今日のテーマは「日本の美 日本の心」です。テーマは2回に分けて書きますが、part1は「自然と季節と神道文化」です。私は「神道文化」はかなり優れたものだと考えています。
何故「神道文化」が優れているのか?ということは最初に紹介の動画の後に書いています。 まずは美しい日本の四季の映像をどうぞ♪
「無数の個人物語」と失われる「共有物語」
世界がナラティブ化し「無数の個人物語」が生まれる現代社会では、「人々をつなげるツール」(例えば携帯・ネット・ソーシャルメディアなど)は増えてはいますが、「人々をつなげる共通の物語」はむしろますます希薄になっています。
それは以前のように「一つの支配的な物語」に人々が依存せず、他者に抑圧されず、「それぞれが自己を自由に表現し個性を構築する」という「ナラティブ化した社会」にどんどん移行しているからです。
こういう在り方にはそれなりの良さもあると感じるし、ナラティブアプローチによって頑なな固定観念、盲信的態度などの「否定的で排他的な在り方」を相対化することで、
もっと柔軟な発想を持ったり、「異なる他者の考え方」への寛容性を身につけるという意味では有用なものとは言えます。
人間というのは、それぞれに自身が心に持っている観念を信じ、それを前提にした思考を「絶対」のように思い込んだりすることがよくあるため、
このような頑なな「信念同士」が集まれば、永遠の対立のようなものがそこに生まれてくるわけです。その最も極端な例がカルトであり、あるいは原理主義的な宗教、そして一神教の宗教がその次あたりでしょう。
これは無宗教・無神論の一般人の場合でも、固定観念が極端に強い者同士が対立する場合は、やはりそこに永遠の対立のようなものが生まれてきます。
多くの場合、ものの捉え方・思考の傾向というのは、無意識的に外部から刷り込みされたものが前提にあるのですが、囚われが強い場合はそれと強く一体化しているため、それに気づけない。
それに対して多様性の尊重、 「人それぞれ」の視点や経験を尊重することが、ナラティブアプローチの基本です。
一人一人が異なる物語を持ち、それを理解し共感することで、より良い解決策を見つけることができます。
ナラティブアプローチは、個々の人々が持つ独自の物語を尊重し、その中から共通点や新たな視点を見つけ出す手法です。
ですがこの「構築主義的なものの見方」があまりに行き過ぎると、今度は逆に全てが相対化され過ぎてしまい、「重要なものとそうでないもの」の境界がどんどんあいまいになってしまう弊害も出てきます。
「人それぞれ」という言葉は一見すると「誰もが等しく尊重されている、等しく扱われている」かのような錯覚を与えます。
しかし、「ナラティブな現実」というものは、「孤立した個人」がそれぞれに個性(自己物語)を構築化するだけであるのだから、一見すると自由で対等に見えても、結局はその構築化の優劣、能力の差で自他が相対化されてしまいます。
そして「孤立した個人」の中には、「個性の構築化が上手く出来ない者」や「自我の危機的な状況下にあるような人」も沢山いるわけで、そういう人は「一つの支配的な物語を共有していた頃」よりもかえって取り残されてしまうことも起きてくる。
そして「誰の人生であれ、みな等しく本人自身が構築したもの」ということになってしまって、しかもそれがどのような状況であれ等しく自己責任として押し付けられるてしまう。
タテマエとしては、「支配的な物語が存在しない対等な物語の世界」ではあっても、「ある物語に対してより優位な物語」という格差は存在しているわけです。にも関わらず、自己責任だけは等しく一律に個人に課せられる。
しかも「一つの支配的な物語」を共有していた頃のように一致団結も出来ないため、「それぞれがバラバラに孤立した個人の問題」として抱え込んだまま放置されてしまう、ということですね。
「ナラティブ化した社会」にあって自身を上手く構築化出来ない時、人は『 無数の相対化した価値観が存在する「依って立つ普遍的なもの」がどこにもない世界 』に対し、「根本的な不安感と果てしない孤独感」が強く生じてくる。
つまり構築主義や構成主義の本質的な問題は、「主体」と「本質」を無くしてしまい、結果的に現実の認識が際限なく価値相対化され、バラバラに分離された根なし草たちが集まっただけのカオス世界を生み出すことに繋がる、ということ。
以下に紹介のPDFもその辺りの構築主義の矛盾に答えようと試みています。 参考にどうぞ。
構造構成主義では、先に書いた構築主義や構成主義の本質的な問題を回避する方法を採用しています。「現象=感じ生じている主観的内容」の方をより重視するわけですね。
つまり、構造構成主義は原理主義の対極のような姿勢でありつつ、同時に感性的な主観を重視するという点で、相対主義の根なしのカオス状態に陥らないように配慮もされている、というわけですね。
以上のことを踏まえて、私は「構築主義」はそこに「本質主義的なもの」を加え上手くバランスさせることで良い効果を発揮すると思うんですね。
