「禅・瞑想」「成功哲学」のカテゴリー記事の更新です。前半は「幸福」について、そして後半は「知る」ということの多元性がテーマです。
これも大部分は去年に書いて下書きのままだった記事を編集&追加更新した記事です。
ではまず一曲、イタリアのギタリストLuca Stricagnoli さんで「スリラー」です♪
「人間には価値のある妄想でしか埋められないものがある」という事実性がある以上、「意味を与える」役割と、それを求める心は否定できず、その質そのものは異なるため、
形而上の領域を、形而下の理屈や解釈の仕方で全て測ったり、置き換えたりすることはそもそも出来ないんですね。
この本質は社会が存在する以上は変わらないので、集団社会には、宗教という形式の絶対的な価値基準や権威物語システムが一見なくても、それに代わる別の法と別の支配的ミームが結局は存在し、
神とは呼ばれない神が形を変えて生き続けるんですね。
「幸福」について
競争心を煽ることは幸福感には繋がらず、むしろ負の感情を高め、「相手を倒す喜び」は自他の比較によって生じ、「優劣の価値基準がもたらす差異感から生じる錯覚」でしかなく、
その喜びの延長にあるものは幸せではなく、肥大化した欲の達成であり、しかもその達成は幸福をもたらさず、刹那的な快がのど元を通り過ぎていくだけの「飢え」の無限ループなんですね。
よって「存在の幸せ」がただそのまま在る「幸福」という状態と質的に異なります。 競争「だけ」では刹那の喜びはもたらしても、幸福はもたらさない、ということです。
※ ただ競争心そのものが悪いとかダメとか不要である、という意味ではありません。それは幸福とは異なるもの、という意味です。
「幸福度の社会経済的決定要因 」より引用抜粋
競争 デンマークの教育現場では,競争はできるだけ排除されているようで ある。競争ではなく,「学ぶ意味」や「自己啓発的な学び」を動機とし て,義務教育から成人教育まで協同的な学習を重視している。
子どもの 親や先生が子どもに望むことは「好きなことをして生きていくこと」 「自立」,そして「自律」である。筒井(2010)は,競争心が幸福度を引き下げる可能性を示唆している (26) が,
競争の少ないデンマークの教育環境や,そうした環境の下での人間形成は,デンマークにおける幸福度を向上させている可能性がある。
(2)他人の幸福 デンマークで,経済学の専門家と議論する機会があったが,そこで構築した仮説は「デンマーク人は,他人の幸福が自分の幸福にプラスに影 響する割合が大きい」であった。
他の人が幸せを感じると,自分も幸せ を感じるというものである。人は,多かれ少なかれ,このような性質を 持っていると考えられるが,デンマーク人はその傾向が強いのではない だろうか。
引用元⇒ 幸福度の社会経済的決定要因
そして「他者と競争」は課題の成績を逆に悪化させる要因にもなる、という指摘もあります。競争のストレスが故に、勝った時の「苦しみからの解放の喜び」という錯覚が強く生じるかもしれませんが、
そういう不自然なことをしなくても「ヒトの自然な在り方で幸福になれる」のだから、出来ればそういう負の方向性を強化する社会でない方がいいですね。
日本も中国や韓国と同じく「幸福感」が低い学歴&競争社会で自殺大国なのだから。
追加更新で外部サイト記事の紹介ですが、過剰競争「より大きく、より強く、より速く」によるメンタル面の負の影響の問題はスポーツ界にも広がっています。⇒ 元NZ代表カーワン氏、増加するスポーツ界のメンタル問題に警鐘
他者と競争・協力に子どもの実行機能が影響を受けるかを調べた私たちの論文です。競争状態では協力状態より課題の成績が悪く、右の外側前頭前野の活動も低下しました。この結果を見ると、他者との競争であるテストなどでは子どもの力が発揮しにくいのかなと考えさせられます。https://t.co/atY3q5S7RR
— Yusuke Moriguchi (@moriguchiy) 2019年3月23日
そして幸福と「自己決定権」の関係性は「所得」や「学歴」よりも強い、との調査結果もあり、
これは身近な範囲で見ても、高学歴だから、金持ちだから、社会的地位が高いとか、そういう外面的なことだけで幸福は測れない、という実感は凄くあるのでよくわかります。⇒ 「日本人の幸福感は収入より自己決定度で決まる」という調査結果
上↑に紹介の外部サイト記事にあるように、「自分で人生の選択をすること」が、「選んだ行動の動機付けと満足度を高める」、これが、幸福感を高める重要なファクターのひとつになっている、ということですね。
このことは以前このブログで扱ってきた「内発的か外発的か」というテーマとも関係しますし、自己の課題を自分で解決していく自己効力感とも関係します。
そしてこれは夏目漱石の「心」の中にも見事に描かれてる要素なんですね。
「心」に登場する主人公の先生は、「K」に対するライバル意識、嫉妬の心から、「お嬢さん」を「獲得する」という競争(ゲーム)を開始するわけです。
それは「勝つ喜び」であり、獲得欲求であり、「幸せ」「幸福」ではありません。その結果、先生はライバルを蹴落としてお嬢さんをゲットすることは出来ましたが、幸福にはなれなかったのです。
