今日は、生命の起源と進化、そして「人間とは何か?」がテーマです。「人間とは何か?」に関してはこのブログの大きなテーマのひとつなので、今回の記事ひとつで結論を出すわけでわありませんが、今回は理論物理学・東洋思想・生物学によって、このテーマを見てみましょう。
生命の起源に関しては、RNAワールドとプロテインワールドの二種類の説があり、これはRNAが先に出来たのか、タンパク質が先に出来たのかの理論の違いですが、まだ決着はついていません。以下に「生命の起源と人間進化 関連リンク」を紹介していますので、専門的な科学的知識に関してはリンク先を参考にして下さい。
私は「生命の無意識は奥で繋がっている」と感性的に理解していますので「生命の情報」は共有化されているものだと思うわけです。
関連リンクで紹介の「結晶の洞窟”で発見された微生物の謎」では、「生命の無意識は奥で繋がっている」ことを間接的に表現していますが、生物学的に実証されているわけではないので、そこでは「謎」という表現になっています。
○ 原始生命はいかにしてたんぱく質をつくったか?
○ 最近の生命起原研究
○ ネオダーウィニズムへの批判と異論
○ 原猿から真猿へ5 ~共感回路の獲得~
◇ 最近の発見
科学と東洋思想の類似点と意義の違い
前に紹介した「ホログラフィック原理」で は、全宇宙は宇宙の地平面上に描かれた2次元の情報構造と見なすことができるという理論であり、これは現実感覚すら全く変えてしまうほどの考え方です。
⇒ 理論物理学(超弦理論)とホログラフィーな宇宙 「意識と無意識」と宇宙の関係性
「ホログラフィーな宇宙なんてあり得ない!」と思う方も多いでしょう。我々が観測する3次元は、低エネルギー領域での有効な記述にすぎないことを示唆する「ホログラフィー宇宙」という概念は、私的には何の違和感もありません。
むしろ科学が古来からある伝統的な東洋思想の領域に入ってきたな、と感じますね。
私は若い頃から無意識の内的体験が多く、古来からある伝統的な東洋思想の世界観のリアルの捉え方は、決して全てが荒唐無稽ではなく、それは存在の事実を感性的に捉えたものだと感じていますので。
過去数十年の間に、日本の物理学者たちが物理学の発展に対して大きな貢献をしてきたのは、東洋の哲学的伝統と、「量子力学」が、根本的に似ているからなのかもしれません。(ドイツのノーベル賞物理学者 ハイゼンベルク)
西洋科学へは東洋思想の輸血を必要としている。(ノーベル賞物理学者 シュレーディンガー)
宇宙というものは不思議ですね、それは宇宙の先を見れば見るほど、「それは外にあるように見えて内にある」ようであり、そして意識の内奥に向かえば向かうほど「それは内にあるように見えて外にある」ようでもあります。
この認識のパラドックスは、西洋哲学・科学のアプローチが一番苦手としていたはず、あるいは避けていたものですが、量子力学の登場辺りから、科学者も少しずつ認識が変わってきたんですね。
以下のサイトはすばる望遠鏡の公式サイトです。宇宙に関する最新のニュース・情報などが更新されています。興味のある方はどうぞ。⇒ すばる望遠鏡 観測成果
アメリカ合衆国の物理学者 デヴィッド・ボームが 目に見えない潜在的な秩序世界を「暗在系」、顕現化した目に見える物質世界を「明在系」と呼ぶ理論を発表し、理論的証明に至らなかったために、異端視されていましたが、ボームの発想自体は私はおかしいとは思いません。
それは「内蔵秩序である暗在系の投影によって顕前秩序である明在系が形成された」という理論ですが、この「暗在系」の領域を東洋思想は古来から認識していたわけです。
科学や西洋二元論的思考は「明在系」中心であり、「暗在系」を思考する西洋哲学も一部ありますが、あくまでも思考的探究に偏っています。東洋思想では、これを深く認識するための伝統技術さえあります。
そして精神病患者が見るものは、無意識領域の一部を垣間見たものであることも多いのですが、それは統合状態が壊れ認知のバランスを崩している状態で見てしまうものであるために、主観と客観が錯乱しおかしくなるわけです。
