な力学、作用の分析をしつつ、そこから、「内側の個的な現実」の解放、あるいは昇華、適応、生きやすさへの現実的可能性の模索を行い、
または自分の視野だけではなく、多数の人々の情報、取り組みを紹介すること、そうすることで価値多様性に耐性を持ち、「多様な現実が在る」という事実を理解し、また可能性を見つけるキッカケをつくることです。
今後は私自身の独自の考察をさらに減らし、自身の表現よりもっと「他者の取り組み」を数多く紹介していこうと思います。
「ネットで自己実現」は私には不要で、ネットでの承認欲求とか、優劣云々の話も基本どうでもよく、ネットでの様々な機能を使う場合でも、ただの実験的な試みとか好奇心とかで機能を少し試す程度です。
リアルでの日常が基本、そこが存在の全体性が生きる場であり、形なき表現の場そのものなので、それをささやかに大事していきたい、と思います。
これは「私はそうだ」というだけで、他者であれば、ネットで自己実現もいいんじゃないか、と思います。嫌いではないですよ、それもまた可能性のひとつだと思います。
仮にネットなどで一切表現をしなくても、そして日常で芸術作品などを見ず聴かず、クリエイティブな活動などしなくても、日常の生きる姿そのものが創造的な時、人はみな芸術であり詩です。
使い古されたように見えるありきたりな言語しか使わなくてOK。形式としてどう表現したかの優劣を見るのではなく、生き方そものの瞬間瞬間に垣間見える「無形の創造性の現れ」は、生き物であり「ただ美しい」です。
あなたの沈黙と無表現、それだって創造性の現れです。