人は他者の欲望を欲望する (ジャック・ラカン)
そして先生との競争など全く考えておらず、ただお嬢さんを純粋に愛していたKは自殺するんですね。
先生の不自然な「恋心に擬態した競争心」が二人の間に侵入しなければ、そしてKがもしお嬢さんと自然にむすばれていたなら、
その自然さはKもお嬢さんも共に幸福に導いたでしょう。そして先生も自殺しなかったでしょう。幸福とはそういう性質のものなんですね。
自己の価値基準とポジショントークで上から押し付ける「自称:幸福論」も世の中には多々ありますが、大体が人を幸せにはせず、
「パイの奪い合いで勝っただけの極一部の人」の成功者バイアスを強化し、自己正当化することで肥大し続ける自我運動は、「競争の喜び」を「幸福」にすり替えることで、絶えず「飢え」ていて、その「飢え」を刹那的に満たすゲームが必要なんでしょう。
知って知らないまま生きるもの
「人間」に関して、「生命」に関しての「知」は、科学者であれ何かの専門家であれ誰もが「中途半端」な「知」でしょう。
ですが、脳科学だから心理学だから「人間」をもっとも深く理解できる、脳を見ていけば「人間が何か全てわかる」と思うのであれば、
その単純化こそがもっとも「浅いもの」であることすら理解できなくなり、逆に「人間とは何か」を見失うでしょう。
「非合理的とされたもの」の一部には、実際は非合理ではなく、見る人が見ればそこには合理性があり、同時に価値も意味、かけがえのない多元的な質を含んでいても、
「多元的な合理性・意味性を理解できない者」によって、一方的に無意味化・無価値化されて「非合理的」とされることも多い。
そして「知ることをもって知ることが出来なくなる」というのは、そもそも言語化・概念化というもの自体が、対象の質の全てを決して表さない分離性によって対象を切り取り、
文字化・記号化することで境界化し、それは存在の全体性を細かく分断することでもあるため、
「それによって無数に分断され無自覚に理解の外にはじかれたもの」があり、 「言語化することそれ自体で見失われる非言語的な質」、
そして 膨大な「知」が無意識に消えていく、という、「知」の「無知化」 の逆流的現象があり、 ますます「意識の知」は「無意識の知」を「ない」ものとして知の全体性から切り離し、
「知」そのものが、別の領域では逆に「無知化」を進めている力学になっていることに気づけなくなる。
「文字・言語的な理解」をもって「知った」に置き換えられることが、逆に「知ることを出来ないままにする」を強化する両義性への洞察は、
「知っている状態」「その前提」を一度解体し、「脱構築」することを徹底的にやる「内なる自浄作用」を同時に持たないかぎり、
「洞察それ自体で存在・世界の理解の範囲を限定し強化する」という、「見るものと見られるもの」の自作自演のループにハマる。
むしろ「文字・言語的に知るという思考的理解」に固執せず、「知らないまま」そのまま世界に触れていくという「無知なる知る行為」こそが、
「知識や情報では知ることが出来ないものを深く知る」というパラドックスでありつつ、同時に「言語的な知」の解体としても作用することがある。
どれだけ賢者、聖者、偉人などの本を読みあさっても、本質的なものほど逆に得られないどころか、逆に「論語読みの論語知らず」になり、「読んで知った」という錯覚だけ増していく皮肉な結果になる。
「思考では知ることが出来ないもの」「本質がわからないもの」を、本を沢山読めば、言語や文字情報だけでその本質が誰でも知れるなどと思わないこと、
文字だけ読んで意味を想像的に理解した、という人よりも、一切読まずにそれそものに本人が取り組み、足を運んで身体で見て聞いて感じる人の方が、最もよく「リアルそのもの」を読む。
「知らないまま知っている」の「知る」とは、教養や知識次元に止まるものではなく、知が上辺ではなく本当に身体化されてそのまま 現象化している状態です。
「知らないまま知っている」方がずっと賢さ・深さ・力がある、ということは、(相対的に「無学」「無教養」であっても)実際に多いんですね。
「己の無知さ」を抑圧化・防衛化し無意識化してしまって いることがあるのは、「私は知らない」が原因ではなく「私は知っている」がそうさせているのであり、
人間の両義性において、「自身が知っているもの・自覚的なもの」よりも、 「無自覚なもの・知らない領域」を意識して理解したり脱構築する 作業を殆どしていない場合、誰でもそうなる可能性があるんです。
存在についての「認知限界」を知る、ということは、「本当は知らない」、そして「知ることは出来ない」ということを知ることで、
それを知るから自身の認知を絶対化することをせず、対象を見つめ続けていく「自己完結のない眼差しの変容」が生じ続けるわけですが、
「無意識は存在に触れている」という感性領域の「知」 は、概念的な知とは全く質が異なる、ということです。
「私」は知らないが、存在は多くを知っている、というこの矛盾状態は、無意識に直接触れるときに開示される。この開示そのものは 決して言語化されえない。
多くのことを中途半端に知るよりは何も知らないほうがいい。他人の見解に便乗して賢者になるくらいなら、むしろ自力だけに頼る愚者であるほうがましだ。( フリードリヒ・ニーチェ)