また精神病患者ではなくても、無意識に深く入り、その領域で起こることに不適切に過剰に囚われた場合は、自我肥大や誇大妄想、霊的幻影が生じ、同等の認知の歪みや錯乱に発展していく場合もあります。
ですが調和的な自己統合状態の場合や、その手の修練を積んだ者や、無意識に深く入る感性が元々発達していてバランスを崩さない場合、
それはむしろ豊かな芸術的感性となったり、発明や発見の「ひらめき」となったり、集合的無意識における宗教的な元型体験ともなり得るわけですね。
先のデヴィッド・ボームの理論は物理学的には異端視されてきましたが、「暗在系」という存在をボームとは違う角度から理論的矛盾がない形にまで高めたのが超弦理論であり、その超弦理論から生まれたのものが結局「ホログラフィック原理」ともいえるでしょう。
「私という個」は「世界・宇宙という全体」と無意識下では繋がっていると感じます。そして「集合的無意識と個の意識及び身体を超えた何か」がある、と感じるわけですが、この未知の何かに対する感性は、顕在的であれ潜在的であれ無意識下に抑圧されている状態であれ、「誰にでもある」ものです。
ホログラフィー宇宙論は、東洋思想の中でも仏教の唯識論の存在観と類似するものがあります。そして唯識論では「阿頼耶識」という概念が存在しています。※ 唯識論に関しての説明は省きます、以下を参考にどうぞ 。⇒ 唯識
阿頼耶識はユングの集合的無意識と非常に類似している概念なんですが、まぁユング自身が東洋思想の影響を受けた人ですから当然とは言えるでしょう。
そして阿頼耶識に含まれる業力・業種子などといわれる「輪廻」の要因とされるものをどう考えるのか? 業力・業種子=カルマはあるのかないのか?
深層心理学的に見ても、また感性的に見ても、業力・業種子=カルマというものはあると私は考えますが、「その中の情報」や作用、そして「意味」というものは、通常の業力・業種子=カルマと同じ認識ではありません。
例えば悪い人は地獄に落ち、良い人は天国に行くという、あのよくあるカルマの概念は、宗教的・文化的ミームから発生したものといえるでしょう。
また「ひき逃げされた人」は、(前世を含んだ)過去に「ひき逃げをした人」であるという場合の「この世の現象の説明」に用いられるカルマの使い方も同じです。私はこのようなよくあるカルマ(業)とは異なる意味でこの概念を捉えています。
「発現・発生させる因子」が先にあって「結果としての現象・表現」がある、というのは、例えば「遺伝子と身体・気質の関係」にもリンクしています。
ですが人は、遺伝子のみの先天的な情報設定のみで未来を決定された存在ではなく、生後の後天的な働きかけによって社会化されて人格を形成していきます。
出生前の初期設定というものは、生物学的なベースとなるものを決める作用は決定的でも、人生・人格の形成の方にはその作用は決定的ではなく、
もっと大きな可変性があり、個の初期設定以外の外部との関係・干渉によって全く新たな他の特性が付加されていくのです。
カルマの理論は自己責任論に似ていますね、悪いことも良いことも全て個人の自業自得っていうあの考え方です。ですが、私はカルマにしても責任にしても「自己を超えた複合的な力学を含んだ全体性」として捉えてています。
もちろん全体でありつつも同時に自己を含んだものでもあるので、自己責任論を全否定しているのではありませんが、運命を「全て個の単一のカルマや作用の結果」だと考えるのは、現代の自己責任の原理とよく似たものの見方だと感じるわけですね。
カルマが原理主義化すると、例えばカースト制やポアの論理にまで発展しますが、そういう運命論の原理主義的な目線は、自己責任論の究極のな姿でしょう。
原因があって結果がある、それ自体には納得するのですが、原因はもっと立体・複合的であり、結果ももっと立体・複合的である、というのが私の考えるカルマの法則・因果の法則です。
「心」と「物」は別なのか?
