本当は弱者は存在しない、というタイトルですが、この「弱者」の意味は、心身の病気や身体障害者、幼い子供たちなどのように、大人の健常者の平均的な体力・能力が機能的に十分に発揮できない状態にある人は除いたものです。
ではここで先に「沖仁」さんのフラメンコの動画を紹介します。弱者は存在しない、マジョリティとマイノリティの葛藤に関する記事は動画の後に続けて書いています。
好きなアーティストの一人「沖仁」さんを今日ブログで紹介しようと思っていたら、タイミング良く今日の昼のラジオ番組にゲストとして沖仁さん呼ばれていて、
数あるギターの中から何故フラメンコギターを選んだかという話を沖仁さんが話していたのですが、
沖仁さんはフラメンコギターの生々しさに惹かれたと話し、また、フラメンコの歴史が社会的に虐げられた弱者たちをルーツとする音楽だったから、そこにも惹かれたという話をしていました。
彼も反逆のスピリットを持ったロックなフラメンコギタリストだったんですね。彼の音、ステージは素晴らしいパワー、生命力を持っています。
「勝ち組」「負け組」など他者が勝手に押し付けたものに過ぎない
フラメンコ(Flamenco)という言葉の語源はアラビア語のfelag(田舎者)とmengu(放浪者)から発生していると言われていますが、
数々の人生の困難、や社会的な迫害を受け続けたジプシーたちの排斥された悲しさ、苦しさ、喜び、情熱、そして長い間抑圧化されていた人生がフラメンコの激しい踊に込められているんですね。
社会的弱者を生産しているのは、「社会上部の知略と抑圧のシステムによる印象操作と、それによって派生した同調圧力だけということを理解できているでしょうか?まぁ平たく言うと魔女狩りシステムです。
ではここで別サイト「中島朱実の世界」からの記事を引用紹介します。
「中島朱実の世界」 より引用抜粋
「「勝ち組?」「負け組?」…どうでもいい」
格差社会とは厄介なもので、何かと人を物差しで計りたがる。尤もそれが世間というものだが、この怪物が生み出した物差しの象徴が「勝ち組」「負け組」と呼ばれているものではないかと思う。バブル崩壊後の90年代以降に於いても、未だにそのような分類のされかたをしているのである。
この「勝ち組」という言葉は、第二次世界大戦中にブラジルやハワイに移住した日系人が、戦争が終結したのを知らず、その情報不足により、やれ「日本が勝った」だの「アメリカが勝った」だのと主張し合う二手の集団に分かれたのが発端だ。
(中略)
しかしながら、戦争終結後も現在の格差社会に於いても、「勝ち組」と「負け組」を分類している本質的な部分は同じなのだ。どちらも個々の思想を持った人間が集団化している事実には変わりなく、その共同意識によって分かれているだけなのだ。
従って、それらを決めている権化を突き詰めて行けば、原因は必ず「心」に帰結する。だから、もしもあなたが世間から「負け組」なんて嘲笑されても放っとけばいいのだ。
そんなことよりも大事なのは、どのような時にでも自分自身の精神を平安に保ち、知恵のある過ごし方が出来るよう自己を習慣づけていくほうがずっと重要だ。
「勝ち組?」「負け組?」…どうでもいい。それでもあなたが「勝ち組」「負け組」というものを気にかけるのなら世間ではなく、自分自身の心の中で「勝ち組」「負け組」の基準を決めればいい。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
マジョリティとマイノリティの葛藤
私がここでいう存在しない「社会的弱者」とは、「心身健常な大人でありながら、関係性の優劣と特定の基準での相対的な差異のみで社会的弱者とした固定化された存在」のことであり、
それらの人々の潜在的な存在力が生かされているのなら「無能で使えない存在価値のない人間など本来一人もいない」という意味であり、
「力関係の非対称性」は「固定的で静的なもの」だけではなく「多元的で動的なもの」を含み、「絶対弱者」、つまり全ての関係性において固定的で一貫した弱者が存在するのではなく、
そして一時的には圧倒的な強弱・優劣の差がある「関係性」も無常であり、変化する可変性があるために、強弱・優劣は入れ替わる動的で相対的なものを含んでいる、ということです。
「静的で固定的に感じられるもの」の殆ど全ては、後天的なものであり、否定的な影響力、制限によるものであり、個々の存在力が適切に生かされていない関係性・システムの結果の必然的な現象なんですね。
様々な角度から見るならば、人の能力は実に多種多様で、一つの基準からは測れません。ですが、日本の社会システムはあまりに人間を均一化しており、判断基準に幅や種類が少なく、また能力の育て方にも個々の特性が無視された在り方ですね。
日本の教育システム、その後の進学や就職の流れを見ても、そこには選択の余地が非常に少ない現実に最適化させるために、均一化し限定化された人生コースが大部分なわけで、これを維持することばかりに力を入れ、
根本的なところで変えていく試みをしてこなかったことが、またさらなる社会の閉塞感と創造力・活力の欠如と、多様な存在力の全く生かされない社会を形成している原因というわけですね。
以下の記事も参考にどうぞ。
⇒ 日本の教育制度は良き社畜を育てるために存在しているんじゃなかろうかと
社会の上下共に、本来人間存在としては何の違いも無いですが、多様な能力の生かされるシステム的な選択肢・機会が少ない、均一化の同調圧力が強く、法的な規制と「出る杭叩き」が強いなどの負の特徴はどんどん強まり、
また最近は様々な分野の表現の個性の違いさえ認めずに、言葉狩りやら揚げ足取りでしかない失言攻撃や、過剰な印象操作や均一化への同調圧力ばかりがメディア関係では特に目立ちます。
結局、そういうことを大々的にやっている人々というのは「社会の上部、少数の支配層・既得権益と、それに印象操作されたノイジーマイノリティ(ラウドマイノリティ)たちであり、社会的に本当に非力なマイノリティーにはそんな力はないのです。
そしてサイレント・マジョリティたちは、この社会の矛盾や歪みなんてわかっちゃいるけど、深く関わらない。
※ サイレント・マジョリティ: 「物言わぬ多数派」、「静かな多数派」
※ノイジー・マイノリティ: 「声高な少数派」サイレント・マジョリティの対義語とされる。ラウド・マイノリティとも言われる。
社会的少数者であるマイノリティたちが、社会的な偏見や差別や抑圧に対する事実を伝えて、その公的な改善の要求を社会的多数者に向けて認知させることにより、ポリティカル・コレクトネスの形で実社会に反映させることがあるが、
※ポリティカル・コレクトネス:人種・宗教・性別などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を用いる公平さのこと。
ノイジー・マイノリティとは、そういった正当な社会運動の対立概念として扱われるもののはずであるが、これを同一視させる印象操作で、また社会的少数者を抑圧化させる。
そして多数者、あるいは力的に優位な側による負の同調圧力の姿を見て、サイレント・マジョリティなる沈黙者も同時に生まれるということです。
そしてマクロな次元における印象・情報操作に抑え付けられ、何も出来なくさせられていく。少数者の利益の拡大と立場の保持、責任の回避と批判の矛先をかわすためにそうさせられているわけです。
それでは、最後に過去の偉人・著名人の名言を3つ紹介して記事の終わりとしたいと思います。
虹を見たければ、ちょっとやそっとの雨は我慢しなくちゃ。 (ドリー・パートン)
幸福になる秘訣をお教えしよう。できるだけいろいろなものに興味を持ち、物ごとであれ人間であれ興味を感じるものを無視せず、できるだけ好意的に接することだ。 (バートランド・ラッセル)
心が痛い日だってそりゃあるわ。 (マ・レイニー)
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