「構造構成主義」の参考として以下の記事を紹介します。
「TETRA’S MATH 数学と数学教育」 より引用抜粋
「構成主義」と「構造構成主義」の相違点
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構成主義と構造構成主義は、知識を「主体の経験や行為による構成」とみなし、唯一の正しい理論などは想定しない点では一致している。しかし、構成主義が「すべての理論(構造)が等価」であると考えるのに対して、構造構成主義は、知識をローカルなものとしながらも、建設的な意見をすり合わせることにより全体知を相互構成していこうとする多元論的統一論者の立場をとる。
=============================多元主義のテーゼ、3つの公準で示したように、多元主義はすべての立場を等価と考えるようなのですが、構造構成主義は、あくまでも多元論を“出発点”とするということのようです。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ http://math.artet.net/?eid=1277142
自然と季節と神道文化
上記のことをまとめると、この「ナラティブ化した社会」にあって、日本の歴史・自然・文化と調和した本質的な要素としての根っこを持っている「神道」というものは、
「人々をつなげる共通の起源・物語」として「集合的なシステム」となりつつ、同時に、非対立的で多元的スタンスであるため、「神道」は多様化した現代社会と相性が良く、そして日本人固有の歴史・自然・文化・気質とも相性が良いと言えるわけですね。
伊勢神宮 「日本のこころ」
日本の自然と調和した神道文化。「伊勢神宮」による 「日本のこころ」シリーズです。とても美しい風景映像とナレーション入りの動画です。
※ 下の一覧表は全て動画にリンクしています。
杜 (もり) | 祓 (はらい) | 常若 (とこわか) | 祭 (まつり) | 和 (わ) |
柱 (はしら) | 祈 (いのり) | 産霊 (むすひ) | 八百万 (やおよろず) |
◆ 二十四節気
二十四節気とは、太陽の黄道上の動きを視黄経の15度ごとに24等分して約15日ごとに分けた季節のことです。
※ 下の一覧表は美しい日本の季節の風景とナレーション入りの動画「京都二十四節気」
にリンクしています。「NipponArchives」さんの力作です。
1.立春 | 2.雨水 | 3.啓蟄 | 4.春分 | 5.清明 | 6.穀雨 |
7.立夏 | 8.小満 | 9.芒種 | 10.夏至 | 11.小暑 | 12.大暑 |
13.立秋 | 14.処暑 | 15.白露 | 16.秋分 | 17.寒露 | 18.霜降 |
19. 立冬 | 20.小雪 | 21.大雪 | 22.冬至 | 23.小寒 | 24.大寒 |
日本の山と風景 清らかな水を育む美しき自然
日本には素晴らしい山が数多く存在し、自然景観も実に多様で、季節の変化は見る者を飽きさせません。そして神道の自然観、古来の日本人の自然観は、とても繊細な感性を持って美しき自然を大切に守ってきたんですね。
そして美しき自然は「清らかな水」を育み、それは生命を育んできたのです。以下に今回のテーマの参考となる記事を引用紹介しますが、日本は物質文明が発達した世界有数の先進国であるにも関わらず、森林率は世界第2位なんです。
物質文明を発達させつつ自然も大事にする、というこの二つのことをバランスさせることが出来た理由、それは「自然を守ろうとする伝統的な集合意識」、つまり神道文化なくしては達成できなかったでしょう。
「私の森.jp」 より引用抜粋
まず、森林分布を地域別に見てみましょう。面積ではヨーロッパが最も広く1,001百万ha、南米が832百万ha、北中米が706百万haの順となっています。
また、面積に占める森林の率では、南米:51%が最も高く、次いでヨーロッパ:46%、北・中米:26%。同じ森林率を「国別」にすると、トップがフィンランド:73.9%、2位は日本で68.2%、スウェーデン:66.9%、韓国:63.5%、ロシア:47.2%と続きます。日本が世界有数の森林国であることがここでも確認できます。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
上に紹介の「私の森.jp」さんのサイトでは、森と自然の大切さに関するテーマを深く掘り下げています。
そして神道文化が日本の森を守ってきたこと、自然の大切さを教え伝えてきたことをわかりやすくまとめているので、その記事のリンクも紹介しておきますね。⇒ 日本の森と神様
それでは最後に、富士山の動画リンクを紹介して記事の終わりとします。
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