唯物論と唯心論は性質的には陰と陽みたいなものですね。本来は区分け出来ない全体性を、どちらか一方に分離してその片方だけで全てを説明しようとするから無理や矛盾が出てくる、という感じが。
唯識論では物質だけでなく、最終的には「心」もその存在性を否定しますが、それもまた現代物理学に近いとも言えるでしょう。
現代科学にかけているものを補うものがあるとすればそれは仏教である。 (アルバート アインシュタイン)
素粒子の研究に、ギリシャ思想は全く役に立たないが、仏教には多くを教えられた。 ( 湯川秀樹 )
「量子論と仏教 」文学研究科哲学専攻博士後期課程修了 後藤 蔚 より引用抜粋
量子論では、同じ一つの電子が「粒」であると同時に「波」であると見做される。量子論を創ったボーアがこうした「相補性」を表すシンボルとして古代中国の「陰陽思想」を象徴する太極図を好んで用いたことはよく知られているが、
本稿では、量子論を仏教と関係づけて見てみたい。大乗では「縁起のゆえに無自性、空」であると説くところを、量子論では、真空こそが量子が絶え間なく生成・消滅を繰返している舞台であるという。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元 ⇒ 量子論と仏教
続けて以下にドーキンスの「科学と宗教」の議論・対話の記事からの引用紹介です。全文を読めばわかりますが、ドーキンスから見た宇宙は価値も意味も無く偶然の産物に過ぎないわけです。
そして科学者の態度と見解としてはそれが真実であると語りつつも、同時にドーキンスは、人間の価値の問題に関しては科学の領域ではなく、それ以外に求める必要性があることもわかっているんですね。
ドーキンスはなんでも科学で解決すると思っているわけではなくて、「理系が一番」みたいな短絡的な思想の持ち主ではないんです。
「科学と宗教: ジョン・レノックス vs. リチャード・ドーキンスの対論を味わう」 より引用抜粋
科学はあくまでも科学の中で理解できるように歩みを最後まで続けて行く しかし、科学では如何ともしがたい価値の問題がこの世界にはある それを宗教に求めるのかどうかは別にして、人間として考えなければならない点である
科学者の枠を超えなければならないと考えている 確かに、神が科学を進めるモーターになることもあっただろう しかし、それを科学の中に持ち込むことは避けなければならない
少なくともわれわれが生きている間に科学がすべてを解決するとは考えられない であれば、科学に任せてしまうのではなく、常に科学を超えた視点を持っておく必要があるのではないか
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
宇宙の法則とか、絶対の真実とか..
善や悪は相対的なものです。宇宙が価値を作り出しているのではなく、価値は人間が作り出しているんですね。ある事実への批判が、ある者にとっては悪となり、あるものにとっては善にもなります。
「特定の宗教教義・宗教組織・教祖・イデオロギーなどを盲信する者」にとっては、「起きている事実」に対してであれそれを批判する者はみな悪となり、それを称賛し実践する者はみな善となるように、
善や悪を決めているものは宇宙でも「真実それ自体」でもなく、「何を価値としているか」の相対的な人間の思考なんですね。
だからこそそれらの観念や特定の人物などを唯一無二の真理などとして絶対化する時、それは宗教であれ無宗教であれ、カルト的・原理主義的な偏った不調和の姿となるわけです。
宇宙は何も決めてはいません。価値を決めるのは今生きてこの場にいる私たちであり、そしてそれは「全体の調和を基準にしたもの」でなければ価値とはいえないのです。特定の教義や思想を絶対化するカルト的なあり方は、全体の調和を乱す有害な作用にしかならないわけですね。
善悪を裁きにかける神など存在せず、それをするのは「価値を決める人間の思考」だけですが、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」でイワンが「神がいなければ、すべては許される」とのセリフ、その延長に何が生まれたのか? それは生の無価値化による非道の結果を生んだのですね。
そして「神がこの世を作ったというのなら全ての罪は神にある」というその「神」こそ、人の集合的無意識が作り出した「神」です。
ここには大きなパラドックスが存在します。価値を作り出すのは人間であり、その人間には神という価値が必要だったからこそ神をつくったのですが、
人間はその価値をあまりに絶対化し過ぎてしまい、それに強く束縛されてしまった結果、今度は逆にその価値を徹底否定することを始め、そして神は死に、人間はひとつの大きな価値を失ったわけです。
必要とされることは、今ここに生きている私たちが何を善とし悪とするかを、みなで全体の調和を考えて見出すことであり、みなで共有出来る価値を創造することなんですね。
カルト宗教やイカレタ教祖・指導者などの自我肥大した独尊主張は徹底的に無視していいのです。これは本来みなで決めることだからです。
「人間とは何か?」 哲学的探求
「人間存在研究」というサイトは、膨大な文章量の哲学・思想系サイトで文字数は半端ない量なのですが、文章は難解ではなく読みやすいです。
「生命言語理論」という哲学によって「人間とは何か?」に迫り、そして新しい価値を試行錯誤しています。哲学・思想系に馴染みの深い方、専門的な長文を読む持久力のある方は参考にどうぞ。
――言葉、アイデア、イデオロギーが世界を変える――言語・観念・思想の力で人間と社会の変革をめざそう東西思想を超えて人類の哲学を創造しよう!
⇒ 人間存在研究